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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

1960年代帰還事業の犠牲者の記録

2018年10月02日 | 藤田の部屋
 ◎ 〔再録〕 廃墟の空に舞うあまりの嘆きと哀しみは
   (アリ・ラメダ、ベネズエラの詩人)
藤田勝久

 「現代のゲットーとアウシュヴィッツ、北朝鮮強制収容所の地獄のような実態を全世界の人に知らしめ、一刻も早く良心囚を救い出さなければならない。世界でこれほど悲惨で無視されている空間は他にないのであるから、世界はなぜあの時沈黙していたのかと批判されることがないように、とりくみの遅れを急いで克服しなければならない。」(小川晴久、1995 年)
 ○1959.12.25、産経新聞、 「暖かい宿舎や出迎え/第二次帰国船、雪の清津港入港/細かい心づかいの受け入れ」(坂本記者)
 ○1959.12.25、朝日新聞、 「…家賃はただみたいに安い。米もただみたい。目に見えて生活のよくなって行くのでうれしくてみんな働きたくなる」(入江特派員)
 ○1960.1.9、読売新聞、 「北朝鮮へ帰った日本人妻たち「夢のような正月」、ほんとうに来てよかった」(島本特派員)
 ●1999.10.13、民団新聞、
 「元「迎接委員」呉基元に聞く」「船の上でも衝撃が走った。年老いた在日一世は想像していた世界と現実とのあまりの違いに声を失ったが、若い在日二世はタラップを降りながら「これはウソだ。何かの間違いだ」と日本語で大声を上げた。歓迎会は急遽中止した。」
 ●2000.3、金正日、朝鮮総連・許宗萬副議長等に発言。
 「外国人に以前は、もっとも良いところ、もっともうまくやっているところだけを選んで見せて、わが人民たちは、他国を羨ましがることなく、誰もが幸せに暮らしていると宣伝した。」
 ●2003.11、脱北した榊原洋子
 「祖国だ」という声がした。ー薄汚い灰色の建物ー目をそむけたくなるほどよれよれの服を着て頭に荷物を載せて歩く婦人たちー裸も同然の精気のない顔をした子供たちー
 ●2001.6.4、東京地裁民事部への訴状より(脱北した金幸一)
 「…1960 年6 月16 日、原告ら帰国者は審査を受けた。神戸出身の60 歳の老人に対し、審査員は「祖国が欲しいのはあなたみたいな老人ではなく労働力である。暖かな母の懐のような祖国だとか、理想的な楽園だとか、そんな言葉はこそばゆい戯言に過ぎない」と言い放った。…
 ●2008.6.13.大阪地裁民事部へ訴状を提出した高政美
 「…帰国船は清津港に到着した。兄は清津の施設や風景と出迎えの人々の様子に落胆し、「船から降りない、日本に帰してくれ」と言った。下船しても兄は日本への帰国を要求していたため、どこかへ連行されていった。1968年5月頃、原告は、家族と共に兄に会いに行った。弁当を作り、一番いい服を着て行った。山奥にある収容所だった。まるで動物園のおりのようで、鉄格子の中には20人ほどいたと思う。みなライオンのように髪が長かった。大小便の上で寝そべったり、這いまわったり…。そのうちの一人が引っ張り出された。顔は浅黒く、髪が腰まであった。母が私の腕をつかんだ。とても痛かった。一度顔を見た父は、わたしたちを連れてすぐにその場を離れた。」 「…父は3月に(1976年)連行された。…帰ってきたときには立って歩くこともできないほど衰弱しきっていた。手足の指の骨はほとんど砕かれ消毒しようとすると肉が腐っているため溶け落ちてしまう。拘束されている間は1メートル四方の狭い穴に閉じ込められ、拷問を受けるときだけその穴から出され終わるとまたその穴に戻される。その繰り返しであった。父は、「自分たちの野心のためなら人の命など虫けらほどにも思わないのが北の為政者達だ。わしは今度全面否定して奇跡的に釈放されたけれど、多くの人がひどい拷問に耐えられなくて、やってもいないことをやったと認めてしまった。」
 -帰国者は当初から監視対象とされ、成分表では中位以下に位置づけられた。帰国者の中にも階層分けがあり、日本人の配偶者がいる者の多くは最低辺に位置づけられ農村に配置された。底辺には1990年代の危機の時代に配給が停止され多くの餓死者が出た。1800人の日本人妻で現在生存しているのは100人ほどでないかと言われている。-
 ー東北大学関係者、学生や教師・インテリ層の帰国、マグジャビ(手当たり次第)事件、「何でこんなとこにそんなインテリが帰国してくるんや、スパイだろう!」帰国者のインテリはのきなみ殺されたー
 ー1985年、田月仙は金日成の前で独唱した数日後に兄と面会。長兄が彼女に託した母への手紙
 ー「北朝鮮各地にある収容所で今も苦難を強いられている同胞のために戦うのが自分の使命である。オモニ(お母さん)、あまり心配しないでください。どんな逆境の中でも善と悪を見抜くことができる、また正義のためなら命を捧げることもできる、そういう意志を育ててくれた愛するお母さんに心から感謝しています。」
 長男、三男、その後亡くなる。四男は音信がない。

 ー1972年、金日成の還暦祝賀として、「人身御供」が行われた。成績優秀な200名の朝鮮大学校学生が北に送られた。ほか40名のオートバイ部隊も。副校長、パク・ヨンゴンは260名の学生を送ったと述べている。-
 -「今年中に帰りたいと希望しているのは、東京朝鮮高・中級学校の場合全校生(2400名)の約半分に達する」-『総聯』、1961.3.6
 -「帰国者が残していった不動産などが韓徳銖ら総連幹部の個人名義になっているんですね」ー全京子、元朝鮮青年同盟中央本部副委員長兼組織部長
 -「例えば、新宿・落合にある韓徳銖議長の家。あそこだけはね、一年中永住帰国したはずの家族の誰かがおるよ。」
 ー「朝高から日本の学校へ進む、転校するなんて言ったらどうなると思います?地獄の毎日ですよ。…」「…朴さんが朝鮮総連を許せなくなったのも、そういう所なんですか。」「…一言でいえば、嘘だからよ、みんな。学校の教育から何から全部嘘だからです。…」1994、「朝鮮総連の研究」-
 ☆インターネット・「帰国者チャンネル」より
 「一家を率いていった人たちは一番最初に家族が飢えなければならないという現実に打ちのめされた。「あちらにいたときには、はとぽっぽが食べていたのにこちらでは僕がこれを食べるの?」まっ黄色なとうもろこしご飯を前に3才の息子から質問された母親は床をたたいて号泣した。…」
 「一言の朝鮮語も知らないで帰国した人でさえ日本語をしゃべってはいけないといわれ、精神に異常をきたした人も少なくなかった。日本へ帰ってきて9万4千人の人たちがどんな地獄に落とされ、声も立てずに死んでいったかを知らせ、その人たちを北朝鮮に送りこんだ者たち、それは朝鮮総連だけではない、日本のありとあらゆる議会と団体も関与していたのだから、今からでもそのときのことを思い出し、心からの良心を持って、彼らの救出に先頭に立っていただきたいということを訴えるために(国境を越えて)日本に戻ってきた。」
 「日本に帰って先祖の墓へ参って、その墓石を抱いて自殺するのを目的に生きてきた彼女…日本人妻たちがみんな死んでしまう前に、早く救いの手を差し伸べて欲しい。刻一刻、一人ひとりの日本人妻たちが死んでいってる。」
 「私は朝鮮にいたときたくさんの日本人妻と付き合っていました。その彼女たちが日本を離れるのに先立ち、直接その背中を押したのは一緒に住んでいた韓国籍の夫ではありませんでした。夫から北朝鮮へ帰ろうといわれて彼女たちは戸惑い、悩んでいました。」
 「…そんな彼女たちに最後の決心をさせたのは、夫でも朝鮮総連でもなく日朝協会、帰国協力会、帰国推進婦人会など様々な日本の団体でした。その人たちは彼女たちに『2~3年後には日本への里帰りは実現するから安心して行きなさい』と太鼓判を押して、朝鮮へ渡ることを促しました。決心しかねてぐずっている人のところには毎日のように訪れて、『この先あなたには希望と幸福の毎日が待っていますよ』と熱心に説き伏せました。特に東京界隈に住んでいた人たちには、当時としてはただ一つの北朝鮮紹介書だった『38度線の北』の著者である寺尾五郎氏の妻を先頭とする婦人グループが毎日のように訪れ、早く行くようにとしつこく勧めたそうです。私の知人は『私をここに連れてきた夫よりも、寺尾五郎の妻らが本当に恨んでも恨みきれないほど憎い。あの人たちは何を根拠にあれほどしつこく北朝鮮行きを勧めたのだろうか』と口癖のように言っていました。」
 「1800人以上の日本人妻の北朝鮮行きに関して熱烈に後押しをした人たちがどんな目的でそのような行動をし、自分たちが送りだした日本人妻たちが不幸のどん底であえいでいることを知った後、どうして彼女たちの救出運動を起こさなかったについて知っていらっしゃる方がいらっしゃいましたら教えて下さい。日本人が背中を押して送りだした日本人妻たちにどうしてそれほどまでに冷淡であったかを知りたいのです。」
 「いつか必ず日本に帰りたい。死んでも日本に帰り着きたい。日本に対する望郷の念を胸に、今日も擦り切れた雑誌を目を皿のようにして読んでいる人たちがいる。」
 『藤田先生を応援する会通信』(第42号 2010/7/8)
http://wind.ap.teacup.com/people/4231.html
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