◆ 起こるべくして起きた 権力行政で対応は無理
日本は福島原発事故と、教育の崩壊により危機的な状況にある。大津市の事件のようないじめ(指摘されている通り暴力、傷害、恐喝等犯罪であるが、この稿では便宜上いじめとする)の蔓延は教育の惨憺(さんたん)たる有様を示している。権力的教育行政のもとでいじめは、起こるべくして起こっている。これに政治の混迷がさらに社会の危機を深めている。闘いなくしていじめはなくならない。
■ 非民主的な教育現場
いじめの蔓延の原因の一つは、教員が非民主的な教育行政でいじめられていることにある。いじめをなくす努力をするべき最前線の教員自身がいじめられているのでは、いじめがなくなるわけがない。
教員は自身がいじめられていること(いわゆる忙しさも含め)の対応に追われ、子どものいじめへの対応はおろそかにならざるを得ない。
■ なくなった 教員集団
その中でも努力をしている教員のおかげでもっている学校もあるが、いじめへの対応などは教員集団がチームワークを組んで当たらなければ成功の可能性は低い。
しかし行政や管理職による教員に対するいじめに関連して、組合の分会も消滅状態で、学校の教員集団は今やどんな形にしろ存在せずチームワークも組みようがない。
歓送迎会、忘年会、職員旅行などはやる意味がなくなり、ほとんど行われなくなった。職員会議は上からの伝達だけで話し合いの場ではなくなり、非公式の話し合いの場も消滅した。いじめなどの情報交換も不足することになる。
■ 教員へいじめも多発
教員が日々どのようにいじめられているかは、あまりに多すぎてここで詳しく述べることはできないが、一例をあげる。
「日本はかって侵略戦争をやった」という授業をやっているという情報を得ると、戦前、戦中の視学官そっくりに担当者をその教室に派遣し、その教員に研修を命じ、授業をやらせないでくだらない研修を長期間にわたって受けさせ、研修の教官の方が論破されると「研修の成果が上がっていない」とさらにいじめを続け、ついには免職に、といった具合である。
■ 責任回避の管理職
日常教員をいじめている行政や管理職、中間管理職は常に思考が責任回避にむかっており、いじめがあきらかになっても、いかに責任を逃れるかが最大の関心事なので適切な対応をするわけがない。
■ 重要な家庭状況と社会環境
もう一つ問題なのは家庭の状況との関連である。
私の経験では暴力的傾向のある生徒の家庭は親が暴力的であった(その子どもたちの指導は困難を極めたが、私のころは教員集団全員であたることができた。だから教員の仕事が好きだった。今は?)。
それから類推すると、現在のように、賃下げ、不正規雇用、馘首や、朝鮮人、身障者、被災者、教員、一般公務員(天下り官僚ではない)に対するものなど人権侵害があ、ふれている社会では家庭教育も崩壊している家庭が多いと考えられる。
大人の社会でいじめが蔓延していれば、子どもの社会でいじめが蔓延するのは当たり前である。
行政や会社でいじめを担当している人物はどういう家庭教育をするのだろうか。人権侵害だらけの大人社会をみていじめっ子になるのも当たり前である。
私は小学生時代集団疎開先でさんざんいじめられたが、いじめっ子は親がやくざだった。その頃はいじめっ子と言ってもひとりふたりだったが、今は大人にいじめ担当が多くなっている、その影響はどうか。
■ “いじめ”は犯罪重大な人権侵害
いじめ集団の特徴の一つは犯罪を犯しているという意識がなく、遊びの意識しかない。すなわち普通のことなのだ。大人たちが普通のこととして人権侵害をしているのと対応している。
もう一つの特徴は責任回避でこれも大人たちと似ている。
自分はそこにいただけだという子が多い。そこにいるだけで犯罪の加害者になってこの犯罪に責任があるということは考えない。
指導する側もいじめは凶悪犯罪だということを徹底しなければならないのは当然である。
■ 組識的な闘いがカギ
大人の社会でいじめられている人々もたたかわなければならない。同じようにいじめられっ子もたたかっている先生(残念ながらあまりいないが)を見習って強くならなければならない。
私の集団疎開先での経験では、同級生の一人がみんなを組織し、集団でいじめっ子に立ち向かっていじめをやめさせるのに成功した。
教員も行政や管理職、中間管理職からいじめられぱなしでなく、組織的にたたかわなければ学校でのいじめもなくならないであろう。
『週刊新社会』(2012年8月28日)
都高教退職者会会員 西村昭
(全労協全国一般東京労組三多摩地域支部顧問)
(全労協全国一般東京労組三多摩地域支部顧問)
日本は福島原発事故と、教育の崩壊により危機的な状況にある。大津市の事件のようないじめ(指摘されている通り暴力、傷害、恐喝等犯罪であるが、この稿では便宜上いじめとする)の蔓延は教育の惨憺(さんたん)たる有様を示している。権力的教育行政のもとでいじめは、起こるべくして起こっている。これに政治の混迷がさらに社会の危機を深めている。闘いなくしていじめはなくならない。
■ 非民主的な教育現場
いじめの蔓延の原因の一つは、教員が非民主的な教育行政でいじめられていることにある。いじめをなくす努力をするべき最前線の教員自身がいじめられているのでは、いじめがなくなるわけがない。
教員は自身がいじめられていること(いわゆる忙しさも含め)の対応に追われ、子どものいじめへの対応はおろそかにならざるを得ない。
■ なくなった 教員集団
その中でも努力をしている教員のおかげでもっている学校もあるが、いじめへの対応などは教員集団がチームワークを組んで当たらなければ成功の可能性は低い。
しかし行政や管理職による教員に対するいじめに関連して、組合の分会も消滅状態で、学校の教員集団は今やどんな形にしろ存在せずチームワークも組みようがない。
歓送迎会、忘年会、職員旅行などはやる意味がなくなり、ほとんど行われなくなった。職員会議は上からの伝達だけで話し合いの場ではなくなり、非公式の話し合いの場も消滅した。いじめなどの情報交換も不足することになる。
■ 教員へいじめも多発
教員が日々どのようにいじめられているかは、あまりに多すぎてここで詳しく述べることはできないが、一例をあげる。
「日本はかって侵略戦争をやった」という授業をやっているという情報を得ると、戦前、戦中の視学官そっくりに担当者をその教室に派遣し、その教員に研修を命じ、授業をやらせないでくだらない研修を長期間にわたって受けさせ、研修の教官の方が論破されると「研修の成果が上がっていない」とさらにいじめを続け、ついには免職に、といった具合である。
■ 責任回避の管理職
日常教員をいじめている行政や管理職、中間管理職は常に思考が責任回避にむかっており、いじめがあきらかになっても、いかに責任を逃れるかが最大の関心事なので適切な対応をするわけがない。
■ 重要な家庭状況と社会環境
もう一つ問題なのは家庭の状況との関連である。
私の経験では暴力的傾向のある生徒の家庭は親が暴力的であった(その子どもたちの指導は困難を極めたが、私のころは教員集団全員であたることができた。だから教員の仕事が好きだった。今は?)。
それから類推すると、現在のように、賃下げ、不正規雇用、馘首や、朝鮮人、身障者、被災者、教員、一般公務員(天下り官僚ではない)に対するものなど人権侵害があ、ふれている社会では家庭教育も崩壊している家庭が多いと考えられる。
大人の社会でいじめが蔓延していれば、子どもの社会でいじめが蔓延するのは当たり前である。
行政や会社でいじめを担当している人物はどういう家庭教育をするのだろうか。人権侵害だらけの大人社会をみていじめっ子になるのも当たり前である。
私は小学生時代集団疎開先でさんざんいじめられたが、いじめっ子は親がやくざだった。その頃はいじめっ子と言ってもひとりふたりだったが、今は大人にいじめ担当が多くなっている、その影響はどうか。
■ “いじめ”は犯罪重大な人権侵害
いじめ集団の特徴の一つは犯罪を犯しているという意識がなく、遊びの意識しかない。すなわち普通のことなのだ。大人たちが普通のこととして人権侵害をしているのと対応している。
もう一つの特徴は責任回避でこれも大人たちと似ている。
自分はそこにいただけだという子が多い。そこにいるだけで犯罪の加害者になってこの犯罪に責任があるということは考えない。
指導する側もいじめは凶悪犯罪だということを徹底しなければならないのは当然である。
■ 組識的な闘いがカギ
大人の社会でいじめられている人々もたたかわなければならない。同じようにいじめられっ子もたたかっている先生(残念ながらあまりいないが)を見習って強くならなければならない。
私の集団疎開先での経験では、同級生の一人がみんなを組織し、集団でいじめっ子に立ち向かっていじめをやめさせるのに成功した。
教員も行政や管理職、中間管理職からいじめられぱなしでなく、組織的にたたかわなければ学校でのいじめもなくならないであろう。
『週刊新社会』(2012年8月28日)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます