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2005年2月27日(日曜日) 飛蝗
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「殿下人」、気分なのか、石原は自らを「殿様」、と呼ぶ。
海外に出かけては籠ならぬリムジンに乗ってみる。周りは「殿様扱い」だ。
不逞の輩、共産党の都議の質問が「お殿」、に向かわないよう、役人どもは必死で画策する。「何卒、担当部局の長への質問にしていただきたい」アホらしいことこの上なしだ。
「お殿」、のもとには、これまた現代の公家気取りのバカ都議が針鼠の毛の如く集結する。ついに自民党のO都議に至っては、「お忍び視察」、などと臆面も無くホームページに書く始末。
何処の公家なりや。公家っていうのは最高に始末に悪い。上の権威を身に纏って、傍若無人に振舞うのだ。
民主党のT都議なんかは学校に乱入して教材を奪取した。大井川の公家と何ら替わることが無い。態と水に転落して金を巻き上げるのである。渡しの担ぎ屋もたまったものではない。
籠にぶつかったら大変だ。「揺すったな」、と因縁つけて強請るのである。ついに「起立して旗見つめ、大きな声で歌え」、なる布告まで出させた。因縁つけて気に食わない奴を追放せんとするのである。
殿様飛蝗と同じだ。早期に駆除しないとえらいこっちゃ。
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2005年2月26日(土曜日) 決起
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「風流夢譚」を書いた深沢七郎は、その後世間からしばし逃走を余儀なくされた。
彼の作品に「楢山節考」がある。婆ちゃんを山に捨ててくる。逃げ帰る息子の上に雪が降ってくる。長野の「姥捨」駅からの眺望は、そんな情景の欠片もなく美しい。
石原慎太郎が「ババア」は存在する価値なしとする発言をなした。その判決がつい最近出た。
発言が報道された時に思い、何人かに言ったことがある。馬鹿にされた全国の老婆は直ちに都庁、知事室前に座りこむべきだ。「無駄なら捨てろ」「殺せ」「ごみ扱いしろ」・・・炊事道具持ち込んで、無期限座り込みだ。何十人が何百人となり千人を超える段階で、石原は辞任に追い込まれるであろう。日本の「おっかあ」を侮辱したらどうなるか、目に物見せてやろうではないか。米騒動も富山の「おっかあ」達から始まった。
そんなことを今日の集会で語ったら、帰りがけ一人の「おっかあ」がやって来た。
「やりますよ」「見ててくださいよ」
ついにファシスト、差別主義者、石原打倒に全国の老婆が決起するのだ。
老爺もぼけっとしていられない。全国の老人よ、決起せよ。ファシストを打倒せよ。
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2005年2月25日(金曜日) 宵越し
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母の従兄弟と会った。十数年ぶりである。
巳年、一回り違う。今年76歳になる。流石にくたびれて来た感がするが現役の医者として活躍していた。大したものである。医者には定年がないという。
人のためになる仕事をしているということはいい事だ。ヤクザな稼業でない限り、どんな仕事でも人の役に立っているが、余人替え難い能力を持って人の役に立てるというのは立派なことである。
政治家はヤクザな稼業である。全員とは言わないが多くヤクザと結びついている。地元のヤクザに仁義をきらないと引っ掻き回されることとなる。
かくして日本社会はヤクザと政治家の支配するところとなった。金と脅しによる結びつきである。
誰だって脅しには弱い。自分がやられるのは覚悟できても家族や友人がやられるのは敵わない。ヤクザはそうした人間の弱点を衝くのである。
弱点と言えば金の問題がある。金は恐い。一生金で屈辱的な経験をしなかった人はまことに幸せである。有るときには地道に貯めておくべきである。「宵越しの銭は持たねえ」なんて粋がっていると、実に辛い思いをすることになったりする。
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2005年2月24日(木曜日) 戦中・戦後
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朕は告ぐ 夙夜シン念 措かざりし 百難排し 朕意を休せ
(1939年9月4日、第72臨時議会、開院式勅語)
海ゆかば 水漬く屍 大和には すめら尊は 乗らざりしかな
敗戦の 年の皐月に 出でし船 五百余命を 満州に送る
民を棄て 家財を積みし 列車にて 高級参謀 祖国へ逃げる
敗戦の まさにその日に 自刃せし 唯一の大将 惟幾のみか
大将で B級なるは 哀しとて 真崎・奉文 それのみ悔やむ
父なき子 クラス半ばを 占めており 豚の飼料が 海渡り来る
戦争の 責任問われ 文学の 修辞なるかを 問うぞ恐ろし
長崎の 山里の子の 歌響き 亡き子も共に 歌うているらし
上海で 爆弾投げし 男あり 金沢の山 石碑作らる
サイパンの 遺骨よ哀れ その上を 若き孫らが はしゃいで遊ぶ
夏草や ガ島にありて 六十年 祖国の人よ ひもじくはないか
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2005年2月23日(水曜日) 主犯
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1966年の初冬であったか、卒業した大学でロックアウトがあった。授業料値上げ反対闘争に対して大学側が封鎖に打って出たのである。
門の無い広い入り口に鉄パイプで柵を作った。十二時のニュースを見て、バイトを抜け出し駆けつけた。今では誰だかはすっかり忘れてしまったが、最前列まで行って見ると見慣れた顔がある。卒業した奴まで来ている。時ならぬ同窓会だ。
揺さぶってみたらたいしたことない。Nが「とっちまえ」 「えいやあ」と言った。皆で揺さぶったらあっという間にパイプの柵は崩れてしまった。広々とした空間が目前にある。校内に入り込む。遠巻きに見ている何百人が動こうとしない。仕方ない。皆で校歌を歌って呼びかけた。校歌か、こんな時に校歌なのか。校歌が一番効果があるとは・・・。何やら妙な気分であった。
それから40年、昔の仲間が集まる会があった。N君が言う。「あの時、真っ先にとっちまえって言ったよなあ」「取っちまうっていう発想は皆になかったろうよ」Nはいつも発想がユニークだ。新島での豚の飼い方も図抜けていた。
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