『東京新聞』で、6月2日から「教育基本法」の特集が始まった。
その第一回は、敗戦直後、46年~47年の国会審議と「教育刷新委員会」の様子。
既に第二回(制定当時の争点)、第三回(2000年教育改革国民会議で「見直し」が急浮上した経過)と、進んできている。
「教育基本法」の根本を、制定の歴史から検証する力のこもったシリーズとなっている。これからの展開に大いに期待したい。
●教育の原点 基本法改正を検証する●<1>
焦土からの情熱 「米国の押しつけはない」
元文部相局長涙の答弁「次世代の踏み台に」
インターネットの審議中継に、質問する議員の後ろで大あくびする女性議員が映し出された。5月24日、与野党の教育基本法改正案の本格審議が始まった衆院特別委員会。後方では、二人の男性議員が身を寄せて長々と話し込んでいる。NHKの中継がない同月27日以降の審議では、空席も目立った。
戦後六十年余。日本の復興を陰で支えた「教育の根本」は今、熱意と倦怠(けんたい)感が奇妙に同居する中で、初めての改正に向けた審議が進む。
1947(昭和22)年3月、基本法が上程された最後の帝国議会の時とは似ても似つかぬ光景である。
「がらんとした空き家のような校舎の中で教育が実施されておる」「実に慨嘆にたえない」47年3月19日。教育基本法とセットになる学校教育法案を審議する衆院教育基本法案委員会で、日本社会党の永井勝次郎が、文部省(現・文部科学省)を追及していた。
学校教育局長日高第四郎が答弁に立った。
「敗戦の結果ではありまずけれども、日本を復興させるものは、戦争にも責任のある私どもの力というよりは、何も知らなかった若い人たちの力によって、日本は再びこの情けない状態を」ここまで話すと、後が続かない。日高は目に涙を浮かべ、おえつを漏らしていた。委員会室は水を打ったように静まり、日高の回復を待つ。皆、もらい泣きしていた。
数分後、ようやく気を取り直した日高は「盛り返さなければならないと思っております。私どもとしては、教育に唯一の望みをかけておりますので万難を排して、喜んで踏み台になっていきたい」「日本を昔の、あるいはそれ以上のいい国家に仕立て上げるようにいたしたい」と続けた。
日高の下で学校教育法を立案した元東宮大夫安嶋弥=ひさし=(83)は、「日高さんは情熱家。純粋ないい人で、信念に燃えていた」と振り返る。
焦土からの復興。そのために何としても義務教育の三年延長を果たしたい-。それは、国民の多くの願いであり、政治家も官僚も一緒だった。
九年間の義務教育を盛り込んだ教育基本法案と学校教育法案は同月末に可決され、即施行された。
占領下の日本。教育関連の法令は、事前にGHQの民間情報教育局(CIE)に翻訳して渡さねばならなかった。
文部省の担当者は「敗戦道路」と呼んだ通りを抜けて、日比谷の放送会館にあったCIEまでよく足を運んだ。「われわれは食うものもなく寒さに震えていたのに、CIEに行くと暖房が効いて、コーヒーのいい香りが漂ってきてね。負けたんだなと…」と安嶋は振り返る。
だが、こと基本法に関してはCIE主導で制定されたのではない。
「CIEは基本法については積極的ではなかったと思う。日本側の発想だった」と安嶋は言う。「教育勅語の影響があまりに強烈だったから、それを打ち消すにはどうしたらいいかとね」
発案者は、当時の文相で後に最高裁長官となる田中耕太郎だった。
「教育の重要性にかんがみ、少なくとも学校教育の根本だけでも議会の協賛を経るのが民主的態度と考え、その立案の準備に着手している」
46年6月27日、新憲法を審議する衆院本会議で、田中は基本法の制定に言及。同年8月、首相吉田茂直属の機関として教育刷新委員会が設けられた。
田中の前に文相だった安倍能成(よししげ)、東京帝大総長南原繁、旧制一高校長天野貞祐、後の首相芦田均-。そうそうたる委員が並ぶ。ここで基本法の原案は練りれた。
委員会とCIE、文部省との三者で、ステアリング・コミッティーという連絡委員会が設けられた。
安嶋によると「議運のようなもの」という。詳しい議事録は残されていないが、東京都文京区の野間教育研究所に、各回の議事概要を筆写した秘密資料があった。それによると、文部省側の主な説明役は、日高だった。
基本法が国会に上程された際の連絡委では「非常に困難があったが通過するものと期待している」と説明。CIE教育課長のオアが「文部省のお骨折りに感謝する」と応じた。
根幹部分で、CIEが修正を指示した形跡は残されていなかった。
「『ダメだと言うと、(CIEは)無理にやれとは言わなかった』『押しつけとか米服従とかいうのとは違う』とよく言っていました」。日高の二女小常山そよ子(79)は話す。
「多くの人は、アメリカ人におしつけられたものであると、考えているように思われます」「わたくしは、当時現場にいたもののひとりとして、誤解であることを知っていただきたい」と、日高本人も後に記した。
「日本人の魂がはいっていないとすれば、それは日本人の気概が足りなかった責任であり、よくできているのならば、それは日本人の貢献であります」
(文中敬称略)
××
改正に向けた審議が始まった教育基本法。その制定の歴史を振り返り、改正論の根拠とされている「事実」を検証する。(この企画は、加古陽冶、片山夏子、高橋治子が担当します)
その第一回は、敗戦直後、46年~47年の国会審議と「教育刷新委員会」の様子。
既に第二回(制定当時の争点)、第三回(2000年教育改革国民会議で「見直し」が急浮上した経過)と、進んできている。
「教育基本法」の根本を、制定の歴史から検証する力のこもったシリーズとなっている。これからの展開に大いに期待したい。
●教育の原点 基本法改正を検証する●<1>
焦土からの情熱 「米国の押しつけはない」
元文部相局長涙の答弁「次世代の踏み台に」
インターネットの審議中継に、質問する議員の後ろで大あくびする女性議員が映し出された。5月24日、与野党の教育基本法改正案の本格審議が始まった衆院特別委員会。後方では、二人の男性議員が身を寄せて長々と話し込んでいる。NHKの中継がない同月27日以降の審議では、空席も目立った。
戦後六十年余。日本の復興を陰で支えた「教育の根本」は今、熱意と倦怠(けんたい)感が奇妙に同居する中で、初めての改正に向けた審議が進む。
1947(昭和22)年3月、基本法が上程された最後の帝国議会の時とは似ても似つかぬ光景である。
「がらんとした空き家のような校舎の中で教育が実施されておる」「実に慨嘆にたえない」47年3月19日。教育基本法とセットになる学校教育法案を審議する衆院教育基本法案委員会で、日本社会党の永井勝次郎が、文部省(現・文部科学省)を追及していた。
学校教育局長日高第四郎が答弁に立った。
「敗戦の結果ではありまずけれども、日本を復興させるものは、戦争にも責任のある私どもの力というよりは、何も知らなかった若い人たちの力によって、日本は再びこの情けない状態を」ここまで話すと、後が続かない。日高は目に涙を浮かべ、おえつを漏らしていた。委員会室は水を打ったように静まり、日高の回復を待つ。皆、もらい泣きしていた。
数分後、ようやく気を取り直した日高は「盛り返さなければならないと思っております。私どもとしては、教育に唯一の望みをかけておりますので万難を排して、喜んで踏み台になっていきたい」「日本を昔の、あるいはそれ以上のいい国家に仕立て上げるようにいたしたい」と続けた。
日高の下で学校教育法を立案した元東宮大夫安嶋弥=ひさし=(83)は、「日高さんは情熱家。純粋ないい人で、信念に燃えていた」と振り返る。
焦土からの復興。そのために何としても義務教育の三年延長を果たしたい-。それは、国民の多くの願いであり、政治家も官僚も一緒だった。
九年間の義務教育を盛り込んだ教育基本法案と学校教育法案は同月末に可決され、即施行された。
占領下の日本。教育関連の法令は、事前にGHQの民間情報教育局(CIE)に翻訳して渡さねばならなかった。
文部省の担当者は「敗戦道路」と呼んだ通りを抜けて、日比谷の放送会館にあったCIEまでよく足を運んだ。「われわれは食うものもなく寒さに震えていたのに、CIEに行くと暖房が効いて、コーヒーのいい香りが漂ってきてね。負けたんだなと…」と安嶋は振り返る。
だが、こと基本法に関してはCIE主導で制定されたのではない。
「CIEは基本法については積極的ではなかったと思う。日本側の発想だった」と安嶋は言う。「教育勅語の影響があまりに強烈だったから、それを打ち消すにはどうしたらいいかとね」
発案者は、当時の文相で後に最高裁長官となる田中耕太郎だった。
「教育の重要性にかんがみ、少なくとも学校教育の根本だけでも議会の協賛を経るのが民主的態度と考え、その立案の準備に着手している」
46年6月27日、新憲法を審議する衆院本会議で、田中は基本法の制定に言及。同年8月、首相吉田茂直属の機関として教育刷新委員会が設けられた。
田中の前に文相だった安倍能成(よししげ)、東京帝大総長南原繁、旧制一高校長天野貞祐、後の首相芦田均-。そうそうたる委員が並ぶ。ここで基本法の原案は練りれた。
委員会とCIE、文部省との三者で、ステアリング・コミッティーという連絡委員会が設けられた。
安嶋によると「議運のようなもの」という。詳しい議事録は残されていないが、東京都文京区の野間教育研究所に、各回の議事概要を筆写した秘密資料があった。それによると、文部省側の主な説明役は、日高だった。
基本法が国会に上程された際の連絡委では「非常に困難があったが通過するものと期待している」と説明。CIE教育課長のオアが「文部省のお骨折りに感謝する」と応じた。
根幹部分で、CIEが修正を指示した形跡は残されていなかった。
「『ダメだと言うと、(CIEは)無理にやれとは言わなかった』『押しつけとか米服従とかいうのとは違う』とよく言っていました」。日高の二女小常山そよ子(79)は話す。
「多くの人は、アメリカ人におしつけられたものであると、考えているように思われます」「わたくしは、当時現場にいたもののひとりとして、誤解であることを知っていただきたい」と、日高本人も後に記した。
「日本人の魂がはいっていないとすれば、それは日本人の気概が足りなかった責任であり、よくできているのならば、それは日本人の貢献であります」
(文中敬称略)
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改正に向けた審議が始まった教育基本法。その制定の歴史を振り返り、改正論の根拠とされている「事実」を検証する。(この企画は、加古陽冶、片山夏子、高橋治子が担当します)
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