「君が代」解雇撤回裁判「準備書面(6)」から
●「全体の奉仕者」の正しい解釈●
とかく「全体の奉仕者」が、憲法本来の趣旨から逆の意味に捉える議論が飛び交って首をひねることが多かったが、その辺についてのとても分かりやすい説明を見つけた。
鍵は、教育基本法第6条の「全体の奉仕者」の解釈にある。「教育の公共性」が「国家」対「私」という意味における「公」ではないことは明らかである。
戦前のように、天皇や国家への奉仕者ではなく、また一部の階級あるいは政党や利益団体の要求に応えるというようなものであってもならないという意味で、教師は「国民全体の奉仕者」であるとされるのである。この項は、新村響子弁護士執筆だそうです。
2 職務の公共性と全体の奉仕者論
(1) はじめに
被告は、原告らが公務員であることをもってその思想・良心の自由も制約を受けると主張し、東京地裁平成15年12月3日判決(H14(行ウ)51号。いわゆるピアノ事件判決)も、「原告のような地方公務員は、全体の奉仕者であって・・・公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解するのが相当である」としている。
そこで、公務員の人権について、職務の公共性という独自の内在的制約原理が存在し、本件がそれに基づく制約として妥当かどうかについて検討する。
(2) 職務の公共性というもの
公務員といってもその職種は様々であり、「公務員の職務の公共性」という一言でもって一般的に内在的制約として根拠づけるのは短絡的にすぎる。
この点、公権力と国民の間に一般の統治関係とは異なった特別な関係があり、法治主義が排除され、人権制約が一般的に許されることを「特別権力関係論」といい、この「特別権力関係論」が現在の憲法下で通用しえないものであることは自明のことである。
しかし、被告の主張するように、原告らが単に「公務員」「教職員」であるが故に、その職務内容等にかかわらず一般的に「職務の公共性」「全体の奉仕者性」により人権の制約を受けるとすれば、「公務員の職務の公共性」という原理のもと、公務員に対して特別権力関係を認めたことと同じことになってしまう。そのようなことは、決して許されるべきではない。
よって、「公務員の職務の公共性」という制約原理を考えるときは、個々の職種に応じて、かつ問題となる人権の種類もふまえた上で、制約の根拠や制約の限度を考えていくことが必要なのである。
(3) 教育公務員の「公共性」と「全体の奉仕者」論
ア 問題の所在
原告らの職種は、教職員であるから、「教育公務員」としての「職務の公共性」とはどのようなものなのか、教育公務員は「全体の奉仕者」であること(教育基本法6条2項)の意味と合わせて検討する。
イ 公務員一般と違う「公共性」「全体の奉仕者」であること
教育基本法6条1項は、「法律に定める学校は、公の性質をもつ」としており、ここには私立学校も含まれる。よって、私立学校の教員も「全体の奉仕者」として自己の使命を自覚し、その職務の遂行に努めなければならない(同法6条2項)。
このような法律体系からも、教育における「職務の公共性」や「全体の奉仕者」の意義が公務員一般と異なることは明らかである。よって、被告の主張するように、原告らが単に「地方公務員」であるから「全体の奉仕者」であり、「職務専念義務」(地方公務員法第30条)があって、人権制約を受けるとする考えは許されない。
ウ 教育の公共性
旭川学テ最高裁判決でも明らかなように、教育の公共性は、子どもの教育を受ける権利ないし子どもの学習権を出発点とするものであり、それを充足するための教育を市民社会全体で行っていこうとする概念である。
よって、「教育の公共性」とは、「国家」対「私」という意味における「公」ではない。つまり、ここでいう「公共性」とは、「国や地方公共団体が決めたことは守れ」ということを意味するのではなく、将来の社会の担い手であるすべての子ども、青年の発達および学習権の保障という市民的・社会的な公共性なのである。
この「教育の公共性」を保つため、教師は、発達可能態たる子どもの、自由で豊かな成長の要求に応えなければならず、そのために、教科・学問を知り、子どもの発達段階を知ってそれに即した教育方法を研究し、子どもの心身の状態についての敏感な感受性を持つ、高度な専門家であることが求められている。こうした職責に応えるために、教師には、真理・真実を確認し、それをどのように子ども達に理解させるかを研究し、創造的な授業や教育活動をしてゆくための、研修権、学問の自由が保障されなければならず、また、教育実践の自由が保障されなければならない。学校も、自由の精神があふれていなければならない。こうした教師、学校でなければ、子どものしなやかで自由な精神の発達も保障できないからである(甲85の1ないし甲85の3)。
教師はそうした職責と権限を負っているのであり、そうした職責の内容から、教師は、多様な階層から出てきている様々な子どもたち一人一人の発達と学びの権利を保障するべく努めなければならないのであって、戦前のように、天皇や国家への奉仕者ではなく、また一部の階級あるいは政党や利益団体の要求に応えるというようなものであってもならない。教師はその意味で「国民全体の奉仕者」であるとされているのであり、このような教師の「公共性」こそ、まさに教育基本法の定める理念なのである。
また、それゆえ教師は、教育基本法10条1項に国民全体に対して直接に責任を負(う)」と規定されているように、多数決原理に基づく国会と政府の意向にしたがって行政を行うべき一般公務員とは異なり、行政当局の指導に従って(すなわち、国民の意思からは間接的に、)応えるのではなく、子どもに対して直接に責任を負うことが求められている。
エ 本件についての検討
教師の職務の公共性がこのようなものであるとすれば、それは教師の、思想・良心の自由を制限(実質的には否定)することに結びつくものではない。教育公務員と一般公務員の根本的違いを無視して、ただ公務員であるということ、それだけを根拠にしてその思想・良心の自由を制約することなど認められるはずもないのであり、教育者としての職責と権限を考慮すれば、その思想・良心の自由は、子どもの成長を保障するという意味でもより強く保護されるべきものである。
そして次代の民主主義の担い手を育むという点について言えば、そういう場だからこそ学校において子どもたちは、自由や権利を保障され、試行錯誤を繰り返しながらも次第にその適切で効果的な使い方を習得し、将来の民主的社会の一員たるに相応しい自由な市民へと準備されるのである。もし学校の中で子どもたちに思想・良心の自由や表現の自由が保障されておらず、その行使も許されないとしたら、子どもたちが自由と民主主義の担い手に育つことは、およそ不可能になる。よって、教師にもこれらの精神の自由が保障されていることを生徒たちの面前で示すことが、生徒たちの思想・良心に従った行為(子どもの権利条約13条、14条)を励ますという、民主主義における教育的効果をこそ考えるべきである。
原告らの教育公務員としての「職務の公共性」がこのようなものであると考えれば、本件において、原告らの思想・良心の自由をその「職務の公共性」という理由で制約することができないことは明らかである。
●「全体の奉仕者」の正しい解釈●
とかく「全体の奉仕者」が、憲法本来の趣旨から逆の意味に捉える議論が飛び交って首をひねることが多かったが、その辺についてのとても分かりやすい説明を見つけた。
鍵は、教育基本法第6条の「全体の奉仕者」の解釈にある。「教育の公共性」が「国家」対「私」という意味における「公」ではないことは明らかである。
戦前のように、天皇や国家への奉仕者ではなく、また一部の階級あるいは政党や利益団体の要求に応えるというようなものであってもならないという意味で、教師は「国民全体の奉仕者」であるとされるのである。この項は、新村響子弁護士執筆だそうです。
2 職務の公共性と全体の奉仕者論
(1) はじめに
被告は、原告らが公務員であることをもってその思想・良心の自由も制約を受けると主張し、東京地裁平成15年12月3日判決(H14(行ウ)51号。いわゆるピアノ事件判決)も、「原告のような地方公務員は、全体の奉仕者であって・・・公共の福祉の見地から、公務員の職務の公共性に由来する内在的制約を受けるものと解するのが相当である」としている。
そこで、公務員の人権について、職務の公共性という独自の内在的制約原理が存在し、本件がそれに基づく制約として妥当かどうかについて検討する。
(2) 職務の公共性というもの
公務員といってもその職種は様々であり、「公務員の職務の公共性」という一言でもって一般的に内在的制約として根拠づけるのは短絡的にすぎる。
この点、公権力と国民の間に一般の統治関係とは異なった特別な関係があり、法治主義が排除され、人権制約が一般的に許されることを「特別権力関係論」といい、この「特別権力関係論」が現在の憲法下で通用しえないものであることは自明のことである。
しかし、被告の主張するように、原告らが単に「公務員」「教職員」であるが故に、その職務内容等にかかわらず一般的に「職務の公共性」「全体の奉仕者性」により人権の制約を受けるとすれば、「公務員の職務の公共性」という原理のもと、公務員に対して特別権力関係を認めたことと同じことになってしまう。そのようなことは、決して許されるべきではない。
よって、「公務員の職務の公共性」という制約原理を考えるときは、個々の職種に応じて、かつ問題となる人権の種類もふまえた上で、制約の根拠や制約の限度を考えていくことが必要なのである。
(3) 教育公務員の「公共性」と「全体の奉仕者」論
ア 問題の所在
原告らの職種は、教職員であるから、「教育公務員」としての「職務の公共性」とはどのようなものなのか、教育公務員は「全体の奉仕者」であること(教育基本法6条2項)の意味と合わせて検討する。
イ 公務員一般と違う「公共性」「全体の奉仕者」であること
教育基本法6条1項は、「法律に定める学校は、公の性質をもつ」としており、ここには私立学校も含まれる。よって、私立学校の教員も「全体の奉仕者」として自己の使命を自覚し、その職務の遂行に努めなければならない(同法6条2項)。
このような法律体系からも、教育における「職務の公共性」や「全体の奉仕者」の意義が公務員一般と異なることは明らかである。よって、被告の主張するように、原告らが単に「地方公務員」であるから「全体の奉仕者」であり、「職務専念義務」(地方公務員法第30条)があって、人権制約を受けるとする考えは許されない。
ウ 教育の公共性
旭川学テ最高裁判決でも明らかなように、教育の公共性は、子どもの教育を受ける権利ないし子どもの学習権を出発点とするものであり、それを充足するための教育を市民社会全体で行っていこうとする概念である。
よって、「教育の公共性」とは、「国家」対「私」という意味における「公」ではない。つまり、ここでいう「公共性」とは、「国や地方公共団体が決めたことは守れ」ということを意味するのではなく、将来の社会の担い手であるすべての子ども、青年の発達および学習権の保障という市民的・社会的な公共性なのである。
この「教育の公共性」を保つため、教師は、発達可能態たる子どもの、自由で豊かな成長の要求に応えなければならず、そのために、教科・学問を知り、子どもの発達段階を知ってそれに即した教育方法を研究し、子どもの心身の状態についての敏感な感受性を持つ、高度な専門家であることが求められている。こうした職責に応えるために、教師には、真理・真実を確認し、それをどのように子ども達に理解させるかを研究し、創造的な授業や教育活動をしてゆくための、研修権、学問の自由が保障されなければならず、また、教育実践の自由が保障されなければならない。学校も、自由の精神があふれていなければならない。こうした教師、学校でなければ、子どものしなやかで自由な精神の発達も保障できないからである(甲85の1ないし甲85の3)。
教師はそうした職責と権限を負っているのであり、そうした職責の内容から、教師は、多様な階層から出てきている様々な子どもたち一人一人の発達と学びの権利を保障するべく努めなければならないのであって、戦前のように、天皇や国家への奉仕者ではなく、また一部の階級あるいは政党や利益団体の要求に応えるというようなものであってもならない。教師はその意味で「国民全体の奉仕者」であるとされているのであり、このような教師の「公共性」こそ、まさに教育基本法の定める理念なのである。
また、それゆえ教師は、教育基本法10条1項に国民全体に対して直接に責任を負(う)」と規定されているように、多数決原理に基づく国会と政府の意向にしたがって行政を行うべき一般公務員とは異なり、行政当局の指導に従って(すなわち、国民の意思からは間接的に、)応えるのではなく、子どもに対して直接に責任を負うことが求められている。
エ 本件についての検討
教師の職務の公共性がこのようなものであるとすれば、それは教師の、思想・良心の自由を制限(実質的には否定)することに結びつくものではない。教育公務員と一般公務員の根本的違いを無視して、ただ公務員であるということ、それだけを根拠にしてその思想・良心の自由を制約することなど認められるはずもないのであり、教育者としての職責と権限を考慮すれば、その思想・良心の自由は、子どもの成長を保障するという意味でもより強く保護されるべきものである。
そして次代の民主主義の担い手を育むという点について言えば、そういう場だからこそ学校において子どもたちは、自由や権利を保障され、試行錯誤を繰り返しながらも次第にその適切で効果的な使い方を習得し、将来の民主的社会の一員たるに相応しい自由な市民へと準備されるのである。もし学校の中で子どもたちに思想・良心の自由や表現の自由が保障されておらず、その行使も許されないとしたら、子どもたちが自由と民主主義の担い手に育つことは、およそ不可能になる。よって、教師にもこれらの精神の自由が保障されていることを生徒たちの面前で示すことが、生徒たちの思想・良心に従った行為(子どもの権利条約13条、14条)を励ますという、民主主義における教育的効果をこそ考えるべきである。
原告らの教育公務員としての「職務の公共性」がこのようなものであると考えれば、本件において、原告らの思想・良心の自由をその「職務の公共性」という理由で制約することができないことは明らかである。
無職 大嶽静男(名古屋市瑞穂区 82歳)
「君が代」という歌は、つくづく日本語の音節を無視した歌だと思います。
「キミガア」と変なところで伸ばして切るところから歌は始まります。「ヨーオワ」。要するに切るところと伸ばすところが、歌詞と合ってないのです。
次はもっと変です。「チヨニーイイ」。何で伸ばすんだと思っていると「ヤチヨニサザレ」と変なところで切ります。次は突然「イシノー」ときますから、小さい頃は友達の石野君のことかと思っていたら、先生がさざれ石は、細かい石だと教えてくれました。
「コケノー」と歌って、いったん切ってから「ムースーウ」。なんのことじゃと思っていると「マーアアデ」と突然終わります。
要するに、「万世一系の天皇陛下の御世が、細かい石が岩になって苔が生えるまで続いて」という歌です。
「君」とは「あなた」のことという人もいます。
オリンピックとかワールドカップなどでは、日本の国歌といえばこれしかないので、仕方ありません。
でも、この国歌を歌わなかったり、歌う時に起立しなかったりする人を非国民呼ばわりするとなると、まるで私の記憶にある昭和10年代初期にタイムスリップしたような気がします。
自分勝手な解釈をする時点で教師失格です。