久しぶりにわけのわからない話を書いてみた。
儂、去年の3月にぼあちゃんを亡くしてからこれまで、自分の意に反するようなことや起きてほしくないことが大小取り混ぜてわりと続いてる。大の方で言えば、例えば5月にむくちゃんを亡くしたり、今までほとんど行ったことがないような診療科にかかったり。さらに、母親案件がぼあちゃんの一周忌の日から始まったり、それが原因でまた病院にかかったり。そして小の方はと言えば、日々の細かい事柄でいろいろと間が悪いことが起きてる。
今から50年前にも同じようなことがあった。中学3年生の12月の終わりにワン様を亡くし、翌年の4月から高校に進学。ところがその高校がまったく合わずに登校拒否。そして些細な事でも思い通りに行かないことが多発。この時の星占いには、「なにをやっても裏目に出る。やればやるほど大事のお面にキズ。さらにこれが3年間続く。」と書いてあった。占いなんて当たるも八卦当たらぬも八卦だけど、結果的にはこの通りになった。
儂、これまでの人生を振り返るに、だいたい7割以上満足だったので、どの時代に戻ってもいいなと思ってる。でも、高校時代の3年間にだけは絶対に戻りたくない。今でもトラウマのように嫌な記憶が蘇ることがあるほどの辛い時期だった。
と、つらつら鑑みるに、今とこの50年前の時期が極めてよく似てるなと、ちょっと前から感じてる。タイトルの50年周期というのはこういう意味。
実際にこんなことがあるのかどうかはわからない。もちろん科学的に説明できるわけでもない。ただの偶然の可能性はかなり高い。儂はスピリチュアルは全否定なので、そういうこととしては捉えていない。
ただ、50年という数字はともかく、1日の中でも1週間の中でも1ヵ月の中でも1年の中でも、運気(のようなもの)のアップダウンって絶対にあるなと経験的に思ってる。それが何年、何十年というスパンでもあるんじゃないかなというのも、やっぱり自身の経験から思ってること。
今のオリハちゃんのことも、この意にそわないことが起きるということの一つなのかなと思ったりする。それと同時に、オリハちゃんのことは、やっぱり儂の業なのかなと考えるようになった。それがもう一つのタイトルのこと。
書くと言っても、儂は仏さまの勉強をしているだけでその道の専門家じゃない。だから自分の言葉で書くのはあまりにもおこがましいので、これを読んでみて下さい。
このサイト、長いしどこ読めばいいんだよっていうこともあるかと思うので、とりあえずここから以下を引用した。
仏教における「業」は、一般的に「行動」とその「結果」を意味します。これは、私たちの行動(身体的、言葉、心)が将来の結果に影響を与える、という法則を示しています。つまり、良い行動をすれば良い結果が、悪い行動をすれば悪い結果が得られる、というものです。業の基本的な概念は、以下の3点にまとめられます。
- 業は、過去の行動の結果である。
- 業は、現在の行動が未来に与える影響である。
- 業は、私たちの運命を形作る力である。
これらのポイントから、業は私たちの過去、現在、未来をつなぐ重要な要素であるといえます。
これが業。そしてもうひとつ、
再生、または輪廻は生命の循環を指す言葉で、私たちの行動(業)が次の生命にどのような影響を与えるかを示しています。業と再生は、私たちの行動が次の生命に影響を与えるという意味で、密接に関連しています。善い業を行うことで、次の生命で良い結果を得る可能性が高くなります。逆に、悪い業を行うことで、次の生命で悪い結果を得る可能性が高くなります。
業は輪廻するということ。輪廻するのは魂ではなく業だということ。(これは「人は死なない」の記事でも書いた。)
これまで儂の所に来た子達は、いわゆる一般的に寿命と言われる年数を生きたことがない。
ワン様は4歳で、ぼあちゃんは推定だけど5歳で、むくちゃんは7歳半で、えびへーは3歳で、それぞれ亡くなった。えびへーは正式にはうちの子ではなかったけど、我が家で暮らしていたことがある。みんな亡くなったのは、いわゆる寿命と言われてる年数の半分以下。そして今度はオリハちゃんが苦しんでるのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
もっとも、これまで儂が飼ったことがある動物達がすべてそうだったというわけではない。確かに飼ってすぐに死んじゃった子も少なくない。でも、マウスやハムスターはほとんど寿命と思える年数を生きた。だから、ただ飼っていた子達ではなく、それなりの愛情を注いで家族として暮らしてた子達が、そこまで生きられないのかもしれない。
ワン様。母親の元家を整理してきた時に出て来た紙の写真をカメラで撮ってみた。


ぼあちゃん。

むくちゃん。

えびへー。

この子達が普通に長く生きられなかったのは儂の悪業の報いなのかなと、ちょっと思い始めてる。「単にオマエの飼い方が悪いだけだ」と言われてしまえばそうかもしれない。でも、それも含めて儂の業なのかなと思ってしまう。
その悪業が今生のものなのか過去生のものなのかはわからない。でも今生のものだとしたら、心当たりがなくはない。
まず、子供の頃、友達と一緒に捕まえて来た複数のアメリカザリガニをただ面白がって殺したことがある。それも結構残酷なやり方で。まさに無益な殺生だった。儂は、自分の専門に選んだ分野のこともあって、これ以外にも多くの命を奪ってきた。ただ、多分それらはみな無益ではなかったと思う。もちろん命を奪われる方にとっては益なんかないし、はなはだ身勝手な考えではあるけど、なんらかの形で儂自身の益には繋がってたはず。ひいては、例えほんのわずかでも他人様のお役に立ったんじゃないかなと思う。でもこのザリガニの時だけは違う。ただ面白がってやってただけだから。
それから、先に書いたように儂は小さい頃から多くの動物を飼っていたので、その子達が死ぬとその都度庭にお墓を作っていた。でも、供養とかそんなことはまったく知らなかったので、そんな気持ちでやっていたわけではない。子供心に死んだらお墓を作って埋めるんだと思っていただけ。ただ遊びの一つとしてやってたんだろう。まるでルネ・クレマンの「禁じられた遊び」のようだったなと思う。儂はこの映画のように死体を集めることはしなかったけど、もしかしたらこれも悪業なのかな。
このような今生の業でなく過去生の業なのであれば、それはもうどんなものなのかわかりようがない。わかりようがないけど、きっとそれなりに酷いことをしたんだろうなと思う。
と、こういうことをちょっと思ってるわけだけど、納得できていないこともある。それは、業の報いは自業自得のはずだということ。儂の悪業の報いを儂が受けるために、他の衆生の命を巻き込むなんていうことがあるかなと思う。自業自得なら儂自身がケガするとか病気になるとか、それが筋じゃないのかなと思ってしまう。
このようにイマイチ納得はしてないんだけど、もし本当にあの子達が普通に長く生きられなかった因が儂の業にあるなら、儂の所に来た子達、来る子達にはあまりにも申し訳なさ過ぎる。だから今はひたすら懺悔して滅罪を願うばかり。この記事も懺悔の一つのつもりで書いた。そしてもう動物達を家族に向かえるのはやめようと思っている。
業のことを書いたけど、この話には輪廻や縁起、因縁といったことも関連してると思う。こうなるとまさに仏さまの話だから、これらのことはまた別に書いてみようかなと思う。
なお、先に書いた懺悔滅罪については、もしよければ次のサイトを読んでみて下さい。