大島勇・保克『ひばり親子歌会』。父子だけでなく、お母さん、保克さんの叔母さん三姉妹が出演し、客席にはおばあちゃんの姿もあった。他にも桜坂ホールAには、多くの八重山出身の人達が集まっていたことと思う。
「ひばり」とは、大島家の屋号。白保では、あだ名や通称が長く使われているうちに屋号になることがあるそうだが、保克さんのおじいさん「大島松」の美声が「ひばり」と呼ばれるようになってついた屋号だそうだ。以来、大島家は、松→勇→保克と、歌上手の家系として「ひばり」の屋号を引き継いできた。
というところまではなんとなく聞いていたのだが、実は、叔母の三姉妹は舞踊の道に進み、母方も八重山民謡や古典を得意とする家。祖父の大島松さんを祖に、券\の盛んな白保の中にあって特に券\を得意とする一家であるということを知った。
今回の公演は、大島家が集まると繰り広げられる宴会を、大公開した内容であった。この春、100歳を迎えたおばあちゃん「大島カマド」さんのお祝いをした際、保克さんが「これを那覇でもやらんかー」と、父の勇さんに持ちかけたことから実現したのだそうだ。
前半は「白保節~真謝井」で幕をあけ、白保の長寿楽団「白百合クラブ」のリーダーだった故・多宇効さん作曲の「木の葉みたよな」と続き、「サヨンの鐘」「奄美小唄」「道頓堀行進曲」「満州娘」「十代の恋よさようなら」といった流行歌(八重山では流行歌を三線でアレンジして楽しむのが普通だった)、内地から西表に来た炭鉱労働者が作ったと言われる三拍子の民謡調曲「美田良浜」が歌われた。保克さんは、三線の他珍しくマンドリンも手にしながら、父の歌に寄り添った。
後半は、保克さんのソロで始まり、保克さんのオリジナル「イラヨイ月夜浜」を親子で共演、この曲は、保克さんが子供の頃、父母達の世代が白保の浜(百合ヶ浜)で浜遊びをしている様子を曲にしている。父子で歌うのは感慨深かっただろう。「うりずんジラバ」からは母ヨリコさんも加わり「とぅばらーま」でも見事な歌声を披露した。
このあたりになると、父・勇さんの顔が紅潮し、声には張りがみなぎり、「ひばり」たる所以の歌声が絶好調に近づいてゆく。
さらに三人の叔母が登場する。「ロマンス航路」では、四女・大島ちどりさんが船乗り姿で踊り、「悲しき小鳩」では次女・玉那覇ちさ子さんが真っ赤なドレスで踊った。「旅笠道中」では長女・堀切トキ(八重山勤王流の舞踊家として知られる)が股旅姿で登場し、会場をわかせた。
最後は「書生節」を父子で歌い、そのまま六調で会場は踊りの渦に。鳴り響く鋭い指笛にも力がこもる。おそらく会場には多くの親類や白保出身者がつめかけていて、今か今かとまちかまえていたに違いない、立ち上がって両手を魔キ祖母・カマドさんの周りに人が集まり、100歳を祝っていた。
八重山の定番、座の終わりを告げる弥勒節が始まると、出演者全員が舞台に並んだ。保克さんの目に涙が滲み、袖口で何度も何度も拭っていたことが印象に残った。家族の歴史、白保の歴史に囲まれながら、幸せに落涙を禁じ得なかったのだろう。その幸せな雰囲気が、会場全体にみちみちた。素晴らしい唄会だった。
普段とはまた一味違った大島保克さんの歌声を楽しめた。また、保克さんの歌が、他の白保出身の八重山民謡の歌い手たちとも全く違う雰囲気を持っている、理由がよくわかった。保克さんの歌は、白保の中でも、「ひばりやー」の歌なのだ。
追記:
この日は、沖縄タイムスさんから取材を依頼されていた。主催者側から撮影はアンコールの時のみでという許可だったので、ずっと待っていたのだが、弥勒節が始まったあたりで心配になってきた。八重山の宴席では弥勒節が始まると帰ってしまうのだ。案の定、弥勒節が終わるころにはすっかり座は治まってしまい、アンコールは無かった。つまらなかったからではなく弥勒節が流れたらとにかく条件反射で終わりなのだ。結局撮影はできず、オフィシャルで撮っていた親類の方に写真の提供をお願いした。ヒヤリ。
「ひばり」とは、大島家の屋号。白保では、あだ名や通称が長く使われているうちに屋号になることがあるそうだが、保克さんのおじいさん「大島松」の美声が「ひばり」と呼ばれるようになってついた屋号だそうだ。以来、大島家は、松→勇→保克と、歌上手の家系として「ひばり」の屋号を引き継いできた。
というところまではなんとなく聞いていたのだが、実は、叔母の三姉妹は舞踊の道に進み、母方も八重山民謡や古典を得意とする家。祖父の大島松さんを祖に、券\の盛んな白保の中にあって特に券\を得意とする一家であるということを知った。
今回の公演は、大島家が集まると繰り広げられる宴会を、大公開した内容であった。この春、100歳を迎えたおばあちゃん「大島カマド」さんのお祝いをした際、保克さんが「これを那覇でもやらんかー」と、父の勇さんに持ちかけたことから実現したのだそうだ。
前半は「白保節~真謝井」で幕をあけ、白保の長寿楽団「白百合クラブ」のリーダーだった故・多宇効さん作曲の「木の葉みたよな」と続き、「サヨンの鐘」「奄美小唄」「道頓堀行進曲」「満州娘」「十代の恋よさようなら」といった流行歌(八重山では流行歌を三線でアレンジして楽しむのが普通だった)、内地から西表に来た炭鉱労働者が作ったと言われる三拍子の民謡調曲「美田良浜」が歌われた。保克さんは、三線の他珍しくマンドリンも手にしながら、父の歌に寄り添った。
後半は、保克さんのソロで始まり、保克さんのオリジナル「イラヨイ月夜浜」を親子で共演、この曲は、保克さんが子供の頃、父母達の世代が白保の浜(百合ヶ浜)で浜遊びをしている様子を曲にしている。父子で歌うのは感慨深かっただろう。「うりずんジラバ」からは母ヨリコさんも加わり「とぅばらーま」でも見事な歌声を披露した。
このあたりになると、父・勇さんの顔が紅潮し、声には張りがみなぎり、「ひばり」たる所以の歌声が絶好調に近づいてゆく。
さらに三人の叔母が登場する。「ロマンス航路」では、四女・大島ちどりさんが船乗り姿で踊り、「悲しき小鳩」では次女・玉那覇ちさ子さんが真っ赤なドレスで踊った。「旅笠道中」では長女・堀切トキ(八重山勤王流の舞踊家として知られる)が股旅姿で登場し、会場をわかせた。
最後は「書生節」を父子で歌い、そのまま六調で会場は踊りの渦に。鳴り響く鋭い指笛にも力がこもる。おそらく会場には多くの親類や白保出身者がつめかけていて、今か今かとまちかまえていたに違いない、立ち上がって両手を魔キ祖母・カマドさんの周りに人が集まり、100歳を祝っていた。
八重山の定番、座の終わりを告げる弥勒節が始まると、出演者全員が舞台に並んだ。保克さんの目に涙が滲み、袖口で何度も何度も拭っていたことが印象に残った。家族の歴史、白保の歴史に囲まれながら、幸せに落涙を禁じ得なかったのだろう。その幸せな雰囲気が、会場全体にみちみちた。素晴らしい唄会だった。
普段とはまた一味違った大島保克さんの歌声を楽しめた。また、保克さんの歌が、他の白保出身の八重山民謡の歌い手たちとも全く違う雰囲気を持っている、理由がよくわかった。保克さんの歌は、白保の中でも、「ひばりやー」の歌なのだ。
追記:
この日は、沖縄タイムスさんから取材を依頼されていた。主催者側から撮影はアンコールの時のみでという許可だったので、ずっと待っていたのだが、弥勒節が始まったあたりで心配になってきた。八重山の宴席では弥勒節が始まると帰ってしまうのだ。案の定、弥勒節が終わるころにはすっかり座は治まってしまい、アンコールは無かった。つまらなかったからではなく弥勒節が流れたらとにかく条件反射で終わりなのだ。結局撮影はできず、オフィシャルで撮っていた親類の方に写真の提供をお願いした。ヒヤリ。