世にある日々

現世(うつしよ)は 愛おしくもあり 疎ましくもあり・・・・

不惜身命 但惜身命

2014-03-15 | 記紀雑感








さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 
            火なかにたちて 問いし君はも


さねさし さがむのおのに もゆるひの
           ほなかにたちて といしきみはも


相模の国の野原で火攻めにあったとき
         炎のなかで私を気づかってくださった
                   あなたのやさしい心は忘れません *

                                                          * 私訳


 ヤマトタケルの命(みこと) が東征し 速水の海を渡るとき
海神が怒って 海を荒れさせた

そのとき ヤマトタケルの命の后である
弟橘姫 (おとたちばなひめ) は海神の怒りを鎮めるために
「 私は夫である皇子の身に替わって海に入水します
どうぞ皇子の東征を護らせ給え 」 と念じ
入水し 我が身を海神に差し出した

すると
海が穏やかになり
ヤマトタケルの命たちは 船を進めることができました

この歌は 弟橘姫が入水する前に
詠んだ歌


静岡県に草薙というところがあります
その地で ヤマトタケルの命一行が
豪族の計略にかかり
草原で火攻めにあったとき
ヤマトタケルの命が弟橘姫を気遣ったことを
思い出して詠んだ歌です


古事記 日本書紀に書かれている
とても かなしくて美しい歌ですが
透明感があって 素敵な歌でもあります








この美しい歌を読むとき
いつも 禅の教えの中にある
「 不惜身命なり 但惜身命なり 」 という言葉を思い出す
( 確か 道元禅師 正法眼蔵に書かれていたと思うが ・・・・ )

意味は 僕なりにいえば
「 この命や体を惜しむなかれ ただ そのために命と体を惜しむなり 」
と いうことだろうか

弟橘姫は
ヤマトタケルの命に東征の使命を果たしていただくために
この命と体を惜しまずに 海神に捧げた
ヤマトタケルの命は
東征の使命を果たすために命と体を海神に捧げた弟橘姫を見守り
ただ 命と体を惜しんで悲しみに耐えで
東征を行っていった


その日その日を安穏に暮らして
命や体をただ惜しんで暮らして
無難な人生を送ったとしても 人生でなんの学びがあるだろうか

それよりも
かわりに自分が死んでもいいような苦しみを受け取り
それを生きる理由として
ただ この命と体を惜しんで生きていく

そこに 大いなる人生の学びがあると思う


このあと ヤマトタケルの命は足柄峠で早水の海の方を向き
「 吾妻はや 」 ( 我がいとしい妻よ )
と 嘆いたそうです


この命と体を惜しまず ただ命と体を惜しんで
  人々のために生きていく・・・・

そんなことが 大切なことなのかな








マーラー 交響曲第9番 第4楽章

癒しを求めている人はこのAdagioを聞かない方がいい

死という現実を見せつけられるから・・・・


最初からどんよりと重くのしかかってくるストリングス
死の寸前を彷彿とさせるメロディー

今までの人生のシーンが頭の中を過ぎっていく
息が絶え絶えになり
やがて死を迎える

魂が地球の重力の支配から解放されて
肉体から離れていく

魂が地上の生に決別を告げる


それにしても
この重厚なストリングスの中にある
きれいなメロディーは何なのだろう

あたかも
「 死はひとつの解放である 」
といっているようだ

そして
死というものを  荘厳という言葉で表現していると思う


この交響曲を完成させ 10番目の交響曲を未完成のまま
マーラーは世を去った

彼の魂は
きっとそのことを知っていたのだろう
でなければ
こんなAdagioを創れるはずはない

やはり 癒しを求めている人は
このAdagioを聞かない方がいい・・・・


・・・・ でも  この作品たまに聞いちゃうんだよね

なにか惹きつけられるんだ ・・・・




而 (しかも) もその術 (みち) を知らず

2011-07-23 | 記紀雑感










ども まあです~


今日は 記紀雑感をやります

日本書紀からのお話しです


日本書紀はね~
古事記とくらべて柔らかい感じがする
というか 少しくだけた感じなんだ

日本書紀の特徴は
一書に曰く ( あるふみにいわく ) と
ひとつの物語にたいして
こんな話もあるよと数々の
違う話を述べているところがあります
これが けっこうおもしろいんだよ

あと

今日は 過激な表現というか
過激なことばがあるかもしれないから
最初から 陳謝いたしますね


イザナギ・イザナミの命の
国生みの話は以前したよね

今回は
この話の 「 一書に曰く 」 のところを書こうかな


一書に曰く
イザナミの命が先ず 「 なんと すてきなお方ですこと 」 と言った
その時 陰神(めかみ)が先に言うのはよくない
ということでふたりは改めた
そこで
イザナギの命が
まず 「 なんと 可愛らしいおとめだろう 」 と言いました

                                                ・・・・・・・・以下読み下し文


遂に合交(みあわせ)せむとす
(しかも)もその術(みち)を知らず
時に鶺鴒(にはくなぶり)有りて
飛び来りてその首尾(かしらを)を揺(うごか)

(ふたはしら)の神
(みそなは)して学(なら)ひて
即ち交(とつぎ)の道を得つ

                               「 日本書紀 岩波文庫 」 より



う~ん 私訳やろうかどうか 迷っている

でも やっちゃおか ・・・・
                     
                               なんか スゴイ訳になりそうな気がする



ついにふたりの神様は国を生むために
睦の事に はいろうとしました
その時です
二人の神様は はたと目を合わせました

「 凸を凹に はめるのはいいが
そのあとは
どうやっていいか 分からないっ ・・・・  」

ふたりの神様は
心の中で それぞれ そう叫びました

すると セキレイという鳥が飛んできて
ふたりの神様のもとに降りて
激しく早く尾っぽを振りました

それが ふたりの神様には
早く激しく 腰を振るように見えたのです

ふたりの神様は
「 そうか  」 と 思って
お互いを見つめあいました

その時のふたりの神様の目は
少しばかり潤んで
とても 優しい目になっていました

こうして
ふたりの神様は 睦の事の道を
習ったのです







僕は 仏や神様を尊んでいるけど
少しばかり 人間味を帯びて描こうと
こんな訳し方をしてみた

神様に不敬であると思われた方には
許していただきたい



ただね

日本書紀というのは
日本最古の正史になっているけど
こんな話が出てくるんだ

おおらかというか何というか
ふつう国の正史にこんなこと書かないよね
国の正史だったら
  国の品格をかけて格調高く書くのだろうけど ・・・・







学生の時
王権神授説なんていうのをならったよね

天皇の祖先が神であり
さかのぼると
根源神の 「 天の御中主 」 の神様が
天皇のルーツなんだ

これって
王権神授説によく似ているよね
ここのところが
左翼学者が古事記とか日本書紀を攻めて
天皇の国家が専制君主の国家
なんて よく論調するけど

だけど
天皇の権威が神から流れているものだと
確定付けるための神話だったら
このような 「 一書に曰く 」
なんていうこと 書くだろうか

僕は ここから
正史にも 神からの権威付けをしなくてもよい
自然の中で 神を敬い
神が人であり 人が神であり
清く明るく生きることは ごく当たり前のこと
と いう 日本の精神性を観じる

それが
万葉のおおらかさにつながっていくのだろう
と 思っている


でも ・・・・

今回の私訳は とても おもしろかったよ







JUMPIN' JACK FLASH &星降る街角

腰の振る夜は~ ・・・・





あなにやし えをとめを

2011-07-17 | 記紀雑感






カテゴリーの記紀雑感 ( きぎざっかん ) は
古事記・日本書紀に書かれている物語で
僕がスキな話を 僕のことばで書こうとしたものです

それで 今回は
日本の国の国土が出来たときの話です



天の神様が イザナギ・イザナミの命 (みこと) に
「この漂える国を修め 作り直せ」
と 言われたところから
この話は始まります

ふたりの命は天の浮橋(うきはし)といって
空の架かっている天の橋の上から
天の沼矛(あめのぬぼこ)といって
剣の付いた棒みたいなものを混沌とした地上に突き刺して
くるくる回して沼矛を上げました

すると
矛の先より塩がしたたり落ちたて島となったのです
この島を おのころじま といいました

ふたりの神様は
その おのころじま に降りて
天の御柱(あめのみはしら)という神聖な柱をたて
広い御殿を建てました

そして
イザナギ命 (男性の神様) は イザナミの命 (女性の神様) に
「 あなたの身はどのようにできてますか?」 と 訊きました
イザナミの命は、
「 私の身は成りたって 成り合わないところがあります 」と答えました

成り合わない ・・・・
つまり 凹んだところがあるということだね

それで イザナギの命は
「私の身は成りたって成り余るところある
その成り余るところを
 あなたの成り合わないところに塞いで
国土 (くに) を生もうと思い
 ますがどうですか?」
と イザナミの命に言われのです

つまり ・・・・

あ~ 言いにくい

イザナギの命は成り余るところ
出ているところ 凸のところがあって

それで
その凸を凹に塞いで 国土 (くに) を
生もうというわけですね

まぁ 普通の子作りと同じようなものです ・・・・

「 それは いいことですね 」
と イザナミの命は答えた

「 それでは 私とあなたはこの天の御柱を回り 夫婦の契りを結ぼう 」
と イザナキの命は言いいました

・・・・・・・中略

そして
天の御柱をイザナミの命は右に回り
イザナギの命は左に回り
ふたたび逢ったとき

イザナギの命は
「 あなにやし えをとめを 」 (ああ ほんとうに愛しく可愛い女性だろう)
といい

イザナミの命は
「 あなにやし えをとこを 」 (ああ ほんとうにすてきな方でしょう)
といって
夫婦の交わりを行いました

そして
淡路島をはじめに生んだあと
次々と国土を生んでいったのです






なんか ほのぼのとしていいでしょ

この国を作ったとき
神様が お互いをステキな方と言い合って
きちんと 睦みあって
この国を生んでいった


僕もね ・・・・
こんな風にしたいな~

いつでも 死ぬときまで
愛する人には
「 おまえ いい女だね~ 可愛いね~ 」 なんて言って
抱きしめて キスしちゃうだろうな

  そのときに おしりも撫でちゃうかも ・・・・


愛とか その表現はおおらかにしたいな ~
なんて思う
今日 この頃です





おまえがパラダイス




八雲立つ

2011-06-27 | 記紀雑感









八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
                   八重垣作る その八重垣を


   やぐもたつ いずもやえがき つまごみに
              やえがきつくる そのやえがきを



古事記・日本書紀に書かれている和歌の中で一番好きな歌です


スサノオの命が高天原を追放されて出雲の国の川のほとりに来る
川上から箸が流れてきたので 人が住んでいるのだろうと思い
川上に上っていった
すると 老夫婦が一人の娘を間において泣いていた
老夫婦の名は アシナズチ テナヅチ
娘の名は クシイナダ姫という

「 どんなわけで泣いているのか 」 と訪ねたら
「 毎年  八つの頭のある大蛇 (おろち) が襲ってきて 娘を食べてしまう
 今年もその時期が来てたので嘆き悲しんでいます 」
とアシナズチは答えた

すると スサノオの命は
「 娘を私の妻に下さらないか 」
とアシナズチに言う・・・・

そこから  スサノオの命と八俣の大蛇 (やまたのおろち) の戦いが始まる・・・・

八俣の大蛇を退治したスサノオの命は
出雲の国で新居を造る
そのとき歌われたのがこの歌


つきぬけるような青い空に つぎつぎと雲が湧き立つていく
その雲が八重の垣となり 私の妻をこもらせてくれる
    わたしと妻のあたらしい家の八重の垣よ・・・・  *


高天原で天照大神との葛藤
そして追放されたスサノオの命

きっと 荒ぶる神は荒ぶる神ゆえに
清き美しい高天原では
心休まることがなかったのだろう

出雲の国でひとりの姫を守り
その姫を妻にしたよろこび

そのよろこびを思うとき
この歌をより深く味わうことができる

それはきっと
晴れ晴れとした青い空に真っ白な雲が湧き立った
何とも言えない清々しいお心だったのだろう

僕はこの歌をよく口にして読んでみる
言葉の響きに濁りがなく
一言一言のよろこびの言霊が重なっていく
そして
最後の「その八重垣を」で
一気にその言霊たちが凝縮され
よろこびがひとつの形となる
このリズム感がとてもスキです

スサノオの命とクシイナダ姫の子孫に大国主の命がおられます
この物語からから
出雲の物語が始まっていくのです


                                                            * 私訳です  原文に忠実に訳してません





精霊