( 湖に浮かべたボートを漕ぐように )
< 何時だったか、私が人間の未来というものをどう考えているか、また世界が五十年後には
どうなっていると思うか、聞きに来た人があった。私が返事に困っていると、その人は要求を
減じて、 「 二十年後にはどうなっているでしょうか 」 と聞いた。私は、その時、
「 我々は未来に 後退(あとじさ)りして進んでいく 」 と答えた。 >
ポール・ヴァレリー『 精神の政治学 』 吉田健一訳 中公文庫 65頁
村松剛氏は、『 歴史に学ぶ ー 激動期を生きた人々 』の中で、「 歴史と未来 」 について
こう述べている。
< 戦後の日本は 過去を憎悪することから出発した。 >
< 憎悪の黒々としたフィルターを通じては、歴史の本当の姿は見えない。
ということは 明日を生きのびるみちも見えて来ない、ということである。>
< 過去の文化遺産 > < 学問的蓄積 > とりわけ、日本の歴史・文化・伝統にしっかりと
光をあてて観ることなくして、真実の未来は 見えてこないということである。
< 二十世紀の初めになると、 第一回 ノーベル賞の医学部門にノミネートされたのは
北里柴三郎であった。( もっとも当時 圧倒的に力のあったドイツの学会が、有色人種に
その名誉が行くことを望まず、まだノミネートされていなかったフォン・ベアリングを
急遽 推薦してノーベル賞受賞者にした) > ( 渡部昇一氏 )
上記のことを考えたのは、ある教区の機関紙に元講師会会長がこんなことを書いていたからである。
<・・・・・寒暖差疲労なる現象であろう、体調は極めて不良である。・・・・・
この異常気象と感染症の流行、自然環境破壊(都市化)を自然観察(インタープリテーション)して
おくと良い。後々、参考になる貴重な体験記録になるだろう。
どうして馬鹿げた戦争になっていったかの記録と同じくらい後世に価値を残すかもしれない。>
現在の講師会会長の記事も タイトルは 「 地球のガン 」 である。
ここで、ガンは象徴であるが、人類のことである。
< 何時だったか、私が人間の未来というものをどう考えているか、また世界が五十年後には
どうなっていると思うか、聞きに来た人があった。私が返事に困っていると、その人は要求を
減じて、 「 二十年後にはどうなっているでしょうか 」 と聞いた。私は、その時、
「 我々は未来に 後退(あとじさ)りして進んでいく 」 と答えた。 >
ポール・ヴァレリー『 精神の政治学 』 吉田健一訳 中公文庫 65頁
村松剛氏は、『 歴史に学ぶ ー 激動期を生きた人々 』の中で、「 歴史と未来 」 について
こう述べている。
< 戦後の日本は 過去を憎悪することから出発した。 >
< 憎悪の黒々としたフィルターを通じては、歴史の本当の姿は見えない。
ということは 明日を生きのびるみちも見えて来ない、ということである。>
< 過去の文化遺産 > < 学問的蓄積 > とりわけ、日本の歴史・文化・伝統にしっかりと
光をあてて観ることなくして、真実の未来は 見えてこないということである。
< 二十世紀の初めになると、 第一回 ノーベル賞の医学部門にノミネートされたのは
北里柴三郎であった。( もっとも当時 圧倒的に力のあったドイツの学会が、有色人種に
その名誉が行くことを望まず、まだノミネートされていなかったフォン・ベアリングを
急遽 推薦してノーベル賞受賞者にした) > ( 渡部昇一氏 )
上記のことを考えたのは、ある教区の機関紙に元講師会会長がこんなことを書いていたからである。
<・・・・・寒暖差疲労なる現象であろう、体調は極めて不良である。・・・・・
この異常気象と感染症の流行、自然環境破壊(都市化)を自然観察(インタープリテーション)して
おくと良い。後々、参考になる貴重な体験記録になるだろう。
どうして馬鹿げた戦争になっていったかの記録と同じくらい後世に価値を残すかもしれない。>
現在の講師会会長の記事も タイトルは 「 地球のガン 」 である。
ここで、ガンは象徴であるが、人類のことである。
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