モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

総大会より 11月20日

2024-11-20 06:35:12 | 総大会
「主の教会という言葉は、場所や建物を指しているのではありません」
(これはわたしの福音である、これはわたしの教会である レンランド長老)

「バプテスマを受けた人々はキリストの教会と呼ばれた」3ニーファイ26:21

“シオン”という言葉があります。
心の清い人々の町の名で、彼らの義は主に受け入れられ、その町ごと天に受け入れられたと言い伝えられています。

シオンは個人の心の清さを表すときにも用いられます。
そんな人々の集まりをシオンと呼ぶのだそうです。
“キリストの教会”にも同じ意味があるようです。

ホランド長老は言いました。
「すべての会員が会員であるように求められている…のです」(2001年4月)

「教会とは、主…により組織されたイエス・キリストの弟子であるごく普通の人々のことを指します」
コメント

総大会より 11月19日

2024-11-19 06:02:05 | 総大会
「福音は完全ですが…神聖な儀式を執行するには…教会が必要です」
(これはわたしの福音である、これはわたしの教会である レンランド長老)

水のバプテスマは誰でも行うことができます。
聖餐や神殿の儀式も完全コピーすることは可能です。
形だけであれば…ですね。

教会の儀式には必ず聖約が伴います。
聖約の伴わない儀式に何の価値があるでしょうか。

聖約は目には見えず、言葉だけでは説明できないと思います。
意味を理解できるのは約束されたものを受けた人だけかもしれません。

「主の御名によってバプテスマを受ける」なら「主から…御霊を注いでいただける」モーサヤ18:10
聖餐のパンと水を受けるなら「御子の御霊を受けられる」モロナイ4:3

わたしたちが教会に集う理由です。
コメント

総大会より 11月18日

2024-11-18 06:04:33 | 総大会
「福音は完全ですが…純粋さを保(つ)…には…教会が必要です」
(これはわたしの福音である、これはわたしの教会である レンランド長老)

教会の中で偽りの教えを聞くことがあります。
惑わされることもあります。

そんな教えを指摘するつもりはありません。
きっと争いになるでしょうから。

偽りの教えを信じる人は、それを擁護し、広め、疑問を呈すると怒りを表すことさえあるようです。
それが正しいと信じて疑っていないのでしょうね。
「祈ってみてください」なんて話は通用しないかもしれません。

教会はそのような過ちを指摘することもなく、ただひたすらに正しい教えを繰り返すのみです。
そんな姿勢に疑問を感じたこともあります。

最近になって少しだけ理解できたことですが、
純粋な正しい教えは勘違いや誤解を正して行きます。
それを受け入れるなら、過ちはいつの間にか消えて行くようです。
コメント

総大会より 11月17日

2024-11-17 06:36:07 | 総大会
「福音は完全ですが、それを宣べ伝え…るには…教会が必要です」
(これはわたしの福音である、これはわたしの教会である レンランド長老)

なるほど…
考えたこともありませんでした。

確かに、アダムの時代から福音は変わることなく存在しました。
背教の時代があり、その時キリストの教会は存在しませんでした。
天父とイエス・キリストがジョセフを訪れたときにそのことを宣言しています。

聖典の歴史を見ると、背教と教会の回復は何度も繰り返されてきたようです。
ジョセフの時代に教会が回復されたおかげで、宣教師が召され、わたしは福音に出会うことができました。

福音は情報(information)
教会は媒体(media)
そう考えると分かりやすいかもしれませんね。

最近、マスメディアの問題をよく聞きます。
教会も気を付ける必要がありそうです。
コメント

総大会より 11月16日

2024-11-16 06:08:19 | 総大会
「神の愛に満たされていると,人生の嵐から守られるだけでなく,幸せな時間がもっと幸せになり,太陽が輝く楽しい日々は,わたしたちの心の太陽によってさらに明るくなります」
(神様のお気に入り ハースト長老)

人生の嵐がなくなるわけではありません。
嵐を避けられるわけでもないようです。
「嵐から守られる」です。

悲しみや苦しみがなくなるわけでもありません。
「幸せな時間がもっと幸せに」です。

「心の太陽によってさらに明るく」なるのは、「太陽が輝く楽しい日」です。
曇っていたり、雨の降る日、凍えるような寒い日もあります。

「主に従うなら人生はいつも平穏に過ごせる」と考えるなら、たぶんそれは誤解です。
ジョセフの人生はどうだったでしょうか。
ヨセフやモーセ、ヨブはどうですか。

神の愛に満たされることをどのように表現すればいいのでしょうか。
よく例えられるのは“塩の味”です。
説明するの難しいけれど、自分自身で味わってみれば納得できる
…だそうです。

確かにそうですね。
コメント