陰陽の世界と同じだ。
人はひとりでは生きられない。
が、ひとりで生きていかなければならない。
光と影が同居した世界、
そのどちらを否定するわけでも肯定するわけでもなく、
過度の期待を持ち合わせても落胆が待ち伏せ、
かといって、絶望だけでは明日や光はみえてはこない。
「共有するのが一番ですよ」と担当医は検査結果を伝えた後、
患者の性質や傾向や予後について質問をする私に向かって、
「自分で自己管理ができていますから、治療をして悪化させるよりも温存の道を、
この施設(病院)では、治療は例の手術をするという方針なので、
100か0、つまり、治療をするかしないか、しない場合は経過観察のための通院もできない」
せめて、交通事故から半年、いや1年未満であれば完治しやすい状況であったでしょう。
でも、4年の月日は長すぎた。
不調に身体が順応してしまっているために、
逆に、痛みや不具合を抱えたままでも生きられる状況を再構築してしまっていますから。
“共有”という言葉がなんども頭の中でぐるぐると巡った。
治療しましょう、と言われても拒否しただろうことが想像できるので、
共有という二文字や響きが、私へふんぎりをつけさせた。
医療過誤がなければ・・・・・と思ってしまう。
受診拒否、救急搬送拒否と、医療世界の裏や現実を突きつけられてきた時間は
療養に専念できたわけではなかった。
私たち患者や医療者が自覚しようとしまいと、弱者と強者という関係ができてしまう。
言うまでもなく、弱者は患者であり、強者は医療側だ。
医療者の力量で患者の将来をどうにでも左右できる権限は、
想像以上に強力で、まさに恐怖政治のように、いつの間にか言いたいこと、聞きたいことですら
閉口を余儀なくされる。
患者を救済するのは当然のところながら、
今の状態では医療者も救われることはないだろう。
国も破綻しかけている。
では、どのような循環が円滑に物事を運び、
すくなくとも国民にとって望む医療なのかと考えた時、
私は海外で医療を学びたいと痛切に望むようになった。
タイミングよく、カリフォルニアの友人が病院を開業するらしい。
一緒に仕事をしないか?と声をかけてもらえたこともあり、
そこでライセンス取得や病院経営なども学びたいと思った。
障害とは自分の意思で負うものではない。
が、この国では自己責任という名のもとで、冷ややかな対応を、
社会復帰の道を困難なものにさせているばかりではなく、
病院から放り出された患者、休息が第一の治療です・・・と言いながらも
その医師が症状を悪化させているのが医療の現実という側面もある。
誰も自分を、他者を望んで不幸にしたいとは思わないだろう。
そこから医療と患者と未来と期待がみえてくる。
さて、どこから着手するか、私の課題もみえてきた。