rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

北京五輪開会式の歴史絵巻は歴史というより文化紹介

2008-08-24 21:25:27 | 歴史
北京五輪も無事閉会式を迎えようとしています。開会式は夜遅くしかも長時間だったのでずっと注視して見ていた訳ではありません。しかしやたらと手の込んだしかも絢爛豪華なアトラクションであったと思います。テレビの解説者が歴史絵巻という紹介をしていたので、見る方もそのつもりで見てしまった人が多かったのではないかと思いますが、私は少し違うのではないかという印象があります。

スピルバーグに芸術顧問を断られて、北京オリンピック組織委員会は2008年4月中国人映画監督の張芸謀をチーフディレクター、振付師の張紹鋼と陳維亜をアシスタントディレクターに選定した、とされていて、内容についても直前まで2転3転あったようです。しかし組織委員会が主に何を見せたかったかというと、中国の歴史ではなくて中国古来の文化紹介であったことは間違いないと思います。この中国文化の紹介をいかに芸術的に見せるかに最大のこだわりがあったのではないかと思われます。

中国の歴史は「秦」から「清」までは「元」のようにヨーロッパまで勢力を延ばした帝国もありましたが、殆どは「易姓革命」によって王朝が変わったり林立したりしただけで、古代や中世のような区別がありません。しかも漢民族が常に主役だったわけでもありませんし。アヘン戦争、辛亥革命から共産革命、現代までの歴史は悲惨すぎてオリンピックの開会式の出し物になりません。まあ現在を象徴する革命歌と多民族の協調はとんだミソがついてしまったようですが。

開会式の内容について、もともと中国の文化に接したいという希望が多かったので開会式をそれを紹介する機会にしたという記事がいくつかありましたが、こちらの方が開会式の意図をよく表わしていると思います。

私は開会式の内容を特に批判するつもりはありませんが、オリンピック全体について、「やけくそに近い必死さ」で開催するのはもう止めて欲しいと切に思います。政治的な議論を好まない日本でこれだけ政治的に議論されたオリンピックはかつてなかったでしょう。アテネの時のようにあっさりとスポーツを楽しむ祭典で良いではないかと思うのですね。日本の選手についても、日の丸をずっしりと背負ってプレーするのも何か悲壮感があって、「日本の他のプレーヤーを代表して来ているのだ」という気概はあって当然ですが「死んでもラッパを離さない」的な覚悟はかえってプレーヤー本来の力を殺いでしまうように思います。その意味では福田総理の「せいぜい頑張って下さい。」は良いコメントだったように感じます。プレーヤーとしては勝つべくして勝つ、「寝姿」で有名な棒高跳びのイシンバエワさんのような超然さが理想のように思います。
コメント
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