映画「頭上の敵機(twelve o’clock high)1949年」に見るアメリカの苦悩
監督 ヘンリー・キング 主演 グレゴリー・ペック
名作であり、テレビドラマ化もされ、日本でも何回となくテレビで放映され、今や本屋さんでDVDが500円で買えます。子供の頃見た時は実践フィルムを多用してB―17爆撃機が縦横に飛び回る活劇だったような記憶なのですが、今見直して見ると何とも奥の深い大人の戦争ドラマであると思います。
戦争活劇というよりもドラマの大半は部下と一体化しすぎた爆撃隊長に取って替わったサベージ准将が管理職として戦争に気乗りしない爆撃隊を鍛え直してゆく管理職の苦悩を描いた作品といえます。第2次大戦中、欧州では戦略爆撃において英軍が主に夜間爆撃の手法を取ったのに対して、米軍は昼間爆撃を継続しました。爆撃目標が明瞭に見える一方で対空砲火や迎撃戦闘機の犠牲になる爆撃機が多数あったことが背景にあります。
製作されたのは1949年、勝った戦争が終わって4年目に何故米国万歳でもなく、ナチス憎しでもない管理職の映画が作られ、また皆に受け入れられたのかは興味深い所です。この映画で、若い隊員達から投げかけられる「自分たちと関係のないヨーロッパの戦争に何故命を懸けて参加しなければならないのか」という疑問は大戦中米国民が持ち続けていた切実な問題であったと思います。管理職である爆撃隊長の悩みの原因はまさにそこにあります。米国の古い戦争映画を見ると常に底流にその問題が描かれていると思います。米国は参戦しないことを公約に大統領になったルーズベルトは、日本人が嫌いであり、チャーチルに唆されたこともあって、日本に真珠湾攻撃をさせ、それを口実に第二次大戦に参戦します。当時アメリカ政府が作った戦意高揚のためのドキュメントフィルム(これも500円DVDとして本屋でみかけます)には、「戦争なんて関係ないや」という本音を語る米国市民を映す一方で「日本とドイツはこんなに酷い事をしている」という都市爆撃や真珠湾攻撃の誇張をこめた内容を映し出して、何とか米国民に参戦を納得させようとしている映像が見られます。
一方でヨーロッパで製作された第二次大戦の映画は侵略国ドイツをやっつけることに何の疑問もありません。この映画でサベージは隊員達に「使命から逃げる事はできない、欧州の空に米国の飛行機が満ちて戦争を勝利に導くことは素晴らしいだろう。」と説得しますが言葉の虚しさを彼自身も感じているように表わしているところが大人の映画を思わせます。さらに上官として前任者と同様、部下達と一体になってゆき、死地に追いやる事に耐えきれなくなってしまうというヒューマニズムがこの管理職を主人公にした映画が皆に受け入れられた要因であると思いました。
何故こんな所(アメリカ本国と関係のない場所)の戦争で死なないといけないのか、という疑問は朝鮮戦争を描いた映画「トコリの橋」(1954年:監督 マーク・ロブソン 主演 ウイリアム・ホールデン/グレース・ケリー)でも死地に赴く前の主人公に語らせます。彼を理解する空母の艦長は「この場(戦場或いは東西陣営がぶつかる接点)にいることが参戦を納得させることなのだ」と苦しい説得をします。一方でさすがにベトナム戦争では皆が「何故こんな戦争してるの」の大合唱になってしまったから「グッドモーニング・ベトナム」「プラトーン」「地獄の黙示録」などでもあえて登場人物に疑問を語らせなくても始めから疑問ありきで観客が見てくれているのだなと感じます。私は「プライベート・ライアン」(1998年スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演)も恐らく皆さんとは異なる解釈をしていて、一人の二等兵を探すために多数が犠牲になる「くそ任務」と、映画の前半に描かれるノルマンディ上陸作戦で多数のアメリカの若者が虫けらのように殺されてゆくことが同じである、という寓意が示されていて、アメリカはこれで良かったのかという問い掛けが始めと終わりにはためく星条旗とともに主人公によって語られている映画だと解釈しています。
テロとの戦いを描いた最近の戦争映画はどうでしょう。最近の戦争映画に名作がないのは、ハリウッドが大政翼賛の悪いテロリストをやっつけろというくだらない映画ばかり作り、マスコミに騙された国民が真実を描いた映画を欲しないからどうしようもない駄作ばかりが作られているのではないかと感じます。
監督 ヘンリー・キング 主演 グレゴリー・ペック
名作であり、テレビドラマ化もされ、日本でも何回となくテレビで放映され、今や本屋さんでDVDが500円で買えます。子供の頃見た時は実践フィルムを多用してB―17爆撃機が縦横に飛び回る活劇だったような記憶なのですが、今見直して見ると何とも奥の深い大人の戦争ドラマであると思います。
戦争活劇というよりもドラマの大半は部下と一体化しすぎた爆撃隊長に取って替わったサベージ准将が管理職として戦争に気乗りしない爆撃隊を鍛え直してゆく管理職の苦悩を描いた作品といえます。第2次大戦中、欧州では戦略爆撃において英軍が主に夜間爆撃の手法を取ったのに対して、米軍は昼間爆撃を継続しました。爆撃目標が明瞭に見える一方で対空砲火や迎撃戦闘機の犠牲になる爆撃機が多数あったことが背景にあります。
製作されたのは1949年、勝った戦争が終わって4年目に何故米国万歳でもなく、ナチス憎しでもない管理職の映画が作られ、また皆に受け入れられたのかは興味深い所です。この映画で、若い隊員達から投げかけられる「自分たちと関係のないヨーロッパの戦争に何故命を懸けて参加しなければならないのか」という疑問は大戦中米国民が持ち続けていた切実な問題であったと思います。管理職である爆撃隊長の悩みの原因はまさにそこにあります。米国の古い戦争映画を見ると常に底流にその問題が描かれていると思います。米国は参戦しないことを公約に大統領になったルーズベルトは、日本人が嫌いであり、チャーチルに唆されたこともあって、日本に真珠湾攻撃をさせ、それを口実に第二次大戦に参戦します。当時アメリカ政府が作った戦意高揚のためのドキュメントフィルム(これも500円DVDとして本屋でみかけます)には、「戦争なんて関係ないや」という本音を語る米国市民を映す一方で「日本とドイツはこんなに酷い事をしている」という都市爆撃や真珠湾攻撃の誇張をこめた内容を映し出して、何とか米国民に参戦を納得させようとしている映像が見られます。
一方でヨーロッパで製作された第二次大戦の映画は侵略国ドイツをやっつけることに何の疑問もありません。この映画でサベージは隊員達に「使命から逃げる事はできない、欧州の空に米国の飛行機が満ちて戦争を勝利に導くことは素晴らしいだろう。」と説得しますが言葉の虚しさを彼自身も感じているように表わしているところが大人の映画を思わせます。さらに上官として前任者と同様、部下達と一体になってゆき、死地に追いやる事に耐えきれなくなってしまうというヒューマニズムがこの管理職を主人公にした映画が皆に受け入れられた要因であると思いました。
何故こんな所(アメリカ本国と関係のない場所)の戦争で死なないといけないのか、という疑問は朝鮮戦争を描いた映画「トコリの橋」(1954年:監督 マーク・ロブソン 主演 ウイリアム・ホールデン/グレース・ケリー)でも死地に赴く前の主人公に語らせます。彼を理解する空母の艦長は「この場(戦場或いは東西陣営がぶつかる接点)にいることが参戦を納得させることなのだ」と苦しい説得をします。一方でさすがにベトナム戦争では皆が「何故こんな戦争してるの」の大合唱になってしまったから「グッドモーニング・ベトナム」「プラトーン」「地獄の黙示録」などでもあえて登場人物に疑問を語らせなくても始めから疑問ありきで観客が見てくれているのだなと感じます。私は「プライベート・ライアン」(1998年スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演)も恐らく皆さんとは異なる解釈をしていて、一人の二等兵を探すために多数が犠牲になる「くそ任務」と、映画の前半に描かれるノルマンディ上陸作戦で多数のアメリカの若者が虫けらのように殺されてゆくことが同じである、という寓意が示されていて、アメリカはこれで良かったのかという問い掛けが始めと終わりにはためく星条旗とともに主人公によって語られている映画だと解釈しています。
テロとの戦いを描いた最近の戦争映画はどうでしょう。最近の戦争映画に名作がないのは、ハリウッドが大政翼賛の悪いテロリストをやっつけろというくだらない映画ばかり作り、マスコミに騙された国民が真実を描いた映画を欲しないからどうしようもない駄作ばかりが作られているのではないかと感じます。