書評「さらば財務省」 高橋洋一 講談社2008年刊
小泉・竹中改革の司令塔、安部政権における政策参謀として郵政民営化、道路公団民営化、政策金融改革、公務員制度改革の設計図を描いた政策コンテンツクリエータ(自称)の6年半の苦闘を描いた記録であり、主に自分の出身官庁である財務省との軋轢や、役人の論理による政策遂行上の障害がどのようであったかをわかり易く解説しています。
私も役人の端くれであったことはありますが、なかなか霞ヶ関の中央における高級公務員たちの日常や考え方を知る機会はありません。この本を読むと中央官庁の仕事のやり方が漠然とではありますが想像できます。著者の高橋洋一氏は東大理学部数学科を出て大蔵省に入った変り種である。中学の時には大学の数学の問題がすらすら解けていた数学の天才である。私など「数学は暗記だ」と割り切ってからやっと試験で点数がとれるようになった数学的才能のない人間なので彼とは頭の構造が違うと思う。映画で言えば「goodwill hunting」の主人公のようなもので、彼が映画の中で話すように「音楽の得意な者が自由にメロディが浮かんで楽譜に写してゆくのと同じように数学の問題が解ける」のだろうと思います。
この論理的思考が自然にできてしまう才能というのがある意味役人的才覚とは相反するものとしてその後の著者の人生を決定付けてしまうことになります。役人というのは「課題」を出されるとそれに対する模範的回答を準備することには長けていますが、誰も問題にしていないことをわざわざ論理的におかしいという指摘はあえてしないものです。著者は大蔵省理財局時代に巨大な貸付である財政投融資のリスク管理の方法を提案するのですが無視され、後に民間の不良債権問題が出てきてからあわてて財投全体のリスク管理のシステム構築を任された話などが明快に述べられています。
経済学者の竹中氏と著者は旧知の仲だった由ですが、小泉政権の経済担当大臣に竹中氏が起用されてから著者の経済改革政策の企画立案の手腕が発揮されてゆくようになります。それは財務官僚としてというよりも論理的思考を優先した役所の利害からは独立した政府側の政策立案者としての活躍となり、結果的に霞ヶ関の慣習や利益とは対立するものとなって官僚組織の中では孤立してゆくことになります。
私は行政府のトップに立つ官僚としては著者は実に有能な官吏「能吏」であるという印象を持ちました。各省庁の官吏のトップ3人くらいは政権交代とともにアメリカのように交代しても良いのではないか、それらの人たちは民間や省庁を自由に渡り歩ける状態(ただし国民監視の上で)で生活も保証できるようにしたら現在のような硬直した縦割り官僚機構の弊害も少しは改善できるのではないかと感じています。医者は国公立病院と私立病院を自由に行き来しますが、官僚もそのようなことがあっても良いように思います。厚労省の官僚のトップが医科大学の公衆衛生学の教授や助教授、或いは医療経済学の専門家であっても良いように思うことと同じです。
能吏であるという印象なのは、小泉さんの郵政民営化にかける情熱に協力することにおいては非常に有能なのですがでは小泉さんは何故そんなに郵政民営化に固執するのかということには疑問を感じていないように見えるからです。与えられた課題に省庁の利益にとらわれず論理的に優れた回答を出すというのは「能吏」以外の何者でもありません。省庁の利害を優先して当たり障りのない回答を出す「奸吏」よりははるかによいとは思いますが。
公務員制度改革や年金問題についても彼なりの明快な解説が行われていて参考になりました。特に民主党の対案というのが対案のための対案という感じで自民党のよく練られた案よりも明らかに論理的に劣っているのに表現としては国民感情に訴える内容でマスコミ受けしていることが残念であると記されています。日本人は確かに論理的思考よりも感情を優先しがちです。しかし私は日本人がマスコミや政治家が考えるほど大事な局面でも感情に流される愚かな国民ではないだろうと思っています。休みも取らずまじめに働き、暴動も起こさず犯罪も少ない国民性が感情だけに支配されているわけがありません。マスコミも政治家ももう少し国民の知性を信頼してあまり馬鹿にしたような「受け」ねらいの行動をしないほうが良いのにと思います。確かに小泉氏の郵政改革選挙はマスコミの扇動どおりの結果になり「所詮日本人などこの程度だ」とマスコミも政治家も自信を深めたかも知れません。しかしその思い上がりに胡坐をかくほどに国民はより確かな情報を得られるメディアやインターネットに流れて行っていることも確かなのですから。
小泉・竹中改革の司令塔、安部政権における政策参謀として郵政民営化、道路公団民営化、政策金融改革、公務員制度改革の設計図を描いた政策コンテンツクリエータ(自称)の6年半の苦闘を描いた記録であり、主に自分の出身官庁である財務省との軋轢や、役人の論理による政策遂行上の障害がどのようであったかをわかり易く解説しています。
私も役人の端くれであったことはありますが、なかなか霞ヶ関の中央における高級公務員たちの日常や考え方を知る機会はありません。この本を読むと中央官庁の仕事のやり方が漠然とではありますが想像できます。著者の高橋洋一氏は東大理学部数学科を出て大蔵省に入った変り種である。中学の時には大学の数学の問題がすらすら解けていた数学の天才である。私など「数学は暗記だ」と割り切ってからやっと試験で点数がとれるようになった数学的才能のない人間なので彼とは頭の構造が違うと思う。映画で言えば「goodwill hunting」の主人公のようなもので、彼が映画の中で話すように「音楽の得意な者が自由にメロディが浮かんで楽譜に写してゆくのと同じように数学の問題が解ける」のだろうと思います。
この論理的思考が自然にできてしまう才能というのがある意味役人的才覚とは相反するものとしてその後の著者の人生を決定付けてしまうことになります。役人というのは「課題」を出されるとそれに対する模範的回答を準備することには長けていますが、誰も問題にしていないことをわざわざ論理的におかしいという指摘はあえてしないものです。著者は大蔵省理財局時代に巨大な貸付である財政投融資のリスク管理の方法を提案するのですが無視され、後に民間の不良債権問題が出てきてからあわてて財投全体のリスク管理のシステム構築を任された話などが明快に述べられています。
経済学者の竹中氏と著者は旧知の仲だった由ですが、小泉政権の経済担当大臣に竹中氏が起用されてから著者の経済改革政策の企画立案の手腕が発揮されてゆくようになります。それは財務官僚としてというよりも論理的思考を優先した役所の利害からは独立した政府側の政策立案者としての活躍となり、結果的に霞ヶ関の慣習や利益とは対立するものとなって官僚組織の中では孤立してゆくことになります。
私は行政府のトップに立つ官僚としては著者は実に有能な官吏「能吏」であるという印象を持ちました。各省庁の官吏のトップ3人くらいは政権交代とともにアメリカのように交代しても良いのではないか、それらの人たちは民間や省庁を自由に渡り歩ける状態(ただし国民監視の上で)で生活も保証できるようにしたら現在のような硬直した縦割り官僚機構の弊害も少しは改善できるのではないかと感じています。医者は国公立病院と私立病院を自由に行き来しますが、官僚もそのようなことがあっても良いように思います。厚労省の官僚のトップが医科大学の公衆衛生学の教授や助教授、或いは医療経済学の専門家であっても良いように思うことと同じです。
能吏であるという印象なのは、小泉さんの郵政民営化にかける情熱に協力することにおいては非常に有能なのですがでは小泉さんは何故そんなに郵政民営化に固執するのかということには疑問を感じていないように見えるからです。与えられた課題に省庁の利益にとらわれず論理的に優れた回答を出すというのは「能吏」以外の何者でもありません。省庁の利害を優先して当たり障りのない回答を出す「奸吏」よりははるかによいとは思いますが。
公務員制度改革や年金問題についても彼なりの明快な解説が行われていて参考になりました。特に民主党の対案というのが対案のための対案という感じで自民党のよく練られた案よりも明らかに論理的に劣っているのに表現としては国民感情に訴える内容でマスコミ受けしていることが残念であると記されています。日本人は確かに論理的思考よりも感情を優先しがちです。しかし私は日本人がマスコミや政治家が考えるほど大事な局面でも感情に流される愚かな国民ではないだろうと思っています。休みも取らずまじめに働き、暴動も起こさず犯罪も少ない国民性が感情だけに支配されているわけがありません。マスコミも政治家ももう少し国民の知性を信頼してあまり馬鹿にしたような「受け」ねらいの行動をしないほうが良いのにと思います。確かに小泉氏の郵政改革選挙はマスコミの扇動どおりの結果になり「所詮日本人などこの程度だ」とマスコミも政治家も自信を深めたかも知れません。しかしその思い上がりに胡坐をかくほどに国民はより確かな情報を得られるメディアやインターネットに流れて行っていることも確かなのですから。