rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

司馬史観、反司馬史観

2010-12-30 00:51:21 | 歴史

坂の上の雲第2部が先日終了して来年末にいよいよ第3部完結編ということになりました。いろいろと懸念されるところもありましたが、私は丁寧にまた豪華に作られたNHKらしい良い作品だと感じています。俳優陣の豪華さに加えて外国人は全て母国語という所も良い。

 

ドラマの主体は圧倒的な強さを誇る西洋列強に飲み込まれそうになった明治日本の人達が五里霧中ながらもがむしゃらに西洋に追いつき追い越すために頑張り、古い因習にとらわれずに叡知をしぼってとうとう清国を破り大国ロシアを「戦闘において負かす」ところまで行った、という事実を描くことにあると思います。

 

この幕末から明治にかけて日本が西欧列強に飲み込まれないよう「合理的に」「がむしゃらに」しかも「叡知を絞って」近代化を突き進んだ様は素晴らしいが、昭和に入って日本が西欧の帝国主義と同じ道を歩むようになり、「意固地で」「利己的で」「非合理的」つまり幕末明治期の良い所を失ってから日本が駄目になった、というのが所謂「司馬史観」というものです。司馬遼太郎の小説や随想を読むと随所にこの考えが出てきます。この考え方は判りやすいし、大方の諸外国の日本に対する考え方とも対立するところが少ないので受け入れられやすいのだろうと思います。

 

しかし明治の人達は本当に素晴らしかったのか?「司馬氏は小説として明治を良く書きすぎているのではないか」という批判があります。確かに大きな変革の時代は時代を象徴する人物に光を当てて善悪の評価を加えながら小説化しやすいという特徴はあります。それは日本に限らずどの国の歴史においても言える事と思います。

 

一方で明治に限らず、昭和においてもいつの時代も日本人は最善を尽してその時々の時代の選択・決断をしながら生きてきたのだ、という考え方もあります。特に「昭和初期に日本は西欧列強と同じ帝国主義になったのだ」というのは西欧列強から日本を見た見方であって、日本人自身はそう思っていなかった、という考え方もあります。確かに欧州諸国がアジア・アフリカの国々を植民地化したのと同じやり方で日本は植民地経営をしたわけではありません。人種の違う人達を人間扱いせず奴隷として扱うような西欧的なことはしませんでした。むしろ現在の中国がウイグルやチベットに対して行なっているやり方に近い方法といえるかもしれません。

 

日本が輝かしい国として描かれること自体がNGなのだ、という「レベルの低い単なる反日的理由」で司馬史観を批判する輩もいます。これは問題外ですが。

 

年末を迎えて日本は危機的状況と言われながらもGDPは世界3位ですし、路上で飢え死にする人達が続出する気配もありません。医療制度も整っていて疫病が蔓延する状況もなく衛生的です。政治家は殆ど仕事をしていないのに世界が金融ショックに喘いでいる中で円が断トツに強さを保っています。近年殺人事件や刑事事件は戦後最低のレベルだそうです。1億人を越す人口を持った国が激動の世界情勢の中で何とかこのレベルで生活できているというのは、小説になりそうなヒーローはいませんが後世から見ると「けっこう大した事」なのかも知れません。
コメント
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