以前日本人にとって「倫理的な善」とは自分の所属する集団にとって利益になることを指し、自分の所属する集団とは家族、地域、会社、国家や世界全体、或は未来の日本人や人類も含むがそれは物事を判断する場合と状況によって異なると書きました。自分の所属する集団を会社に限るか日本全体に広げるかによって善となる判断結果は変わってくる場合があります。それは会社にとって目先の利益になることも日本の社会全体にとってはマイナスになることもあり得るからです。「仁」というのは孔子の説く儒学に基づく思想であり、中国からの輸入思想ですが、自分の利益のみを追求する社会が乱れ、かえって皆が不幸になることから社会を統治する上で利益を考慮する範囲を時間的空間的に広げる事が巡り巡って自分が幸せに暮らすことにもつながるというのが「仁」の思想であると解釈されます。支配者が暴虐なだけで社会が乱れると民衆の力によって易姓革命が起こされて天の配剤によって次の支配者が決まるというのが中国における革命の理屈です。だから支配者には仁が求められるというのが儒教的発想なのでしょう。現在の拝金主義共産中国では仁の思想は文化大革命で一度否定されましたが、また見直されてきていることはNHKスペシャルでも紹介されたと前に述べました。賄賂や利権で腐敗した共産党政権に仁が求められる事は明白ですが、民衆の側にも秩序を重んずる儒教的思考を支配する側が求めているのだと思われます。
日本では江戸時代以前から「仁政」の思想が脈々と受け継がれており、上に立つ者ほど質素を旨とし、民への配慮を施す事が「良し」とされてきました。幸いにして明治以降の君主であった諸代天皇も記録などで伝え聞く限り仁政を目指していたと思われます。また国民の側も為政者たるもの仁政を施すことが当たり前であると考える習慣があり、官僚など「お上」に対する信頼は諸外国と比べ物にならないほど強いものがあります。官僚のセクショナリズムや利権に執着する姿が露呈されるようになったとはいえ、国民の税の使い方への無頓着さを見ても基本的な所での行政への信頼は崩れていないように見えます。
翻って万人の万人に対する闘争状態を治めるために権利の一部を社会・国に差し出すことによって統治システムを維持しようという西欧民主主義社会においては、基本的に庶民の代表たる為政者は多数派の利益代表ではあっても国民全てに対して「仁」の心で政をほどこす意識はないと言えるでしょう。日経BPの過去の記事に「民主主義と仁」についての興味深い記事がありました。
(以下転載)
守屋淳 渋沢栄一と論語の旅をたどる2010年7月
孔子の説く「仁」とは愛する範囲を時間的空間的に広げること
《民主主義的な決定方式は、異なる世代間にまたがるエゴイズムをチェックするシステムとしては機能しない。それは構造的に民主主義は共時的な決定システムであり、地球環境問題が通時的な決定システムを要求しているからである》
《人類は近代化によって、「過去の世代にはもう遠慮はしませんよ」という文化をつくり上げた。それが実は、「未来世代にも責任を負いません」という反面を含んでいる。つまり封建倫理は単に古い世代の支配だというのは、近代主義者の偏見であって、封建倫理は未来世代のための倫理でもあったのだ》
『環境倫理学のすすめ』加藤尚武
確かに議会には「いま生きている人間の利害代表」しか送れないわけですから、目先の先送りが可能な財政や環境問題というのは、どうしても子孫へツケ回しされがちになるのでしょう。たとえば、もし子孫が51%以上の代表を今の議会に送って来たなら、「なぜ俺たちに負担させるんだ」と否決される法案ばかりになってしまうかもしれません…。
(転載おわり)
西欧に「仁政」につながるような思想が全くないかというとそうでもなくて、近代化につながる時代の準貴族達、イギリスではジェントリーとかヨーマン、ドイツではユンカーと呼ばれていた人達は社会の健全化のために広い視野で物事にあたり、いわゆる「ノブリスオブリージュ」と言われる思想の原型を形作ったと言われています。しかし、それを学問体系までに纏め上げた孔子に相当する人はいない訳で、その点明らかに古代中国の思想の方が優れていると私は思います。
最近のアメリカ社会を見ると99%の貧しい人よりも1%の金持ちの方に政治の決定権があることが明らかであり、民主主義がうまく機能していないことが解ります。仁の思想があれば1%の人が使い切れないほどの金を独占することはあり得ません。「足るを知り、広く利益を分散する」ことで社会が豊になり、巡り巡って自分も幸せになるというのが「仁」の思想ですから、自分達の利益のみを優先し、タックスヘイブンを活用し、社会への還元を極力抑えるなどというグローバリズム思想は「仁」の思想の対極をなすものです。
我々は優れた「仁」の思想を拝金主義のアメリカなどに教えてあげる必要があるように思うのですが、恐らく上手く行かないだろうと思います。「心の底で猿と思っている日本人に思想を教わる必要などない」という本音もあるでしょうが、心の広いアメリカ人がいたとしても「キリスト教的な愛他精神」と「仁の心」は似て非なるものに思われるので、どうしても一神教的な考え方から抜け出せない人種の人達には理解できないように思われるからです。儒教は道徳なのか宗教なのかという論争もありますが、宗教と捉えるとなおさらキリスト教からの宗旨替えをする位の思い切りがないと仁の心は理解できないのではないかと思います。なにしろ「仁」には神との契約は一切ありませんから。
日本では今後完全な西欧的な思考に基づく民主主義が根付くとも思えませんし、かといって封建主義にもどることもないでしょうから、現在のような「お上」指向の政治が続くように思います。それでも衣食住が足りて国民がそこそこ豊かで満足のゆく生活が送れれば政治形態がどうであろうが何の問題もありません。政治は良く生きるための方便でしかないのですから、形はどうでも結果が良ければ良いのです。従って結果的にそこそこ国民が良い生活を送るためには、政治家は勿論ですが、お上である官僚や行政に「仁」の心がしっかりと備わっている必要があります。そのためには東大における教育や官僚になる試験において儒教が問われる必要があるという事になるかも知れません。