rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

米国医療の光と影に見るダブルスタンダードの正体

2014-05-01 00:05:52 | 医療

神戸で開催されていた日本泌尿器科学会102回年次総会に出席してきました。100回の時にはiPS細胞の山中教授の講演などもありブログにも書きましたが、今回の総会では元ハーバード大学医学部准教授でコラムニストの李 啓充氏(京都大学卒の内科医)の「米国医療の光と影」と題する講演が印象深かったので備忘録を兼ねて記しておきます。

 

氏は日本医師会の新聞にも連載のコラムを執筆されており、米国医療についての単行本も多く書かれているので以前から知っていたのですが、今回直接講演を聞く機会があり、また普段から私が疑問に思う点などを直接会場で質問することもできたので有益だったと思います。

 

まず米国医療の光の部分の説明から入りました。

・   米国の医療は徹底したインフォームドコンセント(説明と同意)が行われて、患者が本当に納得した医療でなければ行われることはない。

・   医療を拒否する権利も徹底しており、無駄な延命や本人の意思に反した延命は拒絶できる。日本では一度付けた人工呼吸器を外せないようだが、これは人権侵害であり、始めから呼吸器を付けないという方針も途中で外すことと同じ行為であり、あくまで個人(家族または意思決定権者)の意思が尊重されなければ本物ではない。

 

一方で影については

・   人口の30%は無保険者であり、十分な医療が受けられない状態にある(オバマケアで改善されつつある)。

・   医療費が高く、市場原理主義の医療で、民間保険の儲け主義がまかり通っている。

 

これらの内容についてご自身が病気で手術を受けた体験を交えて具体的に例示してくれました。本にも書かれていることなので差し支えないと思われますので、ここでも書きますが、大腸の悪性腫瘍でハーバード大学の病院に入院、手術を受けた際、主治医と良く相談して内視鏡的手術を受けることになったにも関わらず、入院直前になって保険会社から「開腹手術でしかも人工肛門を付ける普通の手術でなければ保険は支払われない」と通知を受けてしまいました。カルテによる詳しい検討もなく、インフォームドコンセントも全く無視で一方的に治療方針の変更を保険会社が決定してくる、しかもその決定には普通逆らえないという不条理がまかり通っているということです。氏は自分の医師としての知識とつてを頼って何とか決定に対して不服申請をして2ヶ月後に認められ、3ヶ月後に無事予定された手術を受ける事ができたということです。しかも病院からの請求額が入院費650万円、ドクターフィー500万円であった所、保険会社が一方的に値切って120万円(9割り引き)になったという。これが無保険者の場合値切ることができず、払うか破産する他手がないということです。

 

どうも光と影のバランスがおかしい。これは他の分野でもよく見られるその時の都合で理屈を使い分ける欧米人特有のダブルスタンダードではないかと私には思われました。そこで1)受ける医療については自分の意思が最も尊重されるというが、人工妊娠中絶については必ずしもその原則が守られていない点はどう説明するか。2)市場原理主義がインフォームドコンセントよりも優先される事態、「合法であれば理不尽でも正義」という現状を米国社会は論理(倫理?)矛盾として扱わないのか、について質問してみました。

 

氏の答え、1)については、児の生きる権利をどこまで尊重するかと、やはり宗教的倫理観によって制限が出てくるのだが、女性が妊娠について自己決定する権利は尊重されるべきだとする意見が強い、ということ。2)については、時代によって人権が市場原理よりも強くなったり、逆になったりするのだが、今は市場原理が強くなっている時代と言える、今後はまた変わるかもしれないということでした。

 

ある程度納得できるものではありますが、私は別の考えを持ちました。つまり前から述べているように、日本人と一神教である欧米人とは物の善悪を決める基準が違うことがダブルスタンダードに感ずる原因ではないか、ということです。人権の尊重は「神の法」に属することであり、神との契約の上で守らなければならない事です。一方で市場原理主義は人間同士の「王の法」「人間同士の契約」に属することであり、モンテスキューの法の精神でも述べられているように「銃で脅されて結んだ契約であっても契約であるなら守らねばならない」という合法性についての厳しい考え方に基づいているのであり、不服があれば裁判で合法性について争いなさいということになっています。李氏も保険会社から手術法の一方的変更を迫られた時、インフォームドコンセントを尊重して保険を脱退するか、不服として裁判(この場合は書類審査でしたが)に訴えるかの選択を迫られて後者を選んだのですから、結果的には欧米的な「法の精神」の考え方に従った行動と言えます。

 

キリスト教を純真な心で布教しておきながら、後から侵略して植民地にしたり、奴隷として住民を連れ去ったりすること、「慰安婦は人道に反する」などと言いながら原爆は平気で落としてホロコーストをすること、クジラ漁は残虐だと批難しておきながら、工業的養鶏や畜産で動物虐待を平気で行うことは、我々から見ると身勝手なダブルスタンダードにしか見えませんが、もしかすると欧米人の心の中ではある程度整理のついた「正義の判定基準が違う事態」なのかも知れないと感じました(それでも納得はできませんが)。

コメント
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