1)はじめに
中韓が慰安婦や靖国神社参拝などの問題に執拗にこだわるのは、自らの政権が依って立つ基盤の脆弱性を日本の敗戦にまで遡って「悪に対する正義」として自分達の政権が存在することを自国民に訴え続けなければならないという明確な理由があるからですが、ブッシュ政権において小泉総理が靖国参拝にこだわりを見せてもあまり問題視されなかったのに対して、オバマ政権が安倍総理に対して「戦後秩序の維持」という概念を強調し始めていることは、「単に安倍総理が戦前回帰を目指しているように見えるから」というだけに留まらないように思います。
2)現在考えられるところの「戦後秩序」の正体とは
そもそも「戦後秩序」とは何を意味するかというと、「第二次大戦における連合国は枢軸国というファシズム国家群に対して、自由と民主主義を守るための正義の戦いをした」という戦争に倫理観を持たせることで、戦後の世界のあり方(戦勝5大国による世界支配)が「倫理的に正しい姿」であるという意味付けだと思います。ソ連のスターリニズムがいかに独裁専制的であったとしても、スターリンをヒトラーになぞらえる事は、冷戦中の米国でさえ行われた事はなく、実態はどうであっても共産主義体制はファシズムとは異なるものとして「自由と民主主義」の一部と捉えるよう規定されてきました。むしろ社会主義体制こそ望ましい民主主義であると真剣に信じている人達が日本を含む世界についこの間まで多数いたのです。本来「・・人民共和国」というのは「主権在民の共和制に基づく民主主義国家」を意味する言葉です。
しかし90年代まで続いた東西冷戦が戦後秩序の概念を複雑にしました。ファシズムとの戦いは明らかな倫理観に基づく善なる戦いであったことはある程度万民が納得できるものでしたが、ソ連を中心とする社会主義国家と西側資本主義諸国の戦い(冷戦)は倫理的善悪に基づくものではなく、社会・経済体制としてどちらが優れているかという漠然としたものであり、西側・東側という米ソの勢力範囲を競うものであることは明らかでしたが、実際に戦われた朝鮮戦争もベトナム戦争も倫理的に善悪はなく、しかも決着もつかないという中途半端なものでした。ところが戦後50年近く続いた冷戦が、「資本主義体制を取る西側民主主義国家vs社会主義経済体制を取る共産主義国家」という「政治体制と経済体制」がセットになった状態での対立であったことから、ソ連を中心とした東側陣営が崩壊した時に、「資本主義体制と西側民主主義国家」がセットで勝利した結果になりました。実際東側陣営が崩壊したのは、社会主義経済がうまく機能しなかったからに他ならない訳で、西側の民主主義政治体制が勝利したのではなく、「資本主義が勝利をした」というのが現実だったと言えます。
3)東側の崩壊は経済がきっかけだが、人々が望んだのは今の資本主義経済か
ここで大きな勘違いが生じます。西側が標榜していた民主主義体制と経済体制である資本主義は本来別物であったのですが、東側の社会主義と社会主義経済が一体であったために「セットとして矛盾がないもの」と勘違いされてしまったのです。特に原始的な資本主義である市場原理主義は明らかに民主主義国家体制とは相容れない対立する概念を含むものであるのに、東側が崩壊したことで西側の民主主義体制と資本主義が共に矛盾なく優れた物として認識される事になりました。そしてこの体制が戦後秩序の一つとして組み込まれることになったのです。確かに社会主義経済がうまく行かなかった事がきっかけでソ連は崩壊したのですが、東側の人達が真に望んでいたのは資本主義経済になることではなく、言論の自由などの政治的・生活の自由であったはずです。だから政治的な自由は得たものの、経済体制が資本主義になった事で却って生活が苦しくなって様々な弊害がソ連東欧諸国に出てきており、それがウクライナを始めとする種々の紛争の原点になっているのです。
「戦後秩序」の意味するものが「ファシズムに対して自由と民主主義を守る」事であるという本来の定義を思い出して下さい。戦後の東西冷戦で資本主義経済体制を取る西側民主主義国家と社会主義経済体制を取る東側社会主義国家では、西側が勝利を治めたのですが、それは経済体制において勝敗がついただけで、東西どちらも「戦後秩序の範囲」において行われていた争いに過ぎません。従って「東側諸国も資本主義経済体制を取れば政治的な体制まで変える必要はない」という理屈が成り立ち、実際それを実践したのが中国です。しかも「資本主義体制を取ることで中国も西側的民主主義国家になるだろう」とセット体制による冷戦の終結を単純に信じていた西側諸国の人達を裏切る結果となり、むしろ経済体制だけ変えれば共産党独裁国家が維持できることを証明してしまいました。それ以上に、市場原理主義は一党独裁国家との相性が良いかもしれないと「グローバル企業による資本主義」に対立する概念としての「国家資本主義」が台頭するにつれて認識されるようになってしまいました。つまり現在の中国は「倫理的善である戦後秩序を体現している状態である」と戦後秩序という言葉によって強調する事までできているのです。
民主主義と市場原理主義は対立するものです。(共産主義)独裁体制とファシズム(国家社会主義)は同一なもので、人類の未来のために共に葬り去らなければなりません。
皆薄々この事実には気づいてきているのですが、国際社会で声高にこれを叫ぶことは「戦後秩序に反する」と批難され、タブーとされます。実はこれを叫ばれると大変困る人達、既得権益者達があまりにも大勢いるのです。市場原理主義者は人間の尊厳よりも市場原理を優先します。自由な市場において強者のみが勝つことを何よりも優先してしまいます。人権や政治的自由が尊重されてきた西側諸国において何故市場原理主義者がはびこるようになったのか、その秘密は、私はキリスト教、特にプロテスタンティズムを奉ずる一神教的精神構造に原因があると私は考察しています。
4)倫理的善悪をめぐる二重構造
ここは前のブログである「米国医療の光と影」や「倫理的善悪の違いが歴史観に反映する」で述べてきた内容と同じになります。つまり倫理的な善とは神との契約において扱われるものであって、基本的人権といったものはそちらに属するのですが、経済に関する事などは論理的に正しいかどうかで決定されるのであって、rationalであれば理不尽でも正義であるとするキリスト教(特にプロテスタンティズム)独特の思考方法(Ethos)によるものと思われます。不満があれば裁判でrationalityを争いなさいという考え方です。我々日本人は自分の属する集団にとって利益がある事を「倫理的善」と判断する習慣が自然と身に付いているからなかなか彼らの思考方法を理解することはできません。明らかに行き過ぎと思われる市場原理主義もそれが「合法」であるならば「どんなに理不尽な内容でも正義」となり服従しなければ罰せられます。TPPやFTAでの細かい点での合意による締結に米国が拘るのはまさに「理不尽でも正義」と相手の言い分を突っぱねられるかどうかの合法性がここに関わってくるからです。
5)今後どうあるべきか
敗戦国である日本が「戦後秩序」という言葉に対抗することは容易ではありません。「日本の戦前は倫理的な悪ではなかった」事を種々の資料をあげて証明しようとする試みも大切ではありますが、本質的な解決にはならないのです。何故なら「戦後秩序」を持ち出す目的が「市場原理主義」と「共産党独裁国家であってもファシズムではない」ことの正当性を強調するために使われているからです。日本の戦前がどうであろうとこれを持ち出している人達にとってはどうでも良い事なのです(言われている日本人としては虚偽であり、不愉快で居心地が悪いものであることは当然ですが)。むしろ彼らにとって困るのは「市場原理主義が民主主義と対立すること」「(共産党)独裁政治がファシズムと同じであること」を証明されてしまうことです。私はこの問題の解決の糸口となるのは宗教ではないかと考えています。
○ 二重構造を持たないイスラム教的生活
書評「一神教と国家」において同志社大学神学部元教授で自らもイスラム教徒である中田考氏も述べていたように、同じ一神教でもキリスト教と異なりイスラム教は宗教と日常生活が分かれておらず、神との契約が日常生活全てを支配します。プロテスタンティズムにおいては得てして「我欲と煩悩の追求」を神との契約とは別個の善悪の判断によって都合良く正当化しているように見え、異教徒からはダブルスタンダードにしか見えないことが多々あるのに反して、イスラム教徒のエトスは信教の度合いはいろいろあるでしょうが、一貫しているように思います。そこが逆にプロテスタンティズムに基づく社会正義からは敵視したくなる部分であるかも知れません。しかしイスラム教的生活の方が市場原理主義にない、人間性を第一に考えた生き方であると異教徒である我々が認めることは市場原理主義者達にとっては耳の痛い話になると思われます。
○ 日本的善悪の思考法を広める
宗教的思考を離れて、自分を含む皆の利益になることが倫理的にも良い事であり、理に適っている(合理的である)ということを真っ向から否定することは難しいことだと思います。環境問題などはまさにこの理屈から導きだされるものです。
○ 独占の禁止による人間性への回帰
米国医療の光と影で李 啓充氏が私の質問に答えて述べていたように、「行き過ぎた市場原理主義に対する人間性への尊重への揺り戻し」がいつかは起こってくるであろうことは間違いないと思います。1%の経済的に豊かな強者と99%の貧しい人達が共存して民主主義を続けることはできません。必ず強権による弱者の支配が生まれ、それに対する暴力的抵抗が生まれ、革命が起こるか、望むらくは非暴力的な人間性への回帰によって、より継続可能で皆が幸せに暮らせる社会へ発展してくれるものと期待します。独占の禁止(富に上限を設ける)、この一点を成し遂げるだけでも数多くの問題が解決することは間違いありません。時間はかかるでしょうが、丁寧に21世紀の明るい未来のために少しずつ前進させねばならない問題と思います。