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2203 園城寺 三井寺と呼ばれる寺

大津

園城寺
天台寺門宗の総本山。境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。

大門(仁王門)
もと常楽寺にあった宝徳四年(1452)建築の仁王門。豊臣秀吉が伏見城に移し、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進した。

金堂
国宝。高台院(豊臣秀吉の正室北政所)が慶長4年(1599年)に再建した。

鐘楼
近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる梵鐘を吊る。

光浄院客殿
国宝。慶長6年(1601年)に元光浄院の住持であった山岡景友(道阿弥)により再建される。

霊泉
天智・天武・持統天皇の 産湯に使われたとされる。

霊鐘「弁慶の引摺鐘」
田原藤太(藤原秀郷)が三上山のムカデ退治のお礼に 琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝える。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(帰りたい帰りたい)と響いたので、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったとされる。 鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

一切経蔵
もとは山口の大内盛見の菩提寺であった国清寺(現在の洞春寺)にあったものを、 慶長7年(1602)に毛利輝元によって移築された。

三重塔
もと奈良県吉野の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔で、豊臣秀吉が文禄3年(1594)に伏見城に移していたのを慶長6年(1601)、徳川家康が三井寺に寄進したもの。

勧学院客殿
国宝。慶長5年(1600)に毛利輝元によって建立された。一之間から二之間には、狩野光信の障壁画が描かれている。

三井寺は朝廷や武家からの信仰を集める一方で、比叡山延暦寺との抗争に明け暮れるなど紆余曲折ありながら現在まで続いています。様々な建築は武将たちとの繋がりがあり特に光浄院・勧学院の両客殿は桃山時代における、書院の代表的建築として極めて貴重です。
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