ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングやメールカウンセリングなどをやっています

そだねー、と、いーんでないかい、についてのカウンセリング的考察(?)

2025年01月30日 | 心理臨床を考える

 2018年2月のブログです。

 平昌冬季オリンピックのカーリングを見ていて、思いつきました。

 カーリングを見て、カウンセリングのことを考えるなんて、われながらただ者ではないのかもしれません(?)。

     *   

 そだねー、がすっかり有名になりました。

 どさんこのじーじは、しばらくこれが方言とは気づかずにいたのですが、そういわれてみれば、標準語と少し違うんだなということがようやくわかりました。

 でも、そうだねー、より、そだねー、のほうが、なんか温かみがありません?

 カウンセリングにも使えそうです。

 〇〇と思うのですが…、そだねー。

 ほら、いいでしょう?

 もうひとつの北海道弁、いーんでないかい、も使えそう。

 〇〇と思いますが…、いーんでないかい。

 ね、なかなかいいでしょ?

 一方、新潟弁には、そうだんがー、という言葉がありますが(主に長岡地方です)、少し強すぎますかね?

 〇〇ではないでしょうか?そうだんがー。

 カウンセリングにはちょっときついですかね?

 そういんだー、というのもあります。

 ○○ですよね?そういんだー。

 これくらいだといいですかね?

 いずれにしても、方言はいいですよね。

 歴史と人々の暮らしの営みとに育まれてきたぬくもりが伝わってきます。

 今回、北海道弁の優しさを再認識したじーじは、今後は、北海道弁と新潟弁でローカルなカウンセリングをしていきたいな、と決意を新たにしたのでした。       (2018.2 記)

     *

 2019年5月の追記です

 「なつぞら」を観ています。北海道の自然の美しさとともに北海道弁のなつかしい響きが心地よい毎日です。

 そういえば、なーんもだー、という北海道弁もいいですね。       (2019.5 記)

        *

 2020年1月の追記です  

 東直己さんの小説を読んでいます。北海道弁が満載でとても懐かしく、そして楽しいです。       (2020.1 記)

     *

 2021年9月の追記です

 週末のカーリング女子日本代表決定戦、ロコ・ソラーレ2連敗のあとの3連勝、しびれました。       (2021.9 記)

     *

 2022年2月の追記です

 北京五輪でもロコ・ソラーレはにぎやか。涙あり、笑いありで、素直な姿が魅力的です。

 フロイトさんやビオンさんは、精神分析では驚きが大切、と述べました。

 土井健郎さんは藤山直樹さんに、面接はハラハラ、ドキドキだよ、と述べたそうです。

 新鮮な驚きと素直さは、カウンセリングにとっても大切なことのようです。       (2022.2 記)

     *

 2023年2月の追記です

 カーリング女子の日本選手権で藤澤五月ちゃんがストーンを投げる時に転んでしまいました。あんな天才でも転ぶことがあるのですね。

 まして、じーじなどは転びまくりの人生です(?)。

 そういえば、以前、『ころんで学ぶ心理療法』(遠藤裕乃・2003・日本評論社)という本をご紹介したことがありました。

 転んでこそ、強くなれるんですね。        (2023.2 記)

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わからないことに耐えることやあいまいさに耐えることの大切さについて考えてみる-精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月25日 | 心理臨床を考える

 2024年11月のブログです

     *

 わからないことに耐えることやあいまいさに耐えることの大切さについて考えてみる。

 精神科医の中井久夫さんは、シェイクスピアさんの『ハムレット』を引用して、世の中には人間の力ではわからないことがいっぱいあること、そして、わからないことに耐えることの大切さについて述べている。

 人はわからないことがあると不安になるが、そこで安易に結論を急がずに、わからないことに耐えて考え続けることの大切さに言及し、それが希望を失わないためにも大切なことだと述べる。

 一方、精神分析のビオンさんは、詩人キーツさんがやはりシェイクスピアの作品の中にあいまいさに耐えることの大切さについて述べていることに触れ、早急に結論を出すことに消極的な能力、負の能力(ネガティブ・ケイパビリティー)の重要性について述べている。

 わからないことやあいまいなことに耐えて考え続けることは、成熟をした人格には不可欠な要素の一つであるようだ。

 人格が未熟な人は、早急な結論を求めて、考え続けるということが苦手だ。

 白か黒か、右か左か、イエスかノーか、などと二者択一の答えを求めがちだ。

 しかし、おそらくは、正解はその間のグラデーションの中のどこかにあるのだろうと思う。

 社会的には、自分の考えを主張し続けて、対立をあおるのではなくて、話し合いの中で、妥協点や一致点を見出していく作業が成熟した社会である。

 十分な話し合いをせずに自己の正義のみを主張するような人は、社会を分断し、差別し、違う意見の人を排除することになるだろう。

 多数決の原理は、一見、民主的に見えるが、話し合いが十分でない社会では、数による支配、力による支配になり、それは、独裁や全体主義、ファシズムの一歩手前の危険性をはらむ。

 ヒトラーだって、当時、最も民主的と言われたワイマール憲法のもとで合法的に政権を獲得し、その後は数と暴力でナチズムを推し進めたことを忘れてはならないだろう。

 わからないことに耐えることやあいまいさに耐えて考え続けるという成熟した人々が行なう政治が、こういった危険性を防ぐことになるのではないかと思われる。       (2024.11 記)

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 1954年、北海道生まれ  

 1977年、家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

 2014年、放送大学大学院(臨床心理学プログラム)修了  

 2017年、臨床心理士

 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の相談・援助などを研究

 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 連絡先 メール  yuwa0421family@gmail.com    

 

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「馬が合わない」人や「虫が好かない」人について考えてみる-ユング心理学に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月08日 | 心理臨床を考える

 2024年12月のブログです

     *

 「馬が合わない」人や「虫が好かない」人について考えてみる。

 以前、河合隼雄さんがどこかに書いていたが、日本語でいう「馬が合わない」人や「虫が好かない」人は、「自分」が合わないのではなく、「馬」や「虫」が合わない、という表現をしていることが面白い、と指摘をされていた。

 決して、「自分」ではなく、「馬」とか「虫」という、なんだかわけのわからないものが合わないわけである。

 そして、河合さんは、これは、ユング心理学でいう「無意識」が合わないことを表している、と述べられている。

 ユング心理学では、こころは意識と無意識からなっていると考え、意識の中心を「自我」、無意識を含めたこころ全体の中心を「自己」と呼ぶ。

 そして、意識偏重、自我偏重の現代社会を危惧し、無意識を含めたこころの全体、自己を大切にすることを述べる。

 「馬」が合わなかったり、「虫」が好かなかったりする人は、なんだか理由はよくわからないが、こちらの無意識と合わない、なにか無意識が刺激をされている状態にある、と考えるわけだ。

 そして、河合さんは、こういうこちらの無意識が刺激をされる場合には、こちらの自分が人生で生きていない側面、自分が抑圧しているこころの側面を「馬」や「虫」が教えてくれている、と考えることが大切だという。

 このように考えてみると、理由がわからないのになんかギクシャクしている人間関係が、少しは冷静に、客観的に眺められるようになるのかもしれない。

 もっとも、これは、なかなか難しいことであるが、こういった視点を持っていることは大切だなあ、と思う。

 頭でっかちで、こころを大切にしない人たちが多い現代社会の歪みや人間関係を視るには、重要な視点の一つかもしれないなあ、と思ったりもする。

 今後は、「馬」さんや「虫」さんを大切にしていこう(?)と思っているじーじである。        (2024.12 記)

     *

 同日の追記です

 上記の文章を書いた後、河合さんの引用に間違いがあってはまずいと思い、じーじの本棚にある何冊かの河合さんの本をパラパラとめくる。

 すると、河合さんの初期の名作『コンプレックス』(1971・岩波新書)に「虫」さんのお話が、『大人の友情』(2008・朝日文庫)に「馬」さんと「虫」さんのお話が出ている。

 『大人の友情』には、「腹の虫がおさまらぬ」という表現も出てきて、「虫」さんが大活躍している。

 もの忘れのひどいじーじには、めずらしく、当たり!だったが、それだけ印象が強かったのだろうと思う。

 もっとも、ユング心理学の解説は、あくまでもじーじの理解によるので、もし間違いがあったら、じーじのせいだ。

 逆にいうと、じーじはユング心理学をこの程度にしか理解できていないということだが、この程度の理解でも結構役に立っているので、やはりユング心理学はすごいと思う。

 精神分析の一部の人たちには、実現すべき「自己」などはない、と厳しいことをいう人もいるが、じーじが素人なりに思うのは、精神分析とユング心理学は方法論が違うだけで、めざしているものは意外と近いのではないかなあ、という印象を受ける。

 いずれにしても、両者ともすごい学問だなあ、と改めて思うじーじである。

 

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他人を非難する人の心理学を考えてみる-精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月03日 | 心理臨床を考える

 2024年10月のブログです

     *

 SNSやブログを見ていると他人を非難する人を多く見る。

 大谷くんですら、ちょっと調子が悪いとくそめそだ。

 読んでいると気分が悪くなる。

 その最たるものはトランプくんだと思うが、そういうふうにすぐに他人を非難する人はどういう心理なのだろう?と考える。

 他人を非難することで自分が優越感に浸りたいのか、他人を貶めることで自分の万能感を満たしたいのか?

 しかし、いずれにしても錯覚に過ぎないだろう。

 他人を非難しても、自分が偉くなれるわけではないし、すばらしくなれるわけでもない。

 むしろ、敵を作り、憎悪を煽るだけだろう。

 それがわからずに自己満足に陥り、悪いのは周りだと攻撃性を強めているように見える。

 パワハラや(あまり好きな言葉ではないが)カスハラにも同じ根っこを感じる。

 悪いのはみな周りで、自分は正義だと錯覚をしている。

 自己中心的で他者への配慮ができないような、人格が未熟な印象を受ける。

 短絡的で感情優位のパーソナリティなのかなと思う。

 精神科医の中井久夫さんがいうように、成熟をした人格には、わからないことに耐えて、すぐに結論を出さずに考え続ける態度が大切になる。

 精神分析のビオンさんも、あいまいさに耐えることの大切さを述べている。

 いいか悪いか、イエスかノーか、敵か味方かなどを簡単に決めつけずに、考え続ける努力が必要だ。

 正解は、白か黒かではなく、その間のグラデーションのどこかに存在するのではないだろうか。       (2024.10 記)

 

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カウンセラーが、生き残ること、ということについて考えてみる-精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月02日 | 心理臨床を考える

 2024年10月のブログです

     *

 カウンセラーが、面接場面で、生き残ること、ということについて、少し考えてみる。

 カウンセリングや心理療法が始まると、初めは、クライエントさんがカウンセラーに信頼感を寄せて、面接場面でも良好な関係ができる。

 しかし、面接が進んで、クライエントさんが、なんでも話しても大丈夫、と安心ができると、次第に、クライエントさんの困っている人間関係や悩んでいる人間関係のあり方が面接場面に出現してくる。

 クライエントさんは、ふだん抱えている不安やおそれ、怒り、攻撃など、日常生活の中で周囲の人に出すと危険な感情をカウンセラーにぶつける。

 その時、カウンセラーは、面接場面で、クライエントさんの感情に巻き込まれ、フラフラの状態になりながらも、言い逃れや報復などはせずに、生き残ること、が大切になる、と精神分析は説明する。

 カウンセラーが、クライエントさんの激しい感情の渦の中に巻き込まれながらも、専門家として、辛く、苦しいであろうクライエントさんの心情を少しでも理解をして、その場に、生き残る、ことが重要な仕事になる。

 クライエントさんは、ふだんは周囲に感情をぶつけて、失敗し、傷ついている経験が多いだろうが、面接場面でカウンセラーに感情をぶつけても、人間関係が壊れないことを経験する。

 クライエントさんが日常生活で、フロイトさんのいう、反復、をしてきた人間関係の破綻が、面接場面では破綻しないことを経験することで、クライエントさんの辛く、苦しい反復に変化が起こる可能性が生じる。

 ここが、カウンセラーの堪えどころであり、勝負どころだろう。

 カウンセラーが、面接場面で生き残ること、は、カウンセラーを護ると同時に、クライエントさんをも護る。

 クライエントさんは、その護りの中で、それまでの辛く、苦しい反復を少しだけ変化させ、日常生活での人間関係が変化することに繋がるかもしれない。

 カウンセラーが、面接場面で、生き残ること、は、このようにクライエントさんの心的成長にとても大切な仕事なのだろうと思われる。      (2024.10 記)

     *

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 1954年、北海道生まれ  

 1977年、家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

 2014年、放送大学大学院(臨床心理学プログラム)修了  

 2017年、臨床心理士

 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の相談・援助などを研究

 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 連絡先 メール  yuwa0421family@gmail.com  

 

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赤ちゃんとお母さんの光景から-じーじが精神分析に学んだこと、一つ、二つ

2024年12月01日 | 心理臨床を考える

 2024年9月のブログです

     *

 赤ちゃんが泣いている。

 この時、赤ちゃんは、自分が不快な世界にいることはわかるが、なんで不快なのか、はわからない。

 そこにお母さんがやってきて(お父さんでも、お祖母ちゃんでも、保育士さんでもかまわない)、あらあら、どうしたの?おむつが濡れたのかな?と調べる。

 お母さんが、おむつじゃないわね、じゃあ、おなかがすいたのかな?と、赤ちゃんにおっぱい(ミルクでもかまわない)をあげると、赤ちゃんはごくごくと飲んで、満足をして泣きやむ。

 この時、お母さんが、赤ちゃんはおなかがすいていたのか、とわかると同時に、赤ちゃんも、ただただ不快な世界から、僕は(あるいは、わたしは)、おなかがすいていたんだ、とだんだん自分の感情が理解できてくる、と精神分析では考える(別に精神分析に限らないかもしれないが…)。

 おむつが濡れている時も同じ。

 おかあさんが、あら、おむつが濡れているわ、と言いながら、おむつを替えてくれると、赤ちゃんはただの不快な状態から、僕は(あるいは、わたしは)、おむつが濡れて気持ち悪かったんだ、と理解できる。

 こうしたお母さんと赤ちゃんのやりとりの中で、赤ちゃんは、快-不快だけの世界から、自分の状態を少しずつ理解できるようになるらしい。

 もちろん、お母さんだって、いつも適切に、おむつが濡れているのか、おなかがすいているのかはわからないので、ウィニコットさんは、ほどよいお母さんでよい、という。

 そして、赤ちゃんは時々、お母さんのはずれの行動に腹を立てるが、しかしそれでも、お母さんがずっと世話をしてくれるので、そこから罪悪感や感謝の気持ちが生ずるらしい。

 つまり、病的に完璧なお母さんより、おおらかな、ほどよいお母さんが大切になる、ということらしい。

 赤ちゃんとお母さんの光景から、精神分析が教えてくれる世界はなかなか深いなあ、と思う。       (2024.9 記)

     *

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じーじは「毒親」という言葉は嫌いです-じーじ臨床心理士のひとりごと

2024年11月09日 | 心理臨床を考える

 2021年11月のブログです

     *

 「毒親」という言葉を時々きく。

 しかし、じーじはこの言葉が嫌いだ。

 「毒親」と呼ばれてもしょうがないような親御さんがいることはわかるが、「毒親」という言葉は使いたくない。

 理由は「毒親」のような親御さんでも、親には違いないからだ。

 誰も好き好んで子どもを虐待する親はいない。

 親御さんの性格と育ちから、子どもに感情的に当たったり、暴力を振るったりするわけだが、そういう親御さんでも子どもへの愛情はとても強い。

 ただ、愛情の表現が、下手だったり、拙かったりするだけだ。

 しかも、子どもは、そんな親御さんでも、うちの親は…、といいつつ、できればまた一緒に生活をしたいものだと願うものが多い。

 戻ったところで、また同じことの繰り返しになることが多いが、子どもが親を慕う気持ちの強さにはこころを打たれる。

 そんな親を「毒親」ということはできない。

 親は親だ。

 親御さんにも十分な心理的援助をして、子どもの切ない気持ちの実現に繋げたいと思う。        (2021.11 記)

     *

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「悩み」,「苦しみ」,「絶望」,そして,それらとともに生きること

2024年09月01日 | 心理臨床を考える

 たぶん2011年ころのブログです

     *  

「悩み」と「苦しみ」。

 若い頃は「悩み」がいっぱいあって,毎日が大変でした(もう一度若くしてあげる,といわれても,お断り!という感じです)。

 でも,年を取ると鈍感になるのか(?),少し「悩み」が減ってきて,少しだけ楽になってきた感じがします(それでも毎日がいろいろな「悩み」や 「苦しみ」の連続であることには変わりがありませんが…)。

 「悩み」はこうして乗り越えなさい,とか,「悩み」なんて大丈夫,なんてことはとても言えません。

 しかし,若い時は「悩み」がずっと続いて,「絶望的」になって,先が見えない,と思いがちですが,そうとも限らないのかもしれません(実は六〇近くになったじーじにもまだわかりませんが…)。

 ただ,「悩み」が「苦しみ」に直結するようなことは,ひょっとすると年とともに減ってくるのかもしれません。

 それは単に鈍感になるせいかもしれませんし,周囲からちやほやされるのが減ってくることが普通になるせいなのかもしれません。

 いずれにせよ,少しだけ「平穏」になってくるような気がします。

 あるいはまた,人生にある程度の「諦め」ができるせいなのかもしれなせん。

 ちなみに,「諦め」という言葉は,夏目漱石さんもいうように,もともとは仏教用語で,人生を明らかに観る,という意味だそうです。

 年を取って,いろいろと「諦める」ことが多くなって,それで「苦しみ」が多少とも減るなら,それもいいことかもしれないですね。

 「幸せ」はその先にあるのかもしれません。

 若いさなかのいろいろと敏感な状況にいて,さまざまな「悩み」で苦しんでいる人には,そうはなかなか思えないかもしれませんが,長い目で見ればそういうこともあるのかもしれません。

 そう信じたいと思います。

 いずれにしても,「悩み」や「苦しみ」が全くなくなるということはなさそうです(それでは仏さまです)。

 私たちは人間ですから,「悩んだり」,「苦しんだり」して,当然です。

 大切なのは「悩み」や「苦しみ」があっても、なんとか生きていくことではないでしょうか。

 ごくたまにはいいことがあるかもしれません。

 それが「幸せ」なのかもしれないです。

 「幸せ」とは「悩み」や「苦しみ」が全くない状態ではなくて,それらがあっても,なんとか生きていくことなのかな,とも思います。

 「悩み」や「苦しみ」とうまく付き合いながら,あまり焦らずに,ゆっくりいろいろと考えていきたいなと思います。      (2011?記)

     *

 2020年12月の追記です

 フロイトさんは、耐えがたい不幸を普通の不幸にするのが精神分析、といいました。

 いいかえると、精神分析は不幸と付き合っていける力をもたらす方法なのかもしれません。       (2020.12 記)

     *

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「傷つき」,「うらみ」,「復讐」,そして,それらとともに生きること

2024年08月29日 | 心理臨床を考える

 たぶん2011年ころのブログです

     *  

 このところ,「傷つき」や「うらみ」,それらと「和らぎ」や「幸せ」などとの関係といったことについて考えています。

 また,「悪」と「正義」,「復讐」と「幸福」,さらには,「戦うこと」と「和解」などといったことについても考えます。

 家庭裁判所の当事者のみなさんのご主張や心理臨床の患者さんの訴え,さらには,韓国ドラマのストーリー,日本の政治家の安全保障についての極端な発言,中国や韓国の人々の主張などなど,考えさせられることがらは多いです。

 他人に「傷つけられて」,「うらみ」を抱くことは当然だと思うのですが,そこから「復讐」を考えるかどうか,それを実行をするかどうかは,人によって違ってくるのではないかなと思います。

 その人のこころの広さや深さなどによってずいぶん違ってきそうな印象があります。

 そして,それらは「傷つき」の大きさによって,あるいは,「うらみ」の深さなどによっても,違ってくるのではないかと思います。

 さらには,かりに,「復讐」によって,本当に「幸せ」になれるかどうかも,考える必要がありそうです。

 「幸せ」や「安心」は「復讐」や「戦うこと」と,どんな関係になっているのでしょうか。

 そして,それらのことがらと「和解」や「和らぎ」との関係はどうなのででしょうか。

 答えは簡単ではないと思います。

 教えてくれる人もあまり見当たりません。

 そもそも個人の問題や課題は,人に答えを教えてもらえるようなものではなく,自分で考え続けて,答えを探すしか道はないのかもしれません。

 周りの人たちは,話をていねいに聞くことや多少の助言をすることしかできないのかもしれません。

 これからもあせらずに,じっくりとよく考え続けていくことが大切になりそうです。

 また,そういったことに少しでも役に立てるような存在になるために,今後も勉強を続けていきたいと思います。         (2011?記)

     *

 2020年12月の追記です

 ずいぶん前のブログになりました。まだ、家裁調査官として仕事をしていた時のものです。

 でも、臨床心理士になった今も、考えていることは基本的にはあまり変わっていません。進歩がないです(?)。

 もっとも、年を取って、さらにじーじになって、ものごとに動じなくなってきている(?)かもしれません。 

 さらに勉強と経験を深めて、いい臨床家になりたいと思います。           (2020.12 記)

     *

 2021年12月の追記です

 ひょっとすると、生きている以上、「うらみ」や「復讐」の気持ちを全くなくすることは無理なのかもしれませんね。仏様でもない限り。

 できることとしたら、それ以上の「慈しみ」のこころを育てていくことなのかもしれません。         (2021.12 記)

     *

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メルツァーさん・キーツさん・シェイクスピアさん-じーじのカウンセリング日記

2024年08月26日 | 心理臨床を考える

 2019年の日記です

     *

 去年12月から読んでいたD・メルツァーさんの『精神分析と美』(2010・みすず書房)をようやく読み終える。

 何度読んでも難しい。

 付箋やアンダーラインは増えてきたが、今回も何割、理解できたかやや疑問。

 ブログにリポートを書こうと思ってパソコンの前に座るが、言葉が出てこず、しばらく頑張るが、断念。次回のお楽しみとなる。

 しかし、今回初めて気づいたが(今ごろ気づくのも、我ながらどうかと思うが…)、メルツァーさんのこの本にキーツさんやシェイクスピアさんなどが出てくる。

 ようやく精神分析の本の中に2人を見つけてうれしくなる。

 キーツさんは昨年秋、岩波文庫の『キーツ書簡集』(1952)を古本屋から購入して読んでみたが、こちらもリポートができるのはまだ先になりそう。

 キーツさんのいうあいまいさに耐える能力を、この本では、「消極能力」と訳しているし、キーツさんの本でも「消極的能力」と訳していて、「負の能力」よりいいような気もするが、あくまで素人の感想である。

 また、メルツァーさんが詩や戯曲を分析しているのを読んで、やはり精神分析家のオグデンさんが同じように詩や小説を分析しているのを思い出した。

 文学はやはりかなり精神分析に近い存在なのだろうな、と改めて思う。

 もっともっと勉強が必要だ。       (2019.1 記)

 

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残業のしすぎで体調をくずし、うつ症状になっている若者に思う-じーじ臨床心理士のひとりごと

2024年07月27日 | 心理臨床を考える

 2018年のブログです

     *

   政治家が、働き方改革、を声高に叫んでいます。

 北朝鮮のミサイル問題同様、それくらいしか、アピールできることがないのでしょう。

 しかし、働き方改革、の前に、残業規制が先でしょう。

 あいかわらず過労死の危険性は低減せず、そんなところで、専門職の労働時間の制限を取っ払うのは、さらに過労死を増大させるだけです。

 カウンセリングをやっていると、若い人のうつの問題の相談に乗ることが多いです。

 性格の問題だけでなく、働きすぎや残業のしすぎで体調をくずして、うつ状態に陥っている人を多く見かけます。

 残業を断れないような真面目な人が多いです。

 適当にさぼれるくらいなら、うつになるまで残業をしないで、体調をくずすこともないのでしょうが、みなさん本当に真面目です。

 しかし、程度問題です。

 過労死になっては元も子もありません。

 うつになったら、まずは休息を取りましょう。

 どんなうつでも、1~2か月間、仕事を休んで休息を取れば、それだけでも体調はだいぶ回復します。

 そのために病気休暇が権利として定められています。

 遠慮せずに活用しましょう。

 出世に響くという人もいるでしょうが、出世より命やふつうの生活が大切です。

 体調を取り戻し、適切な勤務時間で、より生産的な仕事をしたほうが、会社や組織のためにもなります。

 楽しみながら働きましょうね。      (2018 記)

      *

 2023年12月の追記です

 5年前のブログです。

 状況は全然改善されていません。

 大企業の内部留保は多額にのぼるのに、ベースアップの話もあやしく、ましてや、残業規制の話は少ないです。

 貧しい国だな、日本は、と思います。

 こころのゆとりがなくて、生きることを本当に楽しめているのかな、と思ったりします。

 トップの決断も大切ですが、やはり個々人の生き方の選択が大切になるのではないでしょうか。      (2023.12 記)

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 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 赤坂正人  1954年生まれ  家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  放送大学大学院(臨床心理学プログラム)修了  臨床心理士

 カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の相談・援助などを研究

 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 連絡先 メール  yuwa0421family@gmail.com     

 

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第一次世界大戦とフロイトさん、ユングさん-精神分析に学ぶ

2024年07月15日 | 心理臨床を考える

 2011年のブログです

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 最近、フロイトさんとユングさんの本を読んだり、話を聞いたりしていて、フロイトさんとユングさんにとっての第一次世界大戦のショックや衝撃の大きなということに改めて考えさせられました。

 フロイトさんが死の本能を考えたのもそうですし、ユングさんが『赤の書』という本を書いたのも第一次世界大戦の衝撃が大きかったと思いました。

 日本ではやや遠くの出来事と捉えがちだったと思いますが、もっともっと思想的衝撃としての第一次世界大戦を考えてみる必要があるのかもしれないなと思ったりしています。

 戦争は厭な出来事ですが、それも人間がしでかすおろかな、しかし、なかなか避けがたい出来事なのかもしれません。

 戦争反対と唱えることは簡単ですが、戦争に簡単に至ってしまう人間のおろかさや弱さ、あるいは、人間の業というようなものを深く考えていく必要があるのかもしれません。     (2011.6 記)

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 2024年夏の追記です

 そういえば、フロイトさんとアインシュタインさんの対話が本になっていて、読んだことがあります(フロイト(中山元訳)『人はなぜ戦争をするのか-エロスとタナトス』2008・光文社文庫)。

 お二人が知恵をしぼって戦争などの争いについて考察をされていて、なかなか参考になります。

 しかしながら、やはり戦争などは、理性よりは感情が優位の行動だな、とじーじなどは考えていて、憎悪や恐怖、不安などの感情をどれだけうまくそれぞれのこころの中で統合できるのかが大切になってくるのではないのかな、と思ったりしています。

 じーじの大きなテーマである組織と個人の問題と同様、理性と戦争の問題も大きなテーマだなと感じています。     (2024.7 記)

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 同日の追記です

 アメリカの大統領選挙で、憎悪と分断をあおる候補が銃撃をされました。

 憎悪と分断をあおることは簡単で、人気も出るのかもしれないですが、それだけでは真の平和にはほど遠いのではないかと思います。     

 

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家庭裁判所の離婚調停での経験から-黙っていても幸せを招く「まねきネコ」のような存在に

2024年06月25日 | 心理臨床を考える

 あるかたのブログを読んでいたら、まねきネコのお話が出てきました。

 まねきネコ、といえば、じーじのブログにもありましたので、再録します。

 2018年ころのブログです。

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 以前、家庭裁判所で離婚調停に立ち会っていた時のこと。 

 調停委員さんからたまに、調査官が立ち会ってくれると話し合いがまとまることが多い、と言ってもらうことがありました。

 もちろん、お世辞が大部分だったとは思うのですが、たまにはそういうこともあったのかもしれません。

 優秀な調査官が立ち会えば、適切なアドバイスをして、話し合いをうまく進めることも可能だと思います。

 しかし、じーじのような落ちこぼれの調査官の場合は、特に有効なアドバイスもできずに、ただ茫然と立ち会っていたような気がします。

 もっともそんなじーじでもできていたことが一つだけありました。

 それは、お父さんやお母さんがいい発言をした時には大きく頷き、あまりいい発言でない時には動かないでいる、ということでした。

 凡庸なじーじにできることはそれくらいのことで、ほとんど黙って立ち会っていることが多かったように思いますが、それでもそれなりに影響を与えていたのかもしれません。

 じーじはそういう関与の仕方を「まねきネコ」としての調査官、と自称していました(じーじの顔はあんなに可愛くはないのですが…。それでもたまに手を顔のそばに近づけて、こっそりとまねきネコのまねをしてみたりしていました)。

 いま振り返ってみると、アドバイスなどはしなくとも、ただニコニコとして、そこに存在をしていることこそが大切ではなかったかと思うのです(もっとも、深刻なお話の時に、なんで笑っているんだと怒られたこともありましたが…)。

 そしてこのことは臨床家全般にも通じそうな気がします。

 どんなに厳しく、困難な状況であっても、臨床家が多少は困っても、しかし、あまり動じずに、自然体で泰然として存在すること、このことがどれだけ多くの言葉よりもクライエントさんには重要なことではないかと今は考えています。

 拙い文章を書いてしまいましたが、今後もさらに思索を深めていきたいなと思います。      (2018?記)

 

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山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」を聴きながら-臨床の難しさと厳しさに思う

2024年06月08日 | 心理臨床を考える

 2018年のブログです

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 「青春のフォークソングス名曲集」という口にするとちょっとはずかしくなるCDアルバムを聴いていたら、山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」が聴こえてきて、つい聴き入ってしまいました。

 この歌には思い出があります。辛い思い出です。

 じーじが大学を卒業して、家裁調査官に採用された40数年前、採用後すぐに東京の研修所で同期が全員集まって3か月の研修を受けました。

 昼間は、心理学や精神医学、教育学、社会福祉、法律などの勉強でみっちり(?)、夜は、みんな貧乏だったので、研修所で安いお酒をのんでは、いろいろなことを議論していました。

 そして、酔いがまわってくると、当時はまだカラオケが出てくるまえで、伴奏なしで大声で好きな歌を歌っていました(隣近所から、うるさい、と苦情が来ると、みんな少しだけ小さい声で歌うようにしていました)。

 そんな時に、ある寡黙で気持ちの優しい同期が、この歌をいつも歌っていました。

 この歌が本当に好きらしく、酔うといつも歌っていたのを覚えています。

 そして、研修が終わり、同期は全国に散って、各地で実務の勉強に入りました。

 しばらくして、冬に入った頃、衝撃的な連絡が入りました。

 いつも、「岬めぐり」を歌っていた同期が自殺をしたというのです。

 詳しいことはわかりませんでしたが、仕事のことで悩んでのことだったようです。

 家裁調査官の仕事は、他の臨床の仕事もそうですが、精神的に悩んだり、苦しんだり、おち込んだりする仕事ですので、そういう危険性は常に潜んでいるのですが、それにしてもあの優しい同期が…、とショックでした。

 真面目な人ほど悩み、苦しむ仕事で、なんとか生き延びているじーじなどは、どこかで手を抜いたりしているにちがいありません。

 そんな反省をいつもしています。

 「岬めぐり」を聴くと、いつも笑顔でほほえんでいた、優しい同期の姿を思い出します。

 かれの分まで、泥にまみれてでも生きていきたいと思います。              (2018 記) 

 

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いつもクライエントのそばにいるということと,いつもクライエントにより添うということ-カウンセリングを考える

2024年06月07日 | 心理臨床を考える

 たぶん2012年ころのブログです

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 ある研究会で,一人のカウンセラーのかたが,自分はクライエントに携帯の番号を教えて,いつでも連絡が取れるようにしています,と話していました。

 すごく熱心だな,と思いました。

 一方で,でも少し違うのではないかな,とも思いました。

 いつもクライエントと連絡が取れること,が,いつもクライエントのそばにいること,と同じかというと必ずしもそうとはいえない気もします。

 ましてや,いつもクライエントにより添うこと,とはまた違うような気がします。

 さらに,そのことがクライエントの自立に繋がるか,ということになると,さらに難しい問題となります。

 カウンセリングの目標がクライエントの精神的な自立や成熟だとすると,最終的にはクライエントがカウンセラーに頼らなくてもいいようになることが課題となります。

 それにはクライエントがカウンセラーを「内在化」して,自分のこころの中のカウンセラーと対話ができるようになることが大切になります。

 精神分析では,毎日の面接と週末のお休みのリズムが大事だと言われています。

 週末,治療者の「いない」時にいかに患者が自分の「内的な」治療者と対話ができるか,がポイントになります。

 一般に,心理療法において,治療者やカウンセラーのお休みは,彼らの健康を守ると同時に,患者やクライエントの自立の契機として重要な意味を有していると思います。

 考えがまだまだ深まっていませんが,これらのことはとても大切なテーマではないかと思います。

 簡単には正解は出ないと思いますが,今後,さらに考察を深めていきたいなと思います。      (2012?記)

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 2020年12月の追記です

 今も考え続けている大きくて、奥深い問題です。    (2020. 12 記)

 

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