ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングやメールカウンセリングなどをやっています

河合俊雄『概念の心理療法-物語から弁証法へ』1998・日本評論社-生死・反復・差異

2024年06月30日 | ユング心理学に学ぶ

 たぶん2017年ころのブログです

     *  

 河合俊雄さんの『概念の心理療法-物語から弁証法へ』(1998・日本評論社)を再読しました。

 何回目になるでしょうか。

 一見、読みやすい本なのですが、なかなか内容は難しく、中身を紹介しようとすると、なかなかまとめられずに、困惑をしてしまうといった本です。

 今回もリポートをするのは無理かな、と思いながら読んでいたのですが、それでも印象に残ったところを一つ、二つ書いてみます。

 ひとつは、発達、変化とイニシエーションの関係のところ。

 心理学的な発達や変化は漸進的、連続的に起こるものではなくて、飛躍的に根源的な変容が起こるのではないか、という考え。

 そして、それは、主体そのものの死を含んで、非連続的なもの、と述べます。

 これはかなり刺激的でした。

 よく、精神分析では、生の底には死がある、とか、生は死を含む、とか、いわれますが、このへんと、なにか関係がありそうで、今後、よく考えてみたいな、と思いました。

 もうひとつは、物語と反復のところ。

 精神分析でも反復は大きなテーマですが、ここでは少し肯定的なとらえ直しがなされていました。

 それは、反復がずれや差異を生むことに注目をしている点です。

 物語のディテールをていねいに見ていくことは、繰り返しを味わうことになるし、また、微妙なずれを見出していくことにもつながる、と述べて、面接論につなげられています。

 理論が実践に結びつくみごとな様子が見られて、感動します。

 まだまだ魅力的な論点があると思うのですが、今のわたしにはこのへんが限界です。

 いずれまた読んで、さらにいい報告ができればと思っています。     (2017?記)

     *

 2020年11月の追記です

 ここのところ、木村敏さんの本をずっと読んでいます。

 あいかわらず難しいのですが、ここでも生と死がテーマの一つになっています。 

 フロイトさんを含めて、深いところで繋がっているのかもしれません。     (2020. 11 記)

     *

 2023年11月の追記です

 発達や変化のところを読み返していると、それが連続的に起こるものではなくて、飛躍的に根源的な変容が起こるのではないか、と述べられているようで、少し唐突かもしれませんが、じーじは今西錦司さんの進化論を連想しました。

 今西さんは、ダーウィンさんの、進化は適応によって少しずつ起こる、という説に対して、進化は起こるべき時に急に起こる、と述べたかた(たぶん間違っていないと思うのですが…)。

 なかなか面白い対応だな、と今さらながら思いました。     (2023.11 記)

 

コメント (2)

お手紙・マスク・北海道-じーじのじいじ日記・セレクト

2024年06月30日 | じいじ日記を書く

 2020年6月、上の孫娘が小4、下の孫娘が小1の時の日記です

     *

 週末、久しぶりに孫娘たちが遊びに来てくれた。

 新潟もコロナ騒動で、孫娘たちの住む町は無事だったが、マスクは当たり前で、新潟市のアピタやイオンはしばらくお預けだったが、今回、やっとお出かけができたようだ。

 下の孫娘が今春、小学校に入ったので、お姉ちゃんと同じように宿題のドリルや日記帳を持参して、二人で頑張る。

 じーじもその間はブログを書くなどして、遊ぶのを待っていた。

 二人は宿題をすませると、ばーばに誕生日のお祝いのお手紙を渡し、ばーばを感激させる。

 つづいて、じーじが7月半ばから北海道に行くことを知っていて、じーじにもお手紙をくれる。

 上の孫娘は、「北海道気をつけて行ってきて!」と漢字まじりのお手紙。さすが4年生。

 じーじがふだんマスクをしていないことを心配してか、めがねのくもらないマスクというのをプレゼントしてくれた。ありがたことだ。

 下の孫娘のお手紙は、「ころなになんないようにきよつけていってきてね♡」と、ぜんぶひらかな。カタカナは読めるようになったが、書くのは苦手らしい。

 ばーばが、北海道のおみやげは何がいいのかな?と聞くと、下の孫娘が、シルバニアのおみせやさん!と大声でいう。

 じーじが、北海道にシルバニアは売っているかなあ?シルバニアのようなうさぎさんならいるけど?とふざけると、孫娘たちは、おにんぎょうのシルバニアがいい!という。

 子どもらしい、計算のない、素朴なお願いに、じーじは感動してしまい、旭川のイオンにシルバニアは売っていたかな?北海道限定のシルバニアなんてあったかな?と記憶をたどる。

 孫娘たちのおかげて、楽しい週末が過ごせて、幸せなじーじであった。       (2020.6 記)

 

コメント

噴水と戯れるちびっ子たちを眺めながらの公園カウンセリングは、こころもきらきら元気になります

2024年06月29日 | カウンセリングをする

 こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で,じーじ臨床心理士が公園カウンセリングや海岸カウンセリング,里山カウンセリングと訪問カウンセリングを新潟市と北海道東川町(夏期)でたまにやっています。

 また,メールカウンセリングや面会交流の相談・援助も時々やっています。

 公園カウンセリングや海岸カウンセリング,里山カウンセリングは,屋外で行なう個人カウンセリングや親子・夫婦の家族カウンセリング,子どもさんの遊戯療法などで,お近くの公園や自然の中で,ゆっくりとご自分やご家族のことなどを考えてみます。

 料金・時間は1回50分3,000円で,隔週1回,あるいは,月1回などで行ないます。

 訪問カウンセリングは,屋内で行なう個人カウンセリングや家族カウンセリング,子どもさんの遊戯療法などで,ご自宅やお近くの屋内施設で,じっくりとご自分やご家族のことなどを考えてみます。

 料金・時間などは公園カウンセリングと同じです。

 メールカウンセリングは,メールによるカウンセリングや心理相談で,2週間に1往信で行ない,1往信700円です。

 面会交流の相談・援助は,相談はご自宅などで行ない,1回50分3,000円,援助はお近くの公園や遊戯施設,あるいはご自宅などで行ない,1回60分6,000円です。

 カウンセリング,相談・援助とも土日祝日をのぞく平日の午前10時~午後3時にやっています(すみません、年寄りなもので、夕方や週末のお仕事が難しくなってきました)。

 じーじのカウンセリングは,赤ちゃんや子どもさんがご一緒でもだいじょうぶなカウンセリングですので,お気軽にご利用ください。そういう意味では,深くはないけれども,現実の生活を大切にしたカウンセリングになるのではないかと考えています。

 料金は,低めに設定させていただいていますが,月収15万円未満のかたや特別なご事情のあるかたは,さらに相談をさせていただきますので,ご遠慮なくお問い合せください。

 ちなみに,消費税には反対なのと,計算がややこしいので,いただきません。

 お問い合わせ,ご予約は,メール yuwa0421family@gmail.com までご連絡ください。

     *

 駅の近くに部屋を借りて本格的にカウンセリングルームを運営するような臨床心理士さんとは違って、じーじは近くの公園や海岸、河川敷などでカウンセリングをしています。 

 子どもさんを遊ばせながら、ちょっとだけ悩みごとを聞いてもらえればいいんですー、というお母さんや悩み多き若者(?)などがじーじのクライエントさんには多いです(じいじいやばあばあのみなさんもお断りはしませんが(?)、尊敬すべき先輩たちのみなさんですから、できるだけご自分で解決しましょうね)。

 おこづかいを貯めて(?)、お気軽に、遠慮せずに、ご利用ください。

     *

 ゆうわファミリーカウンセリング新潟(じーじ臨床心理士・赤坂正人・個人開業)のご紹介

 1954年、北海道生まれ  

 1977年、家庭裁判所調査官として司法臨床に従事  

 2014年、放送大学大学院(臨床心理学プログラム)修了  

 2017年、臨床心理士

 個人開業で、カウンセリング、心理療法、家族療法、遊戯療法、メールカウンセリング、面会交流の相談・援助などを研究

 精神分析学会、遊戯療法学会会員

 論文「家庭裁判所における別れた親子の試行的面会」(2006、『臨床心理学』)、「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」(2011、『遊戯療法学研究』)ほか 

 新潟市西区・北海道東川町(夏期)

 連絡先 メール  yuwa0421family@gmail.com    

 

コメント

小倉清・小林隆児『こころの原点を見つめて-めぐりめぐる乳幼児の記憶と精神療法』2015・遠見書房

2024年06月29日 | 子どもの臨床に学ぶ

 たぶん2017年のブログです

     * 

 子どもの精神科のお医者さんである小倉清さんと小林隆児さんの『こころの原点を見つめて-めぐりめぐる乳幼児の記憶と精神療法』(2015・遠見書房)を読みました。

 なかなかすごい本です。

 お二人が、精神科臨床での経験から、乳幼児体験の重要性と精神療法の可能性を論じていますが、びっくりすると同時におおいにうなづけるお話で、参考になります。

 また、小倉さんの提出された四つの症例はどれもが壮絶で、臨床家としての覚悟を問われるようなものすごい症例です。

 ふつう、統合失調症の発病期は思春期が多いといわれますが、小倉さんによれば、思春期になって病気がはっきりとするだけで、ていねいに見ていけば、もっと小さい頃からその兆候は掴める、といいます。

 そして、小倉さんは、最近の医学部に入るための2歳児からの塾があったりする例をひいて、そのような現象に代表される親子関係の危険性を指摘します。

 また、お二人の対談では、土居健郎さんを参考に、日常語で診断を考えることの大切さや患者さんの腑に落ちるような普通の言葉を大事にすることなどが強調され、臨床を行なう中でおおいに参考になります。

 いつまでも、「熱く」、しかし、冷静に、細やかな感性を失わずに治療を続けていらっしゃる小倉さんを目のあたりにして、じーじもさらに真摯に臨床に取り組んでいかなければならないと反省をさせられた一冊でした。        (2017?記)

 

コメント

中沢新一『虎山に入る』2017・角川書店-じーじの読書日記・セレクト

2024年06月29日 | 随筆を読む

 2018年のブログです

     *

 中沢新一さんの『虎山に入る』(2017・角川書店)を読みました。

 中沢さんの本を読むのは久しぶり。

 「縄文と現代とを結ぶ思考の稜線」というキャッチフレーズになんとなく魅かれて読み始めたのですが、最後の文章などは、縄文どころか、ホモサピエンスの誕生にまで話が遡るという、中沢さんらしく壮大なものでした。

 主な内容は、河合隼雄さん(臨床心理学)や山口昌男さん(文化人類学)への追悼の文章や折口信夫さん(民俗学)や井筒俊彦さん(宗教哲学)などの仕事についての論文などで、河合隼雄さんへの追悼文を読むと、お二人の絆の深さがうかがわれて、涙が出そうになって困りました(お二人の本については、2015年6月のブログに少しだけ書いています)。

 また、山口昌男さんとのことでは、中沢さんの若き日の学者姿が垣間見られて、とても楽しく読ませていただきました。

 じーじの大好きな井筒俊彦さんとのご関係は、じーじは初めて知ったことで、いろいろな人がいろいろなところでつながってくるな、とその不思議さと楽しさを感じることができて、幸せでした。

 他にも興味深い文章が並んでいて、マルクス主義の限界に論及したり、西洋文明の一面性に論及したりと、ちょっと驚くような、しかし、読んでみれば、納得もできるような刺激的で、真の意味で教養になるような文章が並んでいます。

 いずれまた、読み返して、さらに思索を深めたいと思いました。      (2018.6 記)

 

コメント

北山修監修・高野晶編著『週一回サイコセラピー序説-精神分析からの贈り物』2017・創元社

2024年06月28日 | 心理療法に学ぶ

 2018年のブログです

     *   

 北山修さんが監修をした『週一回サイコセラピー序説-精神分析からの贈り物(2017・創元社)を読みました。

 去年秋の精神分析学会で北山さんや高野さんなどからご紹介のあった本で、今、精神分析学会で論議されている精神分析と精神分析的心理療法との異同について考えるのに、最適な一冊かなと思って読みました。

 なかなか刺激的な本です。

 これまであまり明確に議論をされてこなかったことがどんどん明らかにされるせいもあるでしょうし、精神分析的心理療法という古くて新しい心理療法を皆さんがなんとか確立していきたいという意気込みみたいなものも感じられます。

 もっとも、じーじは精神分析の訓練を受けたこともなく、本を読むだけで、どちらかというと精神分析的心理療法を学んだり、実践する立場ですので、冷静に勉強をしたいと思って読みました。

 本書では大勢の人が論文を書いており、たとえば、北山修さんの独創的な論文には本当に感心させられますし、鈴木龍さんの事例と理論にはこころから納得させられます。

 また、高橋哲郎さんの論文では、あの土居健郎さんが出てきて、とても感激させられます。

 そんな中で、今回、じーじが一番、勉強になったのが、先日もご紹介をさせていただいた生地新さん。

 生地さんは「子どもと思春期」という論文で、子どもや思春期の心理療法について詳しく説明をされ、週1回面接の意味やそれ以外の面接との比較についても述べられていて、月1~2回程度の面接が多いじーじの実践にもとても参考になりました。

 まだまだ読み方が浅く、理解も十分ではないと思いますので、今後、時間をかけて読み込み、実践に活かしていきたいなと思いました。      (2018 記)

 

コメント

沢木耕太郎『勉強はそれからだ-象が空をⅢ』2000・文春文庫-知らないということを知っていること

2024年06月28日 | 沢木耕太郎さんを読む

 2019年のブログです

     *

 このところ、沢木耕太郎さんにはまっていて、本棚を眺めていたら、『勉強はそれからだ-象が空をⅢ』(2000・文春文庫)が目につきましたので、再読しました。

 最近は、作家さんの執筆の順番などは無視して、見つけた順に読んでしまうことが多いのですが、一応、再読なので(といっても、記憶がなくなっているのですが)、それで勘弁してもらっています。

 しかし、それはそれで、また面白味があって、今の興味と年齢と経験が混然一体となって(?)、なかなかスリリングな読書ができる気もしています。

 さて、本書、例によって、今回、印象に残ったことを一つ、二つ。

 一つめは、知らないことを知っていることの大切さ。

 なんだか、ソクラテスの言葉みたいですが、沢木さんはこのことを何度も強調しています。

 へんに知っているつもりになると、知ることへの意欲が減じてしまい、仕事や生きることが中途半端になることを心配されます。

 そして、知らないということを知っていると、語ることに慎重になる、といいます。

 テレビなどで、薄っぺらな言葉が氾濫している現状を見ると、貴重な意見だと思います。

 さらに、知ることで、驚き、喜び、打ちのめされ、感動する、というこころの柔らかさを持っていることが大事、といいます。

 知ることが生きる喜びや生きる充実感になることが理想なのだろうと思います。

 二つめは、ガルシア・マルケスの言葉を引用しているところ。

 「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、4257頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」

 言葉の重みをこう述べます。

 意味深長ですが、我流の解釈では、文章は漠然としたものではなく、ていねいでこまやかな文章が人を動かす、ということかな、と思ったりします。

 いい本を再読できたと思います。     (2019.9 記)

     *

 2023年秋の追記です

 知らないことを知っていることの大切さ、という言葉は、わからないことに耐えることの大切さ、に通じるような気がしますね。

 そのあとの、知らないということを知っていると、語ることに慎重になる、という言葉もすごいです。

 白か黒か、右か左か、と、短絡的、ヒステリー的に決めつけないで、ずっと考え続けることの重要性を教えてくれるようです。     (2023.9 記)

 

 

コメント

なだいなだ『れとると』1975・角川文庫-心理療法のすごさを教えられた小説です

2024年06月27日 | 小説を読む

 たぶん2017年のブログです

     * 

 またまた古い本を再読しました。

 なだいなださんの『れとると』(1975・角川文庫)。

 読んだのはたぶんじーじが家庭裁判所で働きはじめた頃、今から40年くらい前のことです。

 当時、じーじと一緒に採用になったのがW大の心理学科を出た優秀な同僚。 

 じーじは四流私大の社会学科しか出ていませんでしたが、彼はそんなじーじにも臨床のことをいろいろと親切に教えくれました。

 じーじたちは、仕事帰りによく駅前の居酒屋でお酒を飲みながら、仕事のことについて熱く議論をしていました(シーナさんじゃないですけど、思えば黄金の日々でした)。

 ある時、じーじが、非行少女の援助をしていて、結婚を考えるくらい真剣に応援したいな、と話したところ、W大くんが、赤坂さん、それは違います、なだいなださんの『れとると』を読むといいですよ、と勧めてくれました。

 さっそく、小説『れとると』を購入して読んでみたところ、そこには心理療法における転移性恋愛の様子がていねいに描かれていて、心理学音痴だったわたしにもよく理解できました。

 それからのじーじは、心理療法や精神医学の勉強をする必要性を強く感じて、河合隼雄さんや土居健郎さんの本などを読み始めました。

 そういう意味で、『れとると』はじーじにとってもとても重要な小説で、それを教えてくれたW大くんには本当に感謝しています。

 心理療法における転移性恋愛の問題は、専門家にも難しい問題で、フロイトさんを含めてさまざまな議論がなされています。

 本書では10歳の不登校の女の子と22歳の視線恐怖の女性の心理療法のお話が、とてもわかりやすく、細やかに描かれていて、心理療法だけでなく、女性をめぐる文学作品としても一流だと思います。

 本書には主人公の精神科医を指導するスーパーヴァイザーが出てきますが、どうも土居健郎さんがモデルのようで、その冷静さや正確さも魅力的です。

 久しぶりに読みかえしてみましたが、今でも色褪せない魅力的な小説だと思います。

 さらにいい仕事をしていきたいな、と強く思いました。     (2017?記)

 

コメント

村上春樹 『ねじまき鳥クロニクル』(第1部~第3部)1998・新潮文庫-邪悪なるものとの戦いの物語

2024年06月27日 | 村上春樹さんを読む

 2019年のブログです

     *

 村上春樹 さんの『ねじまき鳥クロニクル』(第1部~第3部)(1998・新潮文庫)を再読しました。

 これもかなりの久しぶり。ところどころ記憶がありましたが、じっくりと味わいながら読んでみました。

 少し暗いですが、重厚な小説です。

 これまでは何となく暗いというイメージが残っていて、再読が遅くなってしまいました(村上さん、ごめんなさい)。

 しかし、いい小説です。

 あらすじはあえて書きませんが、邪悪なるものの存在とそれとの戦い、そして、こころ休まるもの、ということになるでしょうか。

 邪悪なるものは世の中に確かに存在するようです。

 しかも、人々のこころの中にも確かに存在します。

 それゆえに、それとの戦いはとても困難になります。

 外部の他者との戦いはなんとかできても、自己のこころの中の邪悪なるものとの戦いは非常にたいへんでしょう。

 つい妥協しがちになるかもしれません。

 それとの関連で、ここでも戦争の残酷さや悲惨さが出てきます。

 そして、外部状況としての戦争の残酷さだけでなく、普通の庶民が、戦場でいかに残酷な行為をしてしまうものか、村上さんはおそらく怒りもこめて描きます。

 村上さんの戦争への強い抗議と、それにもかかわらずに人々が意外と容易に戦争に賛成してしまう危うさをも描きます。

 そんな中で、笠原メイという少女の存在がこころ休まります。

 決して、いい子、ではないのですが、ものごとの本質を考え、見つめようとする存在で、いわゆるトリックスターの役割でしょうか。

 硬直したものをうち破り、遊びと創造に通じていきます。

 素直な考えがいかに大切かが描かれます。

 いい小説が読めて、幸せなひとときでした。      (2019.7 記)

     *

 2022年春の追記です

 ロシアのウクライナ侵略の残忍さを見ていると、この小説の奥深さをつくづく感じさせられます。      (2022.4 記)

 

コメント

小倉清ほか『子どものこころを見つめて-臨床の真髄を語る』2011・遠見書房-真のエヴィデンスとは

2024年06月26日 | 子どもの臨床に学ぶ

 たぶん2017年のブログです

     *   

 小倉清さん、村田豊久さん、小林隆児さんの『子どものこころを見つめて-臨床の真髄を語る』(2011・遠見書房)を読みました。

 2011年の本ですが、なぜか読みそびれていて、今回、やっと読みました。

 いい本です。

 本の帯に、「発達障碍」診断の濫用は逆に子どものこころを置き去りにし、今や脳は見てもこころは見ない臨床家がどんどん産み出されている、とあるのですが、そういう現実を危惧している3人の児童精神科医による鼎談です。

 こころを見ない、とは、子どもの問題行動の原因を、心理テストや脳波を見ただけで診断をしてしまう危うさを指摘していて、もっともっと問題行動の背景や理由、気持ちや考えに目を向けないと真の診断にはならない、と警告をしています。

 それはある意味で、子ども一人一人の個性を本当の意味で尊重したうえでの診断ということになりそうです。

 また、そうした考えから、精神医学は自然科学より社会科学に近い、とか、精神医学は人間学、といった発言が出てきますが、まったく頷けます。

 さらに、印象に残ったのが、臨床の教育は徒弟制度、という発言。

 師匠の技を間近に見ることで成長していくしかない、と述べられています。

 よく臨床家は職人だ、と言われますが、同じ意味だと思います。

 昔、調査官の後輩が「職人としての調査官」という論文を書いたのですが、先見の明があったな、と感心します。

 いずれにしても、エヴィデンスやDSMだけでは十分ではない、臨床の奥深い世界を垣間見ていくことが重要になりそうです。

 ふだんからのケース検討やケース研究での学びを大切にしながら、説得力のある、質の高い臨床の力をつけていきたいなと思います。(2017?)

     *

 2024年初夏の追記です

 子どもの気持ちにきちんと目を向けることが、子どもの個性を本当に尊重することになる、というところは大切だな、と思います。

 そしてそれは児童精神科医療だけでなく、さらには子育てや教育の分野にも共通するのではないかと思います。   

 とはいえ、子どもの気持ちにきちんと目を向けるということは、口でいうほど簡単なことではありませんし、なかなか至難のわざです。

 じーじがふりかえってみても反省ばかりです。  

 さらに努力をしていかなければなりません。     (2024.6 記)

 

コメント

川上弘美『東京日記5 赤いゾンビ、青いゾンビ。』2017・平凡社-電車で読むのは危険な本です

2024年06月26日 | 随筆を読む

 2017年のブログです

     *

 川上弘美さんの『東京日記5 赤いゾンビ、青いゾンビ。』(2017・平凡社)を読みました。

 すごーくおもしろかったです。

 おもしろすぎて、何度か大笑いしてしまい、この本は電車の中で読むのは危険(!)だな、と思いました。

 シリーズ5作目で、実は去年に出ていたのにチェックし忘れで、今頃読んでしまいました(川上さん、ごめんなさい。でも、文庫本になる前に買ったので許してください。ちなみに、じーじが文庫本や古本以外の新しい本を買うのはきわめてまれなことなのです)。

 さて、本書、今回も本当に面白いです。

 川上さんが読者を笑わせようと構えて書いているわけではなく、ふだんの日常生活を淡々と書いているだけなのに、結構、奇想天外なことが出てきて、すごくおかしいです。

 あるいは、川上さんの周りでは、笑いの神さまがさまざまないたずらをしているのかもしれません。

 それを常人とは違う感性でキャッチして文章にすることも、すぐれた小説家の仕事なのかもしれません。

 内容はあまり書けませんが、じーじが一番おもしろかったのは、川上さんが新潟の小さな本屋さんで自分の本があるかどうかをチェックしたところ、一冊だけあったのですが、周りの本がベストセラーすぎて、かえって心苦しくなった、というエピソード。

 川上さんらしく、控えめな(?)エピソードで、ますます川上ファンになってしまいました(!)。

 他にも、真面目なのに、すごくおもしろいお話が満載です。

 そういえば、真面目な話が多いわりに、なぜか、下着のお話が多いのが、川上さんらしい(?)のかもしれません。

 色っぽい小説をお書きになる売れっ子小説家ゆえのことなのでしょう(?)。

 冗談はさておき、とてもいい日記シリーズです。

 哀しいとき、つらいとき、死にたくなったとき(?)にお読みになれば、また元気が出ること、うけあいです。

 よろしかったら、ご一読ください。      (2017 記)

     *   

 2019年1月の追記です

 「じーじの日記」のお手本(?)になったすてきな日記です。     (2019.1 記)

 

コメント

家庭裁判所の離婚調停での経験から-黙っていても幸せを招く「まねきネコ」のような存在に

2024年06月25日 | 心理臨床を考える

 あるかたのブログを読んでいたら、まねきネコのお話が出てきました。

 まねきネコ、といえば、じーじのブログにもありましたので、再録します。

 2018年ころのブログです。

     *

 以前、家庭裁判所で離婚調停に立ち会っていた時のこと。 

 調停委員さんからたまに、調査官が立ち会ってくれると話し合いがまとまることが多い、と言ってもらうことがありました。

 もちろん、お世辞が大部分だったとは思うのですが、たまにはそういうこともあったのかもしれません。

 優秀な調査官が立ち会えば、適切なアドバイスをして、話し合いをうまく進めることも可能だと思います。

 しかし、じーじのような落ちこぼれの調査官の場合は、特に有効なアドバイスもできずに、ただ茫然と立ち会っていたような気がします。

 もっともそんなじーじでもできていたことが一つだけありました。

 それは、お父さんやお母さんがいい発言をした時には大きく頷き、あまりいい発言でない時には動かないでいる、ということでした。

 凡庸なじーじにできることはそれくらいのことで、ほとんど黙って立ち会っていることが多かったように思いますが、それでもそれなりに影響を与えていたのかもしれません。

 じーじはそういう関与の仕方を「まねきネコ」としての調査官、と自称していました(じーじの顔はあんなに可愛くはないのですが…。それでもたまに手を顔のそばに近づけて、こっそりとまねきネコのまねをしてみたりしていました)。

 いま振り返ってみると、アドバイスなどはしなくとも、ただニコニコとして、そこに存在をしていることこそが大切ではなかったかと思うのです(もっとも、深刻なお話の時に、なんで笑っているんだと怒られたこともありましたが…)。

 そしてこのことは臨床家全般にも通じそうな気がします。

 どんなに厳しく、困難な状況であっても、臨床家が多少は困っても、しかし、あまり動じずに、自然体で泰然として存在すること、このことがどれだけ多くの言葉よりもクライエントさんには重要なことではないかと今は考えています。

 拙い文章を書いてしまいましたが、今後もさらに思索を深めていきたいなと思います。      (2018?記)

 

コメント (2)

国家と国旗・国歌の関係、そして戦争-じーじのひとりごと

2024年06月25日 | ひとりごとを書く

 2017年のブログです

     *

 アメリカで国旗・国歌に対する姿勢が問題になっています。

 トランプ大統領が、彼独自の愛国観を国民全体に押し付けようとしたことが発端です。

 もちろん、国旗と国歌が国を象徴するものとして大切なのは理解できますが、力づくで従わせるようなものなのでしょうか。

 国家だって、時には間違った政策を行なうことがあります。

 いろいろ理屈をつけて他国を侵略することもあります。

 そんな時に、そういう政府に反対し、他国を侵略する軍隊への徴兵拒否や他国民を殺すことを拒否する自由は認められるべきでしょう。

 そうでないと、他国を侵略する政府が倒れるまで、国民は他国の人々の殺人を続けなければならなくなるのですから…。

 そういう意味で、国民には、今の政府や国家に反対し、異議を示す権利と自由が保障されることが、民主主義の基本となります。

 政府や国家の政策を力づくで押し付けてはならないですし、国民が反対したり、異議を唱える自由を保障しなければなりません。

 そういう民主主義の基本を理解していない政治家が偉そうにしている国はたいへんなことになります。

 日本の政治家も憲法改悪を唱える前に、民主主義の基本をもう一度勉強する必要がありそうです。

 そして、日の丸や君が代をアジアの人たちがどう感じているのか、どう思っているのかを考える必要もありそうです。     (2017.10 記)

     *

 2021年春の追記です

 香港やミャンマーの様子を見ていると、国家権力の横暴ということが人ごとではないな、と思い知らされます。     (2021.4 記)

     *

 2022年春の追記です

 ロシアがウクライナに侵攻し、悲惨な戦いが続いています。

 ロシアの若い兵隊さんの心境はどうなのでしょうか。     (2022.4 記)

 

コメント

北山修『ふりかえったら風・対談1968-2005 3 北山修の巻』2006・みすず書房

2024年06月24日 | 心理療法に学ぶ

 たぶん2017年のブログです

       *     

 北山修さんの対談本『ふりかえったら風・対談1968-2005 3 北山修の巻』(2006・みすず書房)を再読しました。

 この本もかなりの久しぶりでしたが、今回は前回読んだはずなのにすっかり忘れていた(?)斧谷彌守一(よきたにやすいち)さんという哲学者を再発見(?)したことが一番の収穫です。

 斧谷さんはハイデガーさんの研究者ですが、ハイデガーさんはヘーゲル弁証法の正・反・合を発展させて、全体性と聖なるものの関連に気づいていたのではないか、という説を述べられます。

 ただし、ウィニコットさんを知らなかったため、子どもとおとなの中間領域という考えやそこが創造の場であるという考えには至らずにいて、喜びと悲しみの中間領域という考えには思い至らなかったのではないか、という大胆なお話に発展しています。

 たしかに、ハイデガーさんは読むのにも難儀をするような緻密な哲学で、ウィニコットさんの遊びや創造性の世界からは少し縁遠い印象を受けますが、しかし、素人の感想ですが、どちらもがかなり深い世界を扱っているなという雰囲気だけはなんとなくわかります。

 久しぶりに哲学らしい論議を読めて、面白かったです。

 他にも、精神分析の鈴木晶さんとの対談では、昔話の変化とつくり直しの話題が出て、例のつるの恩返しの物語が書き換えられるかというテーマに繋がっています。

 同じく精神分析の小此木啓吾さんとは境界パーソナリティをめぐって対談がなされ、現代社会における子どもの過剰適応との関連が検討され、死の本能の隠蔽やエディプスの崩壊とおとなになることへの失望など、なかなか刺激的な話題が話されます。

 さらに、精神分析の妙木浩之さんとは、ウィニコットさんをめぐって話され、ウィニコットさんやフロイトさんの症例報告が間接話法で書かれていることを指摘されて、ローデータ神話を批判されます。

 事例報告を直接話法で書くか、間接話法で書くか、という問題は、事例検討が重要である臨床家にとっては大きな問題で、今後、真剣に考えていきたいなと思いました。

 対談本ですが、とても刺激になった一冊でした。     (2017?記)

 

コメント

村上春樹 『遠い太鼓』1993・講談社文庫-村上さんのギリシャ・イタリア滞在記です

2024年06月24日 | 村上春樹さんを読む

 2019年のブログです

     *

 村上春樹さんの『遠い太鼓』(1993・講談社文庫)を再読しました。

 村上さんの1986年から1989年にかけてのギリシャとイタリア滞在記です(村上さんはこの間に『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いています)。

 この本はかなり前から再読をしたかったのですが、やはり本棚の脇の文庫本の山の中に埋もれていて、背表紙は見えているのになかなか出せず、今回ようやくなんとか引っ張り出して読めました。 

 面白かったです。

 30歳後半の若い村上さんと奥さんの姿を見ることができて、とても楽しいです。

 先日、ご紹介をした村上さんのアメリカ・プリンストンの滞在記である『やがて哀しき外国語』の少し前の外国滞在記になりますが、村上さんの行動や考え方がやはりかなり若い感じがして、これはこれで好ましいです。

 ギリシャやイタリアでのできごともとてもおもしろいのですが、じーじが印象に残ったのは、むしろその間の日本のできごととの落差の大きさで、日本の特殊性やある種の危なさを村上さんは鋭く感じています。

 一種の時代評論、社会評論としても読めるかもしれません。

 一つ発見をしたのは、村上さんも人混みが嫌いということ。

 ここの共通点でじーじは村上さんの書くものが好きなんだなと今回、わかりました。

 人混みが嫌いで、人の少ないところでのんびりすること、そして、ゆったりとビールを呑むこと、ここに幸せを感じるようです(?)。

 小さな幸せを大切にすること、その幸せを守ること、そこに村上さんの小説の大切なことがあるような気がします。     (2019.3 記)

     *

 2021年夏の追記です

 2年半ぶりに再読をしました。

 堀田善衛さんの『オリーブの樹の蔭に-スペイン430日』(1084・集英社文庫)を読んでいたら、村上さんの『遠い太鼓』も読みたくなって、読みました。

 スペイン、ギリシャ、イタリア。

 どちらの本もヨーロッパでの作家さんの生活を描きますが、思うのはやはり日本の異常さ。

 日本にいるとわかりにくいですが、日本の社会もマスコミもかなり異常なように感じられます(その無責任さ、集団性、金権傾向、などなど)。

 その歪みの一部が、いじめや虐待などとして現われてしまっているのでしょう。

 いじめや虐待などの渦中にいると絶望しかないかもしれませんが、日本が特殊なだけで、世界は違うようですよ。

 もう少し多様性があるようです。

 世界の多様性を知ることはやはり大切なことのようです。      (2021.8 記)

 

コメント