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ユダの福音書-2 はじめに

2025-02-11 12:49:02 | 旧約聖書・新約聖書・死海文書・エノク書・ユダの福音書


         発見された『ユダの福音書』の写本の最初のページ

 

 

 

はじめに

 

エジプトの砂漠は、これまで散々の財宝や驚くべき考古学上の発見を私たちにもたらせてきた。 そしていま、新たな大発見の知らせがこの砂漠から届いた。 それが、このたび出版されることになった 『ユダの福音書』 である。

ユダとは、新約聖書に登場するイスカリオテのユダのことだ。 『ユダの福音書』ー そのタイトルからして衝撃的である。 新約聖書の四つの福音書やキリスト教の伝承では、ユダは極めつけの裏切り者とされている。


イエスを裏切ってローマ帝国の官憲②売り渡した張本人だからだ。 「イエスの良き知らせ」である福音書からは、最も遠い人物と言ってもいい。 実際、『ルカによる福音書』には、悪魔がユダに入り込んでひれつなこういをさswたさせたと記されている。

また『ヨハネによる福音書』では、イエスは十二使途の前で、ユダは悪魔だと名指ししている。

 

新約聖書によると、ユダの末路はその行状にふさわしいものだった。 イエスを裏切って報酬を受け取ったあと、自ら首を吊ったか (『マタイによる福音書』)、体が真ん中から裂けけ、はらわたが出ておぞましい姿で死んだ(『使徒言行録』)という。

キリスト教美術でも、ユダはイエスに口づけしながら陰で裏切るという、不名誉な姿でよく描かれているー いわゆるユダの接吻である。

 

しかし、新約聖書に登場するイスカリオテのユダには、私たちの興味をかりたてる何かがある。 イエスを裏切るユダの物語は、圧倒的な重みで読む者の胸を打つ。 イエスは最も親しい友に裏切られたのだ。

ユダはイエスに最も近い使徒集団のひとりで、『ヨハネによる福音書』によると、会計係として、イエスをはじめ使徒たちが手にした収入はすべてユダが預かっていた。しかも最後の晩餐のとき、やるべきことをただちに実行するようユダに指示したのは、ほかならぬイエスではなかったか?

 

イエスが人々の罪を一身に背負って死に、三日目に復活するのは、すべて神聖なたくらみではなかったのか? ユダがイエスに接吻しなければ、磔刑(たっけい)も復活も起こらなかったはずだ。

イエスの使途にして裏切り者であるイスカリオテのユダは、いったいどういう性格の持ち主で、なぜあんな行動をとったのか。これは多くの人が疑問に思っていたことだ。

 

ユダをめぐる文献や作品は枚挙にいとまがない。 アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ユダについての三つの解釈』、ロシアの作家ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、それにフランスの作家マルセル・パニョルの戯曲『ユダ』など。

ロックミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』に登場するユダは、イエスに献身的な愛を捧げていて、顧客の同情を一気に誘う。 そしてボブ・ディランは『神が見味方』のなかでこう歌っている。

 

        きみはやがて悟るだろう
        イスカリオテのユダには
         神が味方していたのだと

 

『ユダの福音書』に描かれるイスカリオテのユダは、裏切り者であると同時に、福音書のヒーローでもある。 彼はイエスに語りかける。

「あなたが誰か、どこから来たのか知っています。 あなたは不滅の王国バルベーローからやってきました。 私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」

 

『ユダの福音書』の精神世界において、イエスが『不滅の王国バルベーロー』から来たと認めることは、イエスが神聖をもつと認めることであり、イエスを遣わした者の名を口に出せないと宣言するのは、真の神が全宇宙の無限の存在だと主張することに等しい。

ほかの使徒たちがイエスを誤解し、彼の前に立つことができなかったのに対し、ユダだけはイエスが何者かを理解し、イエスの眼前に立って、イエスから学んだのである。

 

『ユダの福音書』でも、ユダはイエスを裏切る。 だがそれはイエスの要請だった。 イエスはユダに「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」と語る。

『ユダの福音書』によると、イエスが救済者なのは、いずれ滅びる肉体をまとっているからではなく、内なる魂、すなわち神聖を現すことができるからだ。 そしてイエスの真の居場所は、地上の不完全な世界ではなく、光と生命に満ちた天上の世界である。 

『ユダの福音書』に描かれるイエスにとって、死は悲劇ではないし、罪が許されるための必要悪でもない。

 

『ユダの福音書』の中のイエスは、新約聖書の四福音書のイエスと違ってよく笑う。使徒たちの至らなさを笑い、人生の不条理を笑っている。

んな不条理な物質世界から退場できるのだから死を恐れたり怖がったりすることはないのだ。 死は悲しいものではない。

 

イエスが肉体から解放され、天上の家に戻る手段である。 ユダはユダは敬愛するイエスを裏切ることで肉体を肉体を捨て去り、内なる神聖な本質を自由にすることを手助けしている。

 

『ユダの福音書』の視点は、新約聖書の四福音書と多くの点で異なっている。 新約聖書に収録されている福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つだけだが、キリスト教の黎明期には、このほかにもさざざまな福音書がが編まれた。

それ以外に、全部または一部が現存している福音書も、トマス、ペテロ、ピリポ、マリア、エビオン派、ナザレ人の各福音書のほか、ヘブル人の福音書、エジプト人の福音書など無数にあり、初期キリスト教には多様な解釈と立場が存在していたことを物語っている。

 

そしてこの『ユダの福音書』もまた、イエスの人なりと、あるべき信仰の形を後世に伝えるために初期キリスト教としるしたものだ。

『ユダの福音書』は、いわゆるグノーシス派の福音書に分類される。おそらくすでに存在していた原典や発想を下敷きにして、二世紀半ばに編まれたと思われる。 『ユダの福音書』には、グノーシス(gunosis)、すなわち『知識』を重んじる宗教思想が反映されている。

 

『知識』とは神秘的な知識、紙の知識であり、神と自己の融合である。 この宗教思想は一般に『グノーシス』と呼ばれるが、この言葉の使い、古代世界から、古代世界から議論が絶えず。今日でも研究者の間で論争が続いている。

神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光であるとするグノーシ立場は、仲介者なぬきで直接神とかかわろうとするその自由な発想ゆえに、初期キリスト教の司祭や教父からうとんじられ、異端狩りの対象になった。

 

異端を論じた知識人の著作は、邪悪な思考をもてあそび、いまわしい活動にふけっているという非難の言葉であふれている。

 

こうした攻撃に対し、グノーシス主義的な立場の『ユダの福音書』には、当時勢力を伸ばしつつあった正統派教会の指導者や信者こそ、あれこれ良からぬ行動をしているという記述がある。

『ユダの福音書』によれば、グノーシス派を敵視するこうした正統派のキリスト教徒は、地上世界を支配する神の小間使いに過ぎず、彼らのいきかたはその神の容赦ない支配の仕方にそっくりだというである。

 

『ユダの福音書』は、旧約聖書の『創世記』に登場する人物セツ二言及し、神の知識を持つ人類はセツの時代に属する徒断定している。これはグノーシス主義に典型的な発想で、セツ派と呼ばれる事も多い。

『創世記』によると、アダムとイブの最初の子供たちは、アベルが殺されカインが追放されてしまったが、その後に生まれたのがセツである。

 

つまりセツは、人類のはじまりを象徴している。 だから『ユダの福音書』、およびセツ派の文書によると、セツの世代に属するということは、正しい知識をもつ人類だということだ。 それは、『ユダの福音書』をはじめとするセツ派の文献において、何よりの救済の知らせだった。

 

『ユダの福音書』最大の読みどころは、イエスが宇宙の神秘についてユダに教える場面だろう。 グノーシス主義の福音書はどれもそうだが、イエスはそもそも教師である。 知恵と知識を明かす人物であり、世界の罪を背負って生命を落とす救済者ではない。

グノーシス主義によれば、人間が抱える根本的な問題は、原罪ではなくむしろ無知である。それを解決するには信仰よりもむしろ知識が重要だ。 イエスは無知を根絶し、自己と神の意識に通じる知識をユダと『ユダの福音書』の読者に与えた。

 

『ユダの福音書』のこうした啓示的な内容に現代の読者は違和感を覚えるかもしれない。セツ派グノーシス主義が考える啓示は、欧米で長く受けつがれてきた哲学や神学、宇宙論と大幅に異なるからだ。

今日キリスト教信仰の主流となっているのは、ローマ・カトリック教会だが、アルゼンチンの作家ボルヘスはグノーシス主義を論じた文章の中でこう書いている。 

 

「もしローマではなく、アレクサンドリアが覇権を握っていたならば、概略を概略を紹介した突拍子もない話の数々も一貫性があって威厳にあふれた正当な逸話と言うことになるだろう

 

しかしキリスト教会の勢力争いで勝利したのは、アレクサンドリアをはじめとするエジプトのグノーシス信仰ではなかった。

そして二~四世紀に吹き荒れた神学論争の嵐のなかで、『ユダの福音書』も敗北する。 主流派とは異なる解釈にもとづいた、今日の目で見ると風変わりな発想が記されたこの福音書はすたれていった。

 

だが、『ユダの福音書』のなかでイエスがユダに与えた啓示は、背後に洗練された神学理論と宇宙論がある。 啓示それ自体には、キリスト教的な要素はほとんどない。 

グノーシス主義の発展の研究者の理解が正しいとすれば、啓示に込められた発想は、紀元一世紀あるいはもっと昔に、古代ギリシアやローマの思想を柔軟に受け入れていたユダヤ系の哲学者やグノーシス主義者の系統に行きつく。

 

イエスがユダに語ったところによると、まずはじめに、すべてを超越した無限の神性が存在していたという。

それから複雑な創造と流出の過程を経て、天は光と栄光で満たされた。 この無限の神性はどこまでも崇高なので、言葉ではうまく表現できない。 『神』という言葉さえ、不十分であり、不適切であることがほのまかされている。

 

そして地上の世界は、ネブロ(『反逆者』の意)またはヤルダバオートという下位の創造神が支配している。

この創造神は狭量で悪意に満ちており、私たちの世界が問題だらけなのはそのせいだ。 それゆえ知恵の言葉に耳を傾け、内なる神聖な光に気づかねばならない。

 

グノーシス派にとって、宇宙の最も深遠な謎は、特定の人間が神性を帯びた魂を宿していることにある。

私たちが生きる世界は欠陥だらけで、暗黒と死に支配されることが多いが、それでも暗黒を乗りこえ、生命を取り込むことは可能である。

 

イエスはユダに、私たちはこの世界より優れている、なぜなら私たちは神聖な世界に属しているからだと語った。 もしイエスが神性を帯びた存在の息子であるならば、私たちもまたその子どもであるはずだ。  私たちに必要なのは、神聖な知識を頼りに生きること。

そうすれば悟りが得られるに違いない。

 

『ユダの福音書』では、新約聖書の四福音書とは対照的に、イスカリオテノユダがどこまでも前向きな性格で、イエスの使徒のお手本のように描かれている。 『ユダの福音書』が、イエスの磔刑(たっけい)ではなく、裏切られた場面で終わっているのもそのためだろう。

この福音書が伝えたいのは、模範的な使徒としてのユダの深い洞察力と忠誠心なのだ。ユダはイエスが望んだ通りの事を実行する。

 

ところが聖書の言い伝えでは、ユダは(その名前は『ユダヤ人』『ユダヤ教』と結びつけられてきた)、イエスを官憲に売り渡し、処刑させた悪魔のユダヤ人ということになっている。

しかし、『ユダの福音書』では、そんなイメージ画打ちくだかれる。 彼はイエスに頼まれたことだけを遂行し、イエスの言葉に耳を傾け、イエスへの忠誠心をいささかも失わなかった。

 

『ユダの福音書』二描かれるイスカリオテノユダは、イエスに愛された弟子であり、親友なのである。

しかもユダがイエスから学ぶ秘密の数々には、ユダヤ教グノーシス主義の口承の影響が色濃い。 そうした秘密を伝授するイエスは、教師、つまりラビなのだ。

 

『ユダの福音書』はキリスト教のものではあるが、グノーシス思想のユダヤ教的解釈(それがユダヤ教の本流ではないものの)ともうまく折りあいがついている。

ユダヤ教的グノーシス思想が洗礼を受けて、キリスト教的グノーシス思想になったのだ。 

 

この福音書には、全ての人は自分の星をもっていて星が運命を導くというプラトン思想と通じる部分もある。 ユダにも彼の星があるとイエスは語る。

そしてこの福音書の終わりのほう、ユダが光り輝く雲の中で変容し、覚醒する直前に、イエスはユダに、空を見上げ、たくさんの星と光の輝きを見よと告げる。

 

空にはあまたの星があるが、ユダの星は特別なのだ。 「皆を導くあの星が、お前の星だ」

 

 

 

 

解説

本書は、『ユダの福音書』を現代によみがえらせた最初の出版物となる。この福音書は、初期キリスト教会で読まれ、エジプトで隠されて以来、人の目に触れることはなかった。

ところが一九七〇年代にエジプト中部で、パピルス写本として発見された。 この写本は、いまではチャコス写本と呼ばれている。

 

見つかったのはコプト語訳版だが、原典は②世紀半ばにギリシア語で編纂されたものである。 こうした年代の根拠となっているのは、リヨンのエイレナイオスと呼ばれる初期キリスト教会の教父が残した文章だ。

エイレナイオスは紀元一八〇年ごろに書いた『異端反駁(いたんはんばく)』という著作のなかで、『ユダの福音書』二言及している。

 

コプト学者グレゴール・ウルストが本書に収めた小論で述べているように、エイレナイオスたちが名指しした『ユダの福音書』は、このたび見つかったチャコス写本二含まれる『ユダの福音書』のことと考えていいようだ。

チャコス写本は四世紀初頭の作とされるが、放射性炭素年代測定法によると、もう少し古い可能性もある。

 

本書に収められた『ユダの福音書』の英訳はロドルフ・カッセル・マービン・マイヤー、グレゴール・トウルスト、そしてフランソワ・ゴダールの共同作業で進められた。

スイスのジュネーブ大学尋問科学部名誉教授であるロドルフ・カッセルはコプト学研究の権威で、これまでも重要なギリシア語、コプト写本の編纂に携わってきた。

 

マービン・マイヤーは、米国カリフォルニア州にあるチャップマン大学の聖書・キリスト教研究者で、ナグ・ハマディ文書のテキストを中心に研究している。

 

グレゴール・ウルストはドイツ・アウグスブルグ大学カトリック神学部でキリスト教史の教授を務め、コプト語やマニ教関連の研究が専門である。

 

フランソワール・ゴダールはコプト語、古代エジプト民衆文学の研究をしており、米国シカゴ大学オリエント研究で助手をしている。

 

翻訳はまず二〇〇一年に、カッセル博士が修復専門家フロランス・ダルブルの協力で着手し、二〇〇四年からはウルスと教授も参加した。 ばらばらになった写本の断片を並びかえ、復元するのは、気の遠くなるような作業だった。

こうしてよみがえった『ユダの福音書』のテキストは、翻訳に参加した者全員が基本的に納得のいく形で英語に訳され、本書で紹介されることになった。

 

 

 

 

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