1945年8月9日 ソ連軍の侵攻
以下、『満州帝国が分かる本』 著者太平洋戦争研究会 PHP文庫、2004年12月17日第1版第1刷
印刷所・製本所 大日本印刷株式会社、政策協力PHPエディターズ・グループ から引用。
ソ連軍の侵攻と残留孤児そして残留婦人など
満州帝国は、1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍による侵攻を受けた。 その瞬間から各地の日本人開拓団は、ソ連軍と中国人によって追われる立場に逆転した。 着の身着のままの開拓団集団は、ソ連軍と中国人にいたぶられ、もてあそばれる立場に逆転した。あまりにも悲劇の事件が多いが、辛うじて生還した人たちによってその一部は記録されている。 その極いくつかを見ておこう。
◎麻山(まさん)事件
8月12日、東安県朝山での集団自決事件。 自決者は465人という。 彼らは鳥寧県蛤達河(けいねんけんはたほ)開拓団1000人のなかの一つにまとまったグループのほぼ全員だった。 逃避行のさ中に、ソ連軍と旧満州軍に挟み撃ちにあい、絶望のあまりの集団自決であった。 (中村雪子『麻山事件』)
◎葛根廟(かっこんびょう)事件
8月14日、興案県興街のラマ教寺院葛根廟に入った開拓団約1300人が、ソ連戦車部隊によって攻撃され殺戮された事件。
ほとんどが婦女子だった。(読売新聞大阪本社社株編『新聞記者がが語り継ぐ戦争(5)葛根廟』)
◎佐渡開拓地事件
8月25日、三江省勃利県(さんこうしょうぼつりけん)にあった佐渡開拓団跡地に、別の13、14の開拓団が非難途中に集結した。 約5800人いたという。 そこへソ連軍戦車隊が襲い掛かり、蹂躙殺戮(じゅうりんさつりく)した。 犠牲者は3700人以上といわれる。
◎ハルピン忠霊塔(ちゅうれいとう)事件
ハルピンまでようやくたどりついた浜江省阿城県(ひんこうしょうあぎけん)天理開拓団の男性78人が、ソ連兵に連行され一切の弁明も許されずに集団銃殺された。
同開拓団は1100人をこえる集団をつくっていたが、1946年(昭和21年)4月(日本降伏8ケ月後)までに402人が死亡した。 虐殺された男性以外の死因は栄養失調である。
◎600人集団自決
北安省綏稜県(ほくあんしょうすいりょうけん)稲穂村開拓団と同県東瑞穂開拓団、同県布施郷開拓団は周囲の中国人の度重なる掠奪・虐殺に耐えかねて集団自決した。
その数は約600人で、開拓団の集団自決としては最大といわれる。
「『この上、生きて彼らの玩具となるより、いっそ自決すること。 ただし身体強健なるものは生き延びて村所期の目的達成に努力すること』に決したり。よって各宿舎に毒薬を配布し、決定事項を申し渡したのは(1945年昭和20年9月)17日午前2時なり。服毒自殺せる者男女合わせて約600名」(合田一道『開拓団壊滅す「北満農民救済記録」から』所収)
女性は年齢に関係なくソ連将兵の女狩り・強姦の対象になり、そのあと部隊付きの慰安婦とされる者が少なくなかった。
開拓団ではないが、日赤看護婦として満州帝国に派遣され、敗戦で長春(ちょうしゅん)のソ連軍病院で働いていたグループがあった。
そのなかから、近在のソ連軍病院救護所の要求に従って6人が派遣された。 どころがこの看護婦たちは、実は慰安婦とされていたのだ。 そのことが判明して、残る看護婦22人が抗議の集団自決を行った事件もあった。(越智宏倫『写真と実録で綴る戦争という地獄』)。
こういう過酷な運命にさらされて、幼い子供を農民に預けたり、買いたいと申し出る農民に売ったりする人も多かった。 子連れのまま中国人の妻になった人もいる。
そのようにして幼くして中国人として育てられた人たちが中国残留孤児である。
彼らの日本への帰国は、かつて自分も開拓団員として満州帝国にあたって帰国した山本慈昭氏(故人)が政府に訴え続けて、1981年3月にやっと実現した。 以後、今日まで日本人として確認されて帰国した残留孤児は約2500人である。
また、「敗戦当時13歳未満で親と離別して身元が分からない残留孤児を除く中国残留邦人を」『残留婦人等』と呼んでいるが、その資格で日本に帰国できた者は、これまでに約50000人である。
しかし、それですべての残留孤児や残留婦人などが願いかなって帰国できたわけではない。
身元調査が始まり、帰国が始まってから30年近く経つが、なお帰国がかなわぬ者もすくなからずいる。
2004年7月22日付『朝日新聞』が報じた「『私は日本人』訴え続け/両親と中国へ 帰国求め21年」で紹介された梁延文(中国で登録している外国人登録では花井勝一。黒竜江省樺南県大八浪郷仏豊村在住)のようなケースも依然として残されているのだ。
これは日本人だと再三訴えても、厚生労働省は本人申し立ての中国に渡る前の戸籍などが確認できないとして、援護の対象から外しつづけてきたケースという。
最近になって同省の現地調査で、「日本人の証となる種痘のあとを確認した」ので、「中国政府から、本人が日本人だという正式な証明書を出してもらえれば、帰国を支援したい」という段階まで進んだ。
敗戦のとき、満州帝国には155万人の日本人がいたという(関東軍は除く)。 敗戦の混乱で、開拓団を中心に約25万5千人が死亡したとされ、敗戦直後に104万人が帰国した。
その後、中華人民共和国が成立したのち民間レベルで計3万人強が帰国した(前出2004年7月22日付『朝日新聞』)。
これで計算すると、仮に残留孤児や残留婦人等で帰国した人たちの合計が1万人としても、21、22万人の日本人が残っていなければならない。 実はそのへんの実態がよくわからないという。
ただし、戦史業書『関東軍<2>』には、大本営作戦課長だった天野正一少将の回想のなかで、「(日ソ)会戦に先立ち132万余の遺留民・・・云々」という表現がある。
つまり、敗戦のとき満州国にいた日本人は132万人余りだったというのである。
これを基礎に計算すると、もうほとんど在留日本人は中国東北地方(かつての満州国)にはいないということになる。 先の「私は日本人・・・」の訴えは、はたして、その最後の訴えということになるのだろうか。
シベリア強制連行・抑留者の強制労働補償要求
満州帝国は1945年8月9日、ソ連軍の侵攻を受けた。 それから1週間目に日本の連合国への三条件幸福となった。
全戦場の日本軍人は戦犯裁判で逮捕されたものを除き、原則として速やかに日本へ送還された。ところがまったく事情が異なっていたのが、ソ連軍の捕虜となった関東軍の小⒢兵だった。
強制連行されたのは、正しくは北緯38度から以北の日本軍将兵であり、北朝鮮にいた関東軍でない将兵も含まれていた。
さらには千島列島の最北端・占守島(しむしゅとう)で日本人が無条件降伏した翌日から侵攻してきたソ連軍と戦った日本軍将兵も、同じく強制連行され、強制労働に従事させられた。
強制連行された総数は日本政府の出しているものでは、57万5千人といわれるが、実際はもっと多く65万人とかいや70万人近くいたのではないかともいわれている。
ラーゲリー(シベリア抑留の収容所のこと)はシベリア各地はもとより、モンゴル国、カザフ共和国、ウズベク共和国と広範囲に及んだが、とくに極寒のシベリア各地では暖房設備が貧弱で、そのうえ食糧が極端に乏しかったので、栄養失調で生命を落とす者が多かった。
強制労働は、鉄道建設、森林伐採、鉱山採掘、発電所建設、石油コンビナートでの労働といろいろだった。
肉体的苦痛のうえに追い打ちをかけたのが、「民主運動」という名の反動分子の摘発だった。 ソ連は、主義とするところのプロレタリアート民主主義や人民主義を押し付け、従わぬ者をつるしあげ懲罰し、投獄した。
こうした民主運動は、それに全面的に賛同する日本人の組織化をはかりつつ、日本への憎悪と、ソ連とスターリン(当時のソ連独裁者)個人への賛美を強制した。
ソ連側はそういう運動へ積極的に参加することが、帰国を早める条件であるかのように指導したのである。
そして、日本へ帰国後は、「ソ連のために銃をとる」との心境になるまで追い詰めたという。 だから、ついにはスターリンへの感謝決議文まで提出するラーゲリーもでたほどだった。
日本政府が、いっこうに帰ってこない関東軍将兵が、じつはシベリアに強制連行されたという事実をつかんだのは、敗戦の年の11月になってからだった。 外交権がなかったので、アメリカを仲介としてソ連に早期帰国を迫った。 ソ連は最初、「そんな」日本人はいない」とシラを切っていたが、やっと第一陣の帰国が実現したのは敗戦から1年4ケ月以上もたった1946年12月だった。
以後2回ほど中断して最後の帰国団を乗せた輸送船が舞鶴に入ったのは1958年(昭和33年)9月だった。敗戦から13年以上がたっていた。
シベリア抑留中に犠牲になった日本人は、ソ連が崩壊したあとロシア大統領になったエリツインが、日本政府に提出した名簿によると6万1805名である。 犠牲者で名簿に載っていない人も少ないであろう。
こうした犠牲者がすべて墓地に埋葬されたわけではない。また埋葬されていてもどこであったか、いまでは分からなくなっているケースが多いという。
「旧ソ連に点在していた日本人捕虜用の収容所が2千個以上と推定されているのだから、死亡者を埋葬した箇所が1千個以上と推定しても決して多い数ではない」(高橋田大造「シベリア抑留 6万余の志望者はいま/極東シベリア墓参報告『別冊歴史読本』戦記シリーズ「た太平洋戦跡異例総覧」特集号所収。
高橋氏は「ソ連における日本人捕虜の生活を記録する会」代表だったが、物故された)と考えられている。
犠牲者埋葬地のなかには地元民の献身的な努力で見事に管理されているところも少なくない。 しかしシベリアに多い山火事の影響で場所が分からなくなったり、場所が分かっているがすっかり荒れ果てているところもある(コムソモリスク・ナ・アムーレ市)。
日本人の骨が埋まっていることは分かっていたが、あまりに多いので発掘は費用がかかるとして、そのままビルを建ててしまったらしい。
「ソ連における日本人捕虜の生活を記録する会」墓参団の講義に市は謝罪し、市街地に合同で鎮魂の碑を建てたという。
こうしたシベリア強制連行・抑留者で、犠牲となった人々の慰霊・遺骨収集も政府の手によって続けられている。
DNA鑑定による特定も試みられており(2000年11月21日付『読売新聞』)、こうした努力はまだまだ続けられるはずだ。
シベリア強制連行・抑留者のなかで、生還出来た人々が、現在、最も力を入れていることは、シベリアにおける強制労働に対する補償要求である。
ソ連崩壊後、ロシア政府は労働証明書を原則として発行するようになったが、それをもとにして日本政府が『労賃』を支払うよう求めている。
南方戦線で米・英などに降伏した日本軍将兵で労働に従事させられたものに対しては、すでに日本政府から『賃金』が支払われたのに、なぜシベリア抑留者だけが無視されるのか、というわけである。
金額の多寡(たか)ではなく、「ご苦労様でした。 皆様の払われた犠牲を日本政府は決して忘れてはおりません」という、象徴的な支払いを求めている雰囲気もある。
2004年7月に行われた参議院議員選挙の立候補者に、全国抑留者補償協議会がアンケートした結果では、6割以上が救済のための立法が必要と回答しているから、この問題は遠からず解決するのではなかろうか。
以上
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