出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州。
父のアロイス・ヒトラーはオーストリア帝国大蔵省の守衛であり、母のクララ・ヒトラーはアロイス宅の住み込み家政婦であった。
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)1889年4月20日ー1945年4月30日 幼少期の写真
出自
ヒトラー家
「アロイス・ヒトラー」も参照、母クララ・ヒトラー、父アロイス・ヒトラー
ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。
私ほど知らない人間はいない。親戚がいることすら知らなかった。(中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。
出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ!」と述べており、妹パウラは「兄には一族という意識がなかった」としている。
そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は低地オーストリア地方にあるシュトローネス村にマリア・アンナ・シックルグルーバーという未婚女性の私生児として1837年に生まれ、アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。
父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれた高齢出産かつ初産であった。さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの洗礼台帳は空白になっている。
後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人ヨハン・ゲオルク・ヒードラー(英語版)と結婚、アロイスは「継父と母が儲けた婚外子」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠はない。
職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。
暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫ヨーハン・ネーポムク・ヒードラー(英語版)に引き取られ、義叔父ネーポムクはアロイスを実子のように可愛がった。
なお、兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じHiedlerと記載されている。もともとHiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。
「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓は東方植民したボヘミアドイツ人、およびチェコ人・スロバキア人などに見られるとも言われる。
1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子である」と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。
改姓にあたっては義叔父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそアロイスの実父であったのではないかとする意見もある。
それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。
あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。
改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは親戚付き合いがほとんどない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と不思議がっていたという。
ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「ヒトラー」と書かれており、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。
なお、日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。
生い立ち
1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた。
洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている。
ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、ドイツ帝国バイエルン王国のパッサウ市へ転居している[要文献特定詳細情報]。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。
彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである。
幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった。
1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めていた。
ヒトラーはランバッハの郊外にあったフィッシュルハムの国民学校(小学校)に通った。
1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった。
異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった。
1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。
ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ。
ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するスワスチカが使われていた。
本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである。
1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のレオンディングにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。
弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[39]。
感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。
1899年、各地を転々としていたヒトラーは義務教育を終え、小学校の卒業資格を得た。
父とのいさかい
母クララとの関係は良好だったが、家父長主義的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。
アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした。
アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた。これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。
後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている。
1900年、中等教育(中学校・高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。
自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。
恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(ドイツ語版)や大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている。
なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。
また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した。周囲の人間もほとんどが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。
ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した。
ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。
ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいとする見解もある。
税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があり、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。
実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。
実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている。
もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろギムナジウム入学を強制したはずである。
よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い、というものである。
1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、留年となった。
1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した。
1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳(数え年)で病没する。地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという。
しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。
同年には外国語(フランス語)の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった。
退学後、リンツ近郊にあったシュタイアー市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験で国語と数学、後期試験では幾何学で不合格となった。
私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている[31]。結局、1905年には試験や授業を受けなくなり詳細情報]、病気療養を理由に2度目の学校も退校している。
ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述の小学校のみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。
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