今年の正月1~2日は、妹夫妻の住む千葉君津へ年始挨拶に出かけました。
どうせ行くならば、一泊するので史跡巡りをしたいというサクラさんのリクエストに答えて、千葉県君津市俵田に鎮座する白山神社へ初詣ついでに訪れることにしました。
自分たちは、義弟の車で出かけましたが、久留里線 俵田・小櫃駅から徒歩15分ほど。 久留里街道沿いに白山神社は、鎮座しています。
史跡 白山神社古墳(クリックして拡大)
白山神社の裏手には、前方後円墳の明瞭な容姿を今でも残す古墳があります。周囲には陪冢もあり鏡や直刀などの遺物が発掘されています。
かつてこの辺りに馬来田国造(うまくだのくにのみやつこ)が置かれていたとの言い伝えがある事から、主墳でもあるこの墳墓は権力者のものと推定できます。
一の鳥居
二の鳥居
稚児柱には、あまり例を見ない覆屋根が付いていました。
参道脇の神池に、泉が湧き出ていました。
写真では明るさを調整してしまいましたが、参道は薄暗く鳥居を一歩入ると背筋がゾワゾワしました。
随神門
随神門の左右に鎮座する錦彩色木造像
造形がなかなか見事な狛犬一対
拝殿
本殿 他の神社では、あまり見かけない特徴的な詰組
目立たぬように菊花紋が…。
左側に「田原神社」の額装
白山神社祭祀:大友皇子・菊理比売神
由緒:社伝によれば、壬申の乱で敗れた大友皇子が東国に逃れこの地で自刃したとされ、その後天武天皇13年(684年)に勅使が下向し社殿を造営、皇子を祀り田原神と称したと伝えられている。「田原」が現在の地名「俵田」の由来となったともされ、かつては田原神社と称していた事から、元慶8年(884年)に従五位下の神階が授けられた、武蔵国田原神に比定されている。拝殿には江戸時代中期の神祇伯雅寿王の文政12年(1829年)の筆による「田原神社」の額が掲げられており、明治維新後社名を白山神社と改め明治6年(1873年)郷社に列した。
(WIKIより転載)
【境内摂社】
水天宮
八坂社 使われなくなったお神輿が社としてお祭りされていました。
三猿の庚申塔
参道と平行した散策路を登りきると、江戸中期頃に築かれたとされる館ノ内城跡(土塁のみ)があります。
境内の裏手には、かなり明瞭な前方後円墳があります。また、周囲には陪冢の円墳があります。
天神社 後方に円墳が見えます。
浅間社 こちらも後方に円墳があります。
白山神社古墳全景(小櫃山陵古墳)(写真クリックして拡大)
古墳上から前方部を望む
古墳上から後円部を望む
古墳上から白山神社本殿を望む
先ほど感じた鳥居をくぐるとゾワゾワした何ともいえない負のパワーのイメージ感。
社殿は西向きで、オマケに古墳を背にしているわけですからこの神社にはマイナスの気が流れているようなもの。
長いこと留まるのは、あまりお勧めしません。
事実 散策途中に頭がズキズキして来て、早くこの場所から離れたい衝動に駆られました。
ここ白山神社の祭祀でもある“大友皇子”
なぜ「壬申の乱」のあと自害した彼が、上総国現在の千葉のここに祀られているのでしょう?
君津市俵田地区には興味深い伝承があります。
実は、大友皇子は自害しておらず、首実検されたものは身代わりとなった者の首で蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに千葉県まで逃げ延びたというのです。
滋賀県大津から千葉県までの道は諸説あるようですが、一旦難波まで出て船で上総国までたどり着いたというのです。
逃げ延びた彼はこの地で宮(小川宮)を建て後に、その跡に田原神社(現在の白山神社)を建立しました。
しかし、このことは大海人皇子にも知られるところとなり、再びこの地まで兵を送り大友皇子は対戦できる十分な兵を持っていなかったためここで自害したと伝えています。
大友皇子は火葬され白山神社の裏山に埋葬されその場所が白山神社古墳だということです。
また、大友皇子の妃でもある十市皇女もこの地に逃れて来ました。
彼女は身ごもっていたのですが皇女は死産で生まれ後に村人は皇女を弔うため白山神社より南東に20キロほど離れた筒森神社を建て、手厚く弔ったと伝えられています。
白山神社古墳の後円部から東側にやはり円墳があり、こちらが大友皇子の墓と伝わります。
左右に並ぶ灯籠の中央に四角い怪しい穴が開いていました。井戸という説もあるようですが円墳側に奥行きがありそうです。石室かも知れませんが真相は定かでありません。
「死んだはずの歴史上の人物が、実は死んだのは替え玉で、遠い地で生き延びていた。」と、言ったトンデモ伝承は全国各地で残っていますが、ご存知のように歴史書は勝者が都合のいいように書き残したもの。
しかし、この上総国の“大友皇子生存説”は小櫃川沿いの各神社にしっかり伝えられています。
この地域には大鳥居、鳥居戸、大鷲や白鳥山などの古代太陽信仰や日本武尊と関係の深い地名や鎌足や馬来田などの飛鳥時代の主要人物を思わせる地名が今でも残っている大変興味深い地域でもあり、いずれじっくりそれらの史跡を訪ね歩いてみたくなりました。
参考:大友皇子伝説
関連記事:【史跡】(伝)大友皇子之陵@神奈川県伊勢原市日向
どうせ行くならば、一泊するので史跡巡りをしたいというサクラさんのリクエストに答えて、千葉県君津市俵田に鎮座する白山神社へ初詣ついでに訪れることにしました。
自分たちは、義弟の車で出かけましたが、久留里線 俵田・小櫃駅から徒歩15分ほど。 久留里街道沿いに白山神社は、鎮座しています。
史跡 白山神社古墳(クリックして拡大)
白山神社の裏手には、前方後円墳の明瞭な容姿を今でも残す古墳があります。周囲には陪冢もあり鏡や直刀などの遺物が発掘されています。
かつてこの辺りに馬来田国造(うまくだのくにのみやつこ)が置かれていたとの言い伝えがある事から、主墳でもあるこの墳墓は権力者のものと推定できます。
一の鳥居
二の鳥居
稚児柱には、あまり例を見ない覆屋根が付いていました。
参道脇の神池に、泉が湧き出ていました。
写真では明るさを調整してしまいましたが、参道は薄暗く鳥居を一歩入ると背筋がゾワゾワしました。
随神門
随神門の左右に鎮座する錦彩色木造像
造形がなかなか見事な狛犬一対
拝殿
本殿 他の神社では、あまり見かけない特徴的な詰組
目立たぬように菊花紋が…。
左側に「田原神社」の額装
白山神社祭祀:大友皇子・菊理比売神
由緒:社伝によれば、壬申の乱で敗れた大友皇子が東国に逃れこの地で自刃したとされ、その後天武天皇13年(684年)に勅使が下向し社殿を造営、皇子を祀り田原神と称したと伝えられている。「田原」が現在の地名「俵田」の由来となったともされ、かつては田原神社と称していた事から、元慶8年(884年)に従五位下の神階が授けられた、武蔵国田原神に比定されている。拝殿には江戸時代中期の神祇伯雅寿王の文政12年(1829年)の筆による「田原神社」の額が掲げられており、明治維新後社名を白山神社と改め明治6年(1873年)郷社に列した。
(WIKIより転載)
【境内摂社】
水天宮
八坂社 使われなくなったお神輿が社としてお祭りされていました。
三猿の庚申塔
参道と平行した散策路を登りきると、江戸中期頃に築かれたとされる館ノ内城跡(土塁のみ)があります。
境内の裏手には、かなり明瞭な前方後円墳があります。また、周囲には陪冢の円墳があります。
天神社 後方に円墳が見えます。
浅間社 こちらも後方に円墳があります。
白山神社古墳全景(小櫃山陵古墳)(写真クリックして拡大)
古墳上から前方部を望む
古墳上から後円部を望む
古墳上から白山神社本殿を望む
先ほど感じた鳥居をくぐるとゾワゾワした何ともいえない負のパワーのイメージ感。
社殿は西向きで、オマケに古墳を背にしているわけですからこの神社にはマイナスの気が流れているようなもの。
長いこと留まるのは、あまりお勧めしません。
事実 散策途中に頭がズキズキして来て、早くこの場所から離れたい衝動に駆られました。
ここ白山神社の祭祀でもある“大友皇子”
なぜ「壬申の乱」のあと自害した彼が、上総国現在の千葉のここに祀られているのでしょう?
君津市俵田地区には興味深い伝承があります。
実は、大友皇子は自害しておらず、首実検されたものは身代わりとなった者の首で蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに千葉県まで逃げ延びたというのです。
滋賀県大津から千葉県までの道は諸説あるようですが、一旦難波まで出て船で上総国までたどり着いたというのです。
逃げ延びた彼はこの地で宮(小川宮)を建て後に、その跡に田原神社(現在の白山神社)を建立しました。
しかし、このことは大海人皇子にも知られるところとなり、再びこの地まで兵を送り大友皇子は対戦できる十分な兵を持っていなかったためここで自害したと伝えています。
大友皇子は火葬され白山神社の裏山に埋葬されその場所が白山神社古墳だということです。
また、大友皇子の妃でもある十市皇女もこの地に逃れて来ました。
彼女は身ごもっていたのですが皇女は死産で生まれ後に村人は皇女を弔うため白山神社より南東に20キロほど離れた筒森神社を建て、手厚く弔ったと伝えられています。
白山神社古墳の後円部から東側にやはり円墳があり、こちらが大友皇子の墓と伝わります。
左右に並ぶ灯籠の中央に四角い怪しい穴が開いていました。井戸という説もあるようですが円墳側に奥行きがありそうです。石室かも知れませんが真相は定かでありません。
「死んだはずの歴史上の人物が、実は死んだのは替え玉で、遠い地で生き延びていた。」と、言ったトンデモ伝承は全国各地で残っていますが、ご存知のように歴史書は勝者が都合のいいように書き残したもの。
しかし、この上総国の“大友皇子生存説”は小櫃川沿いの各神社にしっかり伝えられています。
この地域には大鳥居、鳥居戸、大鷲や白鳥山などの古代太陽信仰や日本武尊と関係の深い地名や鎌足や馬来田などの飛鳥時代の主要人物を思わせる地名が今でも残っている大変興味深い地域でもあり、いずれじっくりそれらの史跡を訪ね歩いてみたくなりました。
参考:大友皇子伝説
関連記事:【史跡】(伝)大友皇子之陵@神奈川県伊勢原市日向
皇位継承での兄弟・親子・親族間の争いの話しは多くあり、敗れた側の最後は痛ましい場合が多くみられます。その方達のお墓・古墳は、相当な気を出しているのも頷けます。見学する際は自分自身、強い気を持ってのぞまないとですね。参考になりました。
普段はそう言う霊感とかパワースポットとかに、あまり気にしない性格なのですが、直感的にビビッと来ることがあります。
やはりそういう時は、素直に心情に従う様にしています。