ふと思い出したのだけど、中学生ごろまで、
「国語は何を勉強すればいいのか、わからない」と思っていた。
漢字を覚える理由はわかる。
読める漢字が増えれば、読める文章が増える。
本を読むことは小さいころから好きだったので、漢字の勉強は苦痛ではなかった。
でも、国語の授業となると・・・、
好きな教科ではあるのに、なにをどう勉強したらいいのかよくわからなかった。
それに、文法や文学史にはあまり興味がなかったので、試験用に丸暗記をした。
ただ、「言葉」というものの重要性は、なんとなくわかっていた。
理由は、私の両親がものすごく理屈っぽかったおかげだ。
彼らを説得するには、言葉の力が必要だ。
記憶をさかのぼると、幼稚園に入る前ごろから、「言葉で説明しなさい」と言われていた。
泣いて駄々をこねても、母から冷たく言われる。
「お母さんは、あなたの気持がわかるわよ。
でも、他の人にとっては、あなたは他人なんだから、
ちゃんと言葉で説明しないと伝わるわけがないでしょう。
それで、そんなふうにすねたって、みっともないと思われるだけよ」と。
特に、幼稚園に入り、小さいながらも初めて社会というものに接したとき、
やさしそうな顔をしているのに、
決して「お母さん」のようにやさしいわけではない幼稚園の先生という存在に戸惑ったとき、
母のこの言葉は非常に重かった。
いつも、まず最初に、心にふわっと浮かんだ感情を言葉にする訓練をさせられた。
そして、大学で中国語を学び始めてからは、
私の母語能力が及ばないところに、ましてや外国語である中国語が届くわけはない、と思って、
日本語は大切だと思ったものの、相変わらず何をどうすればいいのかわからなかった。
やはり、自分の学校生活を振り返ってみても、
国語ほど、学習の成果がわかりづらい教科はないと思う。
授業での勉強よりも、実生活での言葉の訓練のほうが、はるかに重要なこともある。
そして、理系・文系とわけるけれども、私は、国語は数学にとても近いものだと思っている。
日本で国語や数学の学力低下が問題になるとき、
私は、哲学という教科がないのが大きな理由になっていると思っている。
哲学を学習しないから、言語の精緻な構造、数学的な論理、
そういったものを、その世界で遊ぶ楽しさを、
国語や数学という教科の切り口とは別の角度から気づくことができない。
ひとつの世界を他の角度からながめるトレーニングが不足する。
だから、国語がきらい、数学がきらい、で止まってしまう。
私も実際に数学がきらい、で止まった。
そしていま、それをとても後悔している。
なら、どんな哲学を学べばいいのか、というと、非常に難しいけれど、
東西の哲学を、その流れでもいいから学んだらどうだろうか。
戦前の教育へのアレルギーはわかる。
日教組が偏ったことを言い出しそうなこともわかる。
でも、それを超える勇気をもって、そろそろ検討だけでも始まらないだろうか。
そうすれば、「国語って何を勉強したらいいの?」
「そもそも学校で勉強する必要があるの? 日常で困っていないのに」という、
私もずっと学生時代にもっていた疑問に、もっと早く答えが見つかるかもしれない。
言葉は美しいから、言葉は大切だから、すべての学問の基礎となるから、
ましてや日本語は美しいから、なんていう理由は、
勉強することじたいが好きな人にはいい理由になるだろうけど、
そうではない人をつなぎ止めることはできないだろう。
「何を勉強したらいいのか?」という問いに対しては、
言葉の世界構造の前で立ち止まり、
言葉を通じて、
自分が思い描いていた世界とはまったく違う世界が広がる経験があるといいと思う。
よい物語を読むだけではなくて、やはり哲学というアプローチは有効だと思う。
「国語は何を勉強すればいいのか、わからない」と思っていた。
漢字を覚える理由はわかる。
読める漢字が増えれば、読める文章が増える。
本を読むことは小さいころから好きだったので、漢字の勉強は苦痛ではなかった。
でも、国語の授業となると・・・、
好きな教科ではあるのに、なにをどう勉強したらいいのかよくわからなかった。
それに、文法や文学史にはあまり興味がなかったので、試験用に丸暗記をした。
ただ、「言葉」というものの重要性は、なんとなくわかっていた。
理由は、私の両親がものすごく理屈っぽかったおかげだ。
彼らを説得するには、言葉の力が必要だ。
記憶をさかのぼると、幼稚園に入る前ごろから、「言葉で説明しなさい」と言われていた。
泣いて駄々をこねても、母から冷たく言われる。
「お母さんは、あなたの気持がわかるわよ。
でも、他の人にとっては、あなたは他人なんだから、
ちゃんと言葉で説明しないと伝わるわけがないでしょう。
それで、そんなふうにすねたって、みっともないと思われるだけよ」と。
特に、幼稚園に入り、小さいながらも初めて社会というものに接したとき、
やさしそうな顔をしているのに、
決して「お母さん」のようにやさしいわけではない幼稚園の先生という存在に戸惑ったとき、
母のこの言葉は非常に重かった。
いつも、まず最初に、心にふわっと浮かんだ感情を言葉にする訓練をさせられた。
そして、大学で中国語を学び始めてからは、
私の母語能力が及ばないところに、ましてや外国語である中国語が届くわけはない、と思って、
日本語は大切だと思ったものの、相変わらず何をどうすればいいのかわからなかった。
やはり、自分の学校生活を振り返ってみても、
国語ほど、学習の成果がわかりづらい教科はないと思う。
授業での勉強よりも、実生活での言葉の訓練のほうが、はるかに重要なこともある。
そして、理系・文系とわけるけれども、私は、国語は数学にとても近いものだと思っている。
日本で国語や数学の学力低下が問題になるとき、
私は、哲学という教科がないのが大きな理由になっていると思っている。
哲学を学習しないから、言語の精緻な構造、数学的な論理、
そういったものを、その世界で遊ぶ楽しさを、
国語や数学という教科の切り口とは別の角度から気づくことができない。
ひとつの世界を他の角度からながめるトレーニングが不足する。
だから、国語がきらい、数学がきらい、で止まってしまう。
私も実際に数学がきらい、で止まった。
そしていま、それをとても後悔している。
なら、どんな哲学を学べばいいのか、というと、非常に難しいけれど、
東西の哲学を、その流れでもいいから学んだらどうだろうか。
戦前の教育へのアレルギーはわかる。
日教組が偏ったことを言い出しそうなこともわかる。
でも、それを超える勇気をもって、そろそろ検討だけでも始まらないだろうか。
そうすれば、「国語って何を勉強したらいいの?」
「そもそも学校で勉強する必要があるの? 日常で困っていないのに」という、
私もずっと学生時代にもっていた疑問に、もっと早く答えが見つかるかもしれない。
言葉は美しいから、言葉は大切だから、すべての学問の基礎となるから、
ましてや日本語は美しいから、なんていう理由は、
勉強することじたいが好きな人にはいい理由になるだろうけど、
そうではない人をつなぎ止めることはできないだろう。
「何を勉強したらいいのか?」という問いに対しては、
言葉の世界構造の前で立ち止まり、
言葉を通じて、
自分が思い描いていた世界とはまったく違う世界が広がる経験があるといいと思う。
よい物語を読むだけではなくて、やはり哲学というアプローチは有効だと思う。