ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

母は娘の人生を支配する

2009-03-17 23:53:46 | Weblog
なぜ「母殺し」は難しいのか。斎藤環著、NHKブックス

精神科医が一般向けに著した「母娘問題」。
男性の視点で、「ここはピンと来ない」と率直に書いてくれているので、
とても好感が持てる文章だった。

内容は、我が身に置き換えて「ピンと来る」ところもあれば、
「自分の状況とは、かなり違うな」と思えるところもあった。
それは当然。

母親の言葉が「呪い」だと思うようになったのはつい最近。
思い返してみると、幼稚園の頃、父や義母との関係がおかしくなりつつあった当時、
母が私に繰り返し言うようになった言葉が「呪い」のはじまり。

「私の人生は辛く悲しいことばかりで、ぜんぜん幸せではなかったけど、
あなたを産んだことだけは、本当に喜び。私の娘として生まれて来てくれてありがとね。」

聞いた話ではあるけれど、私の母の前半生は、
そりゃ小説では?というほど、不幸の連続だったようだ。
母は自分に不幸が訪れるのを、ある意味当然と思って諦めているフシもあった。

そして、上に書いたような感謝の言葉を聞くたびに、私は、
もし、私に父方の血が流れてなくて母の血だけだったら、それで私がよい子だったら、
母はそのとき本当に喜んでくれるのではないか、と思ったものだった。
幼稚園の頃、ほぼ毎晩そんなことを考えていた記憶がある。

そう。私の願望は、私の人生を、母の人生として捧げ、
母が自分のものとして生きなおすことだった。
そんなバカな話はないんだけど、これが意識ではありえた。
ここまでくると「呪い」ではなく「憑衣」だな。

でも、そんな「呪い」も近頃は少しずつ客観視できるようになってきたので、
いろいろな母との会話を思い出しては、
「それはもし思っていたとしても、言ってはいけない一言だよ。お母さん」と心の中で思って、
ようやく母とのあいだに適当な距離感というものを構築し始めた。

この距離感、結局、母が生きている間は、育むことが出来なかったなあ。

法華経

2009-03-16 22:39:16 | Weblog
現代語訳大乗仏典、中村元著、東京書籍刊。

中村先生の書く仏教の本が面白いのは、サンスクリット語の原典にさかのぼって、
改めて漢訳仏典との対比をしたり、西洋哲学との比較があるところだ。

インドで興った仏教が、はるかシルクロードをこえて、日本へいたった。

まず、仏陀という覚者がいた。
仏陀や弟子たちの言葉が、しだいに経典にまとめた。
多くの人が、不毛の砂漠をこえて、やがて中国へ経典を伝えた。
数奇な運命を生きたクチャの鳩摩羅汁をはじめ、
人生をかけてサンスクリット語から漢語訳した人たちがいた。
日本は遣唐使を派遣して、荒れ狂う海を渡り日本に経典を伝えた。
そして、20世紀の大学者が、原典であるサンスクリット語に回帰し、
西洋哲学との新たな対話の道をひらいた。

こんな哲学があるなんて、それだけで感動。
その仏教の経典の中でも、特に重要視されている「法華経」。
中村先生の文章は本当に素人にも馴染みやすく、
安心して、そして楽しみながら仏教のことばに触れることができる。

恥ずかしながら、「観音経」が「法華経」の最後の部分だと、
この本を読んで初めて知った。

鳩摩羅汁は、私がもっとも尊敬する翻訳者のひとり。
漢字が並んでいる姿を見るだけでも、美しいと思う。
そう。私が中国語を学ぶ最初のきっかけをくれたのは、
鳩摩羅汁の訳した経典だったと思う。

仏教は、妄信することをいさめている。
仏陀の言葉ですら、その意味をよくよく自分の頭で考えるように、と。
なぜなら仏陀は、聴く人の状態によって様々な表現を使っているから、
それが「いまの私」に合うとは限らない。

「法華経」が私の中で熟すには、この人生だけでは足りないだろう。
でも、この素晴らしいことばがある限り、それを熟考する時間を生きるのだから、
輪廻転生もまたよいではないか。

アルバム

2009-03-15 00:15:21 | Weblog
久しぶりに自分の小さい頃の写真アルバムを見た。

いつ見ても、頭の毛の薄い子どもだった私のそばには、
すでに私が年齢を追い越してしまった父や母、叔父や叔母の姿があった。
一様に、みな美形だと思った。若かったから。
でも、あまり幸せそうな顔をしていないような気がして、少しさびしかった。

アルバムの自分を見て、改めて感じたのは、
私は昔からむら気で、その時の心境がストレートに顔に出るということ。
写真を撮るからといって、みんなとあわせて無理に笑ったりしない。
機嫌が悪かったら、うつむき気味で無表情。でも、そっぽを向きはしない。
あくまでもカメラ目線。
自意識の強さは、幼い頃からだったのだと思う。

ただし、概して小学校低学年くらいまでは幸せそうな顔をしている。
むら気が表面に出てくるようになったのはそれ以降。
一緒にアルバムを見た友人が、
いまは、小学校低学年の頃の雰囲気に戻って来たのではないか、
と言っていた。
自分でも、ぐるんとまわって、戻って来たような気がしているから、
たぶんそうなんだと思う。

あとは、ここからどう抜け出していくか。
失った過去と、もしかしたらあり得たかもしれない理想の現在や未来を
いつまでもいつまでも、ただ追いかけていてもしょうがない。
そろそろ、本格的に抜け出さなくては。

Sacred Tibetan Chant

2009-03-13 23:49:53 | Weblog
CD、 Monks of Sherab Ling Monastery

チベット仏教の声明。
つまりチベット仏教のお坊さんがお経を唱えている声を収録したCD。

本気でお経を唱えている声は、本当に気持ちがいいと思う。
週に1~2回、寝る前に部屋を暗くしてこのCDを聴きながら、
呼吸を整え、座るようにしている。

当然、チベット語だかサンスクリット語だか、外国の言葉なので、
何を唱えているのか、意味はさっぱりわからないけれど、
聴いているうちに、目の前に何かのイメージが浮かんで来る。
それは、具体的な情景のときもあれば、すごく抽象的な何かのときもある。
きっと自分の心の投影なんだろうと思う。

以前は、調子が悪い時だけ座っていたのだけど、
2年くらい前からは、調子がいいときも座るようにしている。
そうしたら、少しずつだけど自分の心が見えて来た。

いい時も悪い時も、私の心をいちばん牛耳っているのは、執着による嫉妬。
「こうありたかった」という願いがかなえられないとき、
「こうあり得た」という現在と未来も同時に失っている。
そのことによる嫉妬は根深く、一時的に解消した気分になっても、
あるときふと、よみがえって来る。

私は超えられるのだろうか。超えたいなあ。

自己の探求

2009-03-12 23:22:31 | Weblog
中村元著、青土社刊。

人里離れたところではなく、社会の実生活の中にあって、
いかに生きるかを考え実践することが、現代の「公案」。
そして、「運命」は「宿命」ではなく、
現在あることじたいが、すでにたくさんの偶然の結果なのだから、
これから先にも、無数の偶然がある。
つまり、あらかじめ決められているものではないから、
「自由意志」によって、「行い」によって、いくらでも変わっていく。

中村先生は、仏教のもつよいところを、
現代の等身大の姿として、いつもわかりやすく教えてくれる。

この本は、西洋哲学との比較もあったので、
私のように西洋も東洋も中途半端な人間には、
知識不足のために難しく感じるところもあったけれど、
落ち着いた文章だったので、とてもゆったりした気持ちになった。

また、私は昔から、阿弥陀仏の絵を見ると
キリスト教を思い出すことが多かったのだけど、
その共通する「救済」という側面を、わかりやすく整理してくれていた。

1ヶ月に1回はやってくる仏教熱。
このところ精神的にかなりネガティブなので、そろそろ何か経典を読んでみるとするか。
以前読んだ「華厳経」はよかった。
もっと体系的に学べばいいのだろうけど、どうも乱読。
もとより仏教哲学を考え抜くほど、頭のメモリもCPUもないし、
性格も興味も、あっちこっちに飛ぶ方だから、このままでしょうがないか。

読書は楽しいことが一番。と、自己弁護。

すずらん

2009-03-11 22:34:26 | Weblog
今日の帰り、ふと寄った新宿のお花屋さんで、すずらんの鉢植えを買った。

私は白い花が好きだということを最近自覚した。
カサブランカ、トルコキキョウ、すずらん、チューリップ(白)、白梅。

すずらんを初めて見たのは、この家に引っ越して来たときだから、幼稚園に入る前。
団地の通称「お花のおじさん」が手入れをしていた花壇に、
大きな葉に包まれるように、とても小さな白い花がひっそりと咲いていた。
出会えたことが、とてもラッキーなことに思えた。

大人になってから初めて買った香水は、イギリス製の「Lily of the valley(すずらん)」だった。
それ以来、ずっとお気に入り。

せっかく、本物のすずらんを買ったのに、今日は、鼻の調子が悪くて、香りがわからない。
でも、なんとなく脳が補完しているらしく、ふとしたときに、
すずらんの香りがしているような気がするから不思議。
こういった錯覚も含めて、すずらんがくれる余裕、というものなのだろう。

先日、我が家へやって来たヘデラは、すくすくと葉っぱをのばしている。
ツタの植物は強くていいけれども、あまりに長く延びたら、いったいどうしたらいいのだろう。
家の前に移植すべきだろうか。

そういえば、家の近くにあったクチナシの木は、いつの間にかなくなってしまった。
紫式部も山吹も、いつのまにか駐車場に変わっていた。
そして最近一番ショックだったのは、友人の家が所有していた広大な梅林がなくなったこと。

家の前の川はきれいになって、サギがやってくるようになったけど、樹木は減ったなあ。

ムーン・パレス

2009-03-10 23:41:54 | Weblog
ポール・オースター著、柴田元幸訳、新潮文庫

この物語も孤独に満ちてた。
主人公は、たくさんの親しい人の死を経験する。
そして、その度に自分のルーツを少しずつ知ることになる。

他人の死によって、はじめて気づく自分にとって一番大切なもの。
無力感。
そして、死の代償とばかりに手に入る幾ばくかのお金・・・。
どれもこれも、自分の孤独を深める手助けをしてくれるものばかり。

ポール・オースターの本は好きだけど、
これから誰かに会おうとしているときに読むと、
自分の心の暗部を覗き込み、暗くなってしまうのであまりよくない。

そうは思っても、ついついやめることができなくて、一気に読みたくなってしまう。
そして、その後、気分を盛り上げるのにとても苦労する。
今日は、「春みたいな陽気ですね~」と営業トークが出て来たので、
自分に拍手喝采な気分だった。

最近、よく思うのだけど、世間は意外と寛容だ。
「こんなことでもゆるされるんだ」「こんなキャラでもゆるされるんだ」と思うことが増えた。
わりとワガママでも、少しぐらい言動に特徴があっても、周りの人は受け止めていると思う。
それなのに、片方では精神疾患の人が増えているという。

ポール・オースターの本を読んでいると、いろいろ変わった人が出て来る。
そのほとんどが、肥大した孤独に苦しんでいる、普通程度に自意識が過剰な人たちだ。

周囲が受け入れる・受け入れないとは関係なく、
その本人の自意識がふくらみすぎている、ということなのかな。
少なくても、私自身を振り返ってみると「自意識過剰」そんな気がするな。

アロマの加湿器

2009-03-09 21:27:59 | Weblog
誰の結婚式の引き出物カタログでもらったのだったか・・・、
それとも、クレジットカードのポイントで引き換えたのだったか・・・、
ここ数年、冬になると大活躍しているのが、アロマポット付きの加湿器だ。

いろんな人から「湿度は大切だよ~」と言われても、
根がケチな私としては、積極的に自分から加湿器を買う気はしなかった。

でも、友人のアドバイスはきくべきだ。
家の中をちゃんと加湿するようになってから、冬に風邪をひくことがなくなった。
それに、前の晩に仕掛けたアロマの香りが、
一日の仕事から帰宅したときに、家のなかでほんのりと香っている。
とてもいい気分だ。

不思議なもので、アロマの香りがしていると、
お酒を飲んだり、濃い味の食べ物を食べたりする気が失せる。
だから、ダイエットになっていると思いたいけど、
ロイズのチョコレートを食べてしまうので、違う意味でまったくダイエットにはなっていない。

でも、脳内のどこかがリラックスしているような気はする。
この加湿器が壊れたら、きっと次はちゃんと自費で加湿器を買うだろう。

ロイズのチョコレートは、アロマ以上に「麻薬」だ。
毎月いろいろな限定商品はあるし、チョコレートとして考えると高いけど、
思わずネットで購入してしまう。

先日、冷蔵庫の中いっぱいにロイズチョコレートが詰まっているところを友人に見られ、
「なにこれ~」と大爆笑された。
確かに、ちょっと買いすぎた。
ホワイトデー限定商品もおいしい。
ポテトチップチョコレート「フロマージュブラン」、
ホームページでその写真を見てしまった以上、がまんできるわけがない。

ラフマニノフ 「鐘」「春」「3つのロシアの歌」「6つの合唱曲」

2009-03-07 12:03:20 | Weblog
CD  チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、プラハ・フィルハーモニー合唱団
ウラディーミル・アシュケナージ指揮、ピアノ

プラハの美しいホールで聞いたら、さぞかし感動するのだろうなあ・・・。
ラフマニノフは、これまでピアノ曲を中心に聞いていたのだけど、
このところ、交響曲や声楽も聴くようになった。

音楽は受動的なものだから、
「なんだこれは!」とノックアウトをうけ、以降ファンになることもあるけど、
一方、文化や宗教、歴史といったある程度のバックグラウンドが自分の中に蓄積されて、
はじめて心にとどまるものもある。

正直なところ、高校生時代にラフマニノフの交響曲や声楽を聴いたけど、
あまりいいとは思えなかった。
でも、ここのところ、ようやく準備が整って来たような気がする。

音にはいろいろな楽しみ方があるけれど、
私がラフマニノフのピアノを好きな理由は、自分の内面への距離感やひろがりに共感するから。
声楽は、人間の内面のおもいを、声という楽器によって外に出すものだから、
ピアノ曲とは違った外へのひろがりのようなものを感じる。
これまでとはひと味違うラフマニノフとの付き合いが始まりそうだ。

ダライ・ラマ、イエスを語る

2009-03-06 22:56:21 | Weblog
ダライ・ラマ、中沢新一訳、角川21世紀叢書

人の可能性を信じさせてくれるダライ・ラマという人物は、
その存在自体に「ありがとう」と言いたい気持ちになる。

1994年にロンドンで行われたセミナーの内容を文字に起こしたこの本は、
多少、ベネディクト会士の前フリが長くて、「いつ本題に入るんだよ!」という
気持ちになるものの、ダライ・ラマによる「福音書」の解釈がとても面白かった。
でも、セミナーの中心である仏教徒とキリスト教徒が一緒に行う瞑想は、
文字に起こせないことなので、収録されていない。
でも、そこに何か、濃密で豊かな時間があったことは伝わって来る。

ダライ・ラマの本を読んでいると、いつも
「学ぶこと」と「深く考えること」の大切さを教えられる。
知識と経験に裏付けられた智慧は、宗教の垣根をこえて、
柔軟に、宗教が訴えたいその本質を語る。

特に、キリスト教の「父」「子」「聖霊」を
仏教の「法身」「報身」「応身」と比較したくだりには、
「なるほどな~」と思わされた。
妄信して、無理にでも守ろうとするのではなく、可能な限り柔軟に、様々なことを考える。
これが、ダライ・ラマという人の魅力だと思うし、仏教の優れているところだと思う。

おそらく育った環境の影響だろうと思うけど、
やはり、キリスト教よりも仏教のほうが、すべてにおいてしっくりくる。
またいつか、チベットに行きたいなあ。