ブリットの休日

大好きな映画や小説の感想や日々の他愛ない話と、
聴神経腫瘍と診断された私の治療記録。

池井田潤『下町ロケット』あらすじと感想

2015年03月01日 | 本(小説)

 第145回の直木賞を受賞した、池井田潤の『下町ロケット』を読む。

読んでいる間ずっと「半沢直樹」に似てるなあなんて読んでいたら、まさしく同じ作家さんの作品だった。ああ、恥ずかしい・・・。

 ロケットに搭載する大型水素エンジンの開発に心血を注いできた佃だったが、願いもむなしくロケット打ち上げは失敗に終わる。

それから7年が経過した今、宇宙科学開発機構の研究員をロケット打ち上げ失敗の責を負い辞職した佃は、亡くなった父親の佃製作所の後を継いでた。

代が変わり会社は飛躍的な成長を遂げたが、ある日大口の取引先である京浜マシナリーから、突然取引を一方的に解消される・・・。

 題名からロケット打ち上げの話かと勝手に思っていたが(結局はそこへいくんだが)、むしろ読みどころは技術だけは世界トップクラスの中小企業の会社が、大企業の圧力により倒産の危機に追いやられるという話で、読む前の予想とはまったく違った内容だった。

いわゆる会社内のドロドロした上下関係とか、企業間の弱肉強食の駆け引きの話なのだ。

突然会社存続の危機に見舞われた佃が社長を務める佃製作所が、どうやってこのピンチに立ち向かっていくのかというところが、とにかく読みごたえがあり、読みだしたらもはやノンストップで読み続けるしかないという面白さだ。

最初は足並みがそろわなかった社員が次第に協力し、一丸となって夢と情熱で難関を紙一重で次々と乗り切っていくスリルは圧巻である。

こんなに面白い本があったんだなあ。

 一見中小企業のプライドと大企業のプライドが激しくぶつかり合うという構図に見えるんだけど、大企業側が振りかざす力はプライドでもなんでもなくただの驕りであり、法にに触れなければ何をやってもいいという卑劣な力に、読者も何度も煮え湯を飲まされた気分にさせられるんだが、飲まされれば飲まされるほど、最後に訪れるだろカタルシスに、気分はフィナーレにむけて否が応にも盛り上がる。

もうワクワクが止まらないのだ。

そしてついにやってくるその瞬間に、佃製作所の社員と一体となって歓喜し、涙するのだ。

まあ窮地に陥るたびに、都合よくどこかから救いの手が差し伸べられという展開が都合よすぎるというところはあるが、そんなものを軽くこえる感動に比べればどうってことはない。

読後は最高に面白い本を読めたという満足感を得られるが、同時に純粋に働くということの意味をも考えさせられる。

お金のためだけに働くことの虚しさが心に鋭く突きつけられる。

そして自らの仕事に取り組む姿勢を深く考えさせられ、そこから次第に湧き上がってくる熱に自ら驚いてしまうだろう。

今はこの小説が文庫化されるのをただ待っていたことが悔しい・・・(^^;)


辻村深月『ツナグ』あらすじと感想

2015年02月11日 | 本(小説)

 結局最後まで読み終えてなお、さっぱり分からなかった「相対性理論を楽しむ本」からやっと解放され、次はちょっと泣ける作品を読もうと思って選んだ本が、辻村深月の『ツナグ』。

読者のレビューを読むとほぼ満点に近い評価ばかりで、さらに泣けるという点においても期待は高鳴るばかり。

さあ、泣かせておくれ!

 指定された駅の3番出口で待っていたOLの平瀬愛美は、声を掛けてきた少年の姿に唖然としてしまう。

苦労してやっと連絡が取れた待ち人は、意外にも高校生のようだった。とまどう平瀬に構わず少年ははっきりと語りかける。「死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口。僕が使者(ツナグ)です。」

 依頼者から既に亡くなった人に会わせて欲しいという依頼を受け、その依頼を持ってさらに相手となる死者と交渉し、その死者が会うことの了解が得られれば、満月の一夜限り、ホテルの一室で再会させるという段取りを整えるのが使者。

急死したそのアイドルに会いたいというOLや、結婚を申し込んだ女性が失踪してしまった婚約者、親友を事故で失ってしまった女子高生などの様々な依頼者の物語が、それぞれ短編的につづられていていく。

会えるはずもない人に会える機会を得た人たちの、切実な思いを意外なほどたんたんと映し出していく描写は、過剰ではない程よい情感に溢れ、しっとりと心に沁みこんでいく。さらに再会した後の依頼者の描写も、こちらの期待をあっさりとかわし、静かに終わってしまうが、ただそれが余計にその後の彼らの姿を想像させて、心地よい余韻を残してくれる。

 ただこの物語を読んでいる間、ずっと心に引っ掛かるものがあり、素直に楽しめない自分がいた。

この物語の終わりごろに、使者の力について主人公も考えることなんだけど、この力は人が使っていいものだろうかという疑問である。

死というものを考えた時、再会できるという機会を与えられた特定な人たちと、それ以外のほぼすべての人達との間で、これほど不条理なことはなく、自然の道理も無視したこの背信的な行いが、読んでいる間ずっと頭の隅で否定的な感情が潜んでいて、どの物語にも違和感があり、そこには他の読者のような涙はなく、言いようのない気まずさだけが残ってしまった。

失われたものはどうにもならないからこそ、命とは、生と死とは尊いものであり誰も犯すことのできない神聖なものだという想いのなかで、死者がこの世に残してきたものを、誰かに伝えたいと現れる幽霊ならまだ許せるとして、生者のエゴにより死者を思い通りにするなんて・・・。

なんだか私は考え過ぎなのだろうか。素直に物語に没頭できなくて、なんだか悲しくなる。

 それから読後に多分大抵の人が考えてしまうことなんだけど、自分だったら誰に会いたいだろうかって想い。

もし本当に会えなくなった人に会えるとしたら、いったい誰と会い、どんな話をしたいだろうか。私も同じように考えたてみたんだけど、もう一度会えるという喜びより、たった一夜限りでまた別れなければいけないということは、最初の悲しみを繰り返しまた味わってしまうんじゃないかということが、頭をよぎってしまった。

我ながらほんとにネガティブである。

やっぱり私は考え過ぎなのだろうか。そうならないためにも、生きている間に大切な人たちに、日々素直に想いを伝えていきたいね。

恥かしがらずに(^^)


三浦しをん『風が強く吹いている』あらすじと感想

2014年12月07日 | 本(小説)

 箱根駅伝を目指す若者たちを描いた、三浦しをんの『風が強く吹いている』を読む。

2007年の本屋大賞第3位となっているが、直木賞にはノミネートすらされていない。

つくづく直木賞はあてにならないと、今回は痛烈に感じた。

 寛政大学4年の清瀬灰二は、行きつけの銭湯「鶴の湯」へ行った帰り夜道で、コンビニの店員に追われて目の前を走り去っていく若い男を見てつぶやく。

「あいつだ。俺がずっと探していたのは、あいつなんだ」

 年明けで人に会うと、「今年の箱根駅伝は・・・」と熱く語る人にたまに会う。

私はというと、正月に二日間に渡ってずっと実況中継が放送され続けているこの箱根駅伝を、チャンネルを変える度にチラッと目に入る映像だけで、ただ「ああ、まだやってるんだ」というぐらいの印象しかなかった。

申し訳ないが正直ほとんど興味がなくて、見ていなかった。すぐに本屋大賞で見つけた本作も、その箱根駅伝の話っていうこともあって、たくさんの絶賛のレビューを目にしていたが、あまり読む気になれなかったのだが、「神去なあなあ日常」を読んで、この作家さんの他の作品を読みたくなり、軽い気持ちで読み始めた。

 偶然出会った走(かける)の、美しいフォームで駆け抜けた姿に魅了された清瀬は、住む場所もまだ決まっていない走を、自分が住む竹青荘というぼろアパートになかば強引に誘い込むんだけど、物語はここからこの竹青荘に住む住人10人で、箱根駅伝を目指していくという展開をみせる。

ハイジと走以外ほとんど未経験の住人達が、1年もたたずに箱根に出れるわけはないという、かなり無理のある設定に、まあ小説だからいいか、なんて読み進めていったが、途中でそんなことはどうでもよくなってしまった。

それはこの物語が、できるかできないかを描いているものではないからということが、すぐに分かったから。

ただひたむきに、それぞれが自分の心に語りかけていく、走ることに対する気持ちや、仲間に対する想いを胸に、力強く走りだして行く姿、そして限界を超えてなおその先にある何かを求めて、懸命に走り続ける若者たちの姿は、ただそれだけで素晴らしく、一つのことに打ち込む人間の輝きは、ただそれだけで感動的だ。

そして集った個性豊かな10人の住人たち総てが愛おしくなり、気が付けば手に汗握って応援してる自分がいる。

読み始めてすぐに、ラストシーンをなんとなく予感させて、なお最後までずっと読者の心を引きずり回して疾走していく作家の才筆に、ただただ感服する。

クライマックスでは涙で文字が見えなくなるという嬉し恥ずかしの初体験も、また楽しかった。

ただ一点、この住人たちのエピソードが、後半の走っている最中にいきなり語られるところに、その唐突感と若干の違和感を感じた。

まあ読み終わった今となっては、もう一度読むときに新たな発見があるんじゃないかという、期待感の方が大きいけどね。

そしてこの小説の一番素晴らしいところは、まるで自分が箱根を走っているような、目に映る景色はもちろん、たかまる高揚感と呼吸困難を起こしそうなほどの息苦しさを感じさせる、リアルな走るということの描写だ。

あとがきにも書いてあったが、この作品を書くにあたって、大学への取材を積み重ね、実際にランナーが受ける風を感じるために、自転車をこいだり、自動車の窓から顔を出してみたりと、綿密な準備の上に完成された作品だということがわかり、その情景が浮かんできてなんだか楽しくなった。

こんなに爽やかで清々しい読後感を与えてくれたこの作品に出会えたことがなによりうれしい。

ふとこれだけ素晴らしい小説を、なんでまだ映画化してないんだろうかと思っていたら、まさかの既に映画化されていたことを、さっき調べて発見しビックリした。

へえ~、こういうキャスティングだったんだ。

写真だけだけど、なんかそれぞれがらしくて嬉しくなってくる。

ただムサだけは、イメージ違うかなあ~(^^)機会があったらぜひ見てみたいね。

次も三浦しをんさんの作品を読もうかなあ(^^)


浅田次郎『鉄道員』あらすじと感想

2014年11月16日 | 本(小説)

 第117回の直木賞を受賞した、浅田次郎の大ベストセラー『鉄道員(ぽっぽや)』を読む。

それまで短編集というのも知らなかったけど、まさかこんな話だとは驚いた。

これはまさかのファンタジーである。

“ぽっぽや”といえば、実際に映画は見てないんだけど、予告編などで雪が降り積もるホームに立つ、健さんのイメージが焼き付いているが、読後のイメージとかなり違っている。

健さんが出てる作品と思って読むと、いい意味で裏切られるだろう。

それにまさか彼がファンタジー作品に出てるとは思ってもいなかったので、今猛烈に映画も見てみたい。

 日に3本しか走らない北海道幌舞線の終着駅になる幌舞駅で、長年駅長を務めた乙松は定年を迎えようとしていた。国鉄時代を共に過ごし、今は美寄中央駅の駅長となった仙次は、一昨年妻を亡くした乙松と一緒に新年を迎えるために、最終便で幌舞駅へとやってきていた。

乙松は仙次の定年後の身の振り方を持ちかけるが、頑なに遠慮するばかり。

やがて二人は昔話に酒を酌み交わし、いつしか眠ってしまうが、真夜中仙次は人の気配を感じ目を覚ます。

「駅長さん」という声にひかれて起き上がると、出札口に赤いマフラーを巻いた女の子が一人立っていた・・・。

 短編8作品からなる本書、テーマ性といい、過去にさかのぼって想いを馳せるところといい、先に読んだ「降霊会の夜」とほとんど同じ感じだったが、より読みやすくそして遥かに情に溢れ、短編ということでより洗練された強烈な印象を残す。

読者それぞれの、過去に抱えるデリケートな部分が見透かされるように、泣きのツボを的確に突いてくるシチュエーションを作り出す上手さ。

そしてそれぞれの主人公に訪れる奇跡は、泣きたくなるほどの切なさと温もりを感じさせ、何度も読み返してしまう中毒性を生む。

 あとがきで北上次郎氏が、“本書はリトマス試験紙のような作品集だ。”

といっている。

8作品どれも面白いんだけど、特に「鉄道員」「ラブ・レター」「角筈にて」「うらぼんえ」はやはり印象的で、この4作品について、それぞれ支持する読者がいて、女性は「ラブ・レター」派で、男性は「鉄道員」派と、それぞれの派があり、日々激論が繰り広げられているらしい(笑)

そんな中、私は断然「うらぼんえ」だなあ。

奇跡も作りすぎの所がなく、主人公の窮地にさっそうと現れる痛快さと、希望という光が差し当てられるラストも素敵だ。

結構切ないまんまで終わっちゃうパターンが多いんだよねえ。

よし、次は「椿山課長の七日間」いっちゃおうかなあ。

ただこの作品も既に映画化されていて、観てはないけど主人公が西田敏行ということだけ知ってるので、読んでる時に彼にイメージが固定されなけりゃあいいけど、心配だ・・・。


三浦しをん『神去なあなあ日常』あらすじと感想

2014年11月07日 | 本(小説)

 2010年の第7回本屋大賞第4位にランキングされた、三浦しをんの『神去なあなあ日常』を読む。

今回も私の中では未だにはずれのない本屋大賞にランキングされた作品を選んだ。

知らなかったんだけど、文庫本の表紙に、何やら伊藤英明やら長澤まさみの写真が載ってて、ここで初めて既に映画化されていたことを知る。

キャスティングが誰なのか、読み進めていく間になんとなくわかっていくのがちょっと楽しかった。

 高校を出てからの進路も特に決まってなく、だらだらと日々を送っていた平野勇気だったが、卒業当日に突然担任から就職を決めてやったぞと告げられる。

家に帰ると母親は既に荷造りも済ませており、訳も分からないうちに送り出され、横浜から新幹線で名古屋まで、そして近鉄に乗り換え、さらに車両が1両しかないローカル線の終着駅へ。

そこで白い軽トラックに乗ってやってきた、金髪でがたいのでかい無愛想な男にそのまま乗せられ、山の奥へと続く曲りくねった細い道を約1時間走った後、集会所のような建物の前に下ろされるが・・・。

 最初の数ページを読んだだけで、絶対に面白いと確信させてくれるほど、主人公がいきなりとんでもない田舎の山奥に放り込まれ、林業をやることになるというシチュエーションがいい。

読み終わった後にすぐにまた最初から読み始めてしまった。

読後の爽やかな心地よさは言うまでもなく、神去に住まう住人たちの、自然に寄り添いながらも逞しく、そして生き生きと過ごすスローライフな日々は、人として本来の姿であるような憧れすらも感じさせる程の魅力に溢れている。

そして主人公の勇気が、都会の垢をこそぎ落とすように力強く成長する姿も微笑ましいが、やはり影の主人公でもある、すべてを包み込む、神秘的なオーラをまとったような大いなる山々の荘厳さが素晴らしい。

深い森の中に静かに息ずく命や、湿った空気、木々の隙間から差し込む淡い光などが、鮮やかにイメージされ、まるで自分も同じ空間を共有しているような錯覚すら感じてしまう。

素敵な癒しがそこにある。なあなあである。

 映画は見てないが、キャラクターのイメージが映画で固定されなくてつくづくよかったと、読み終わった後に感じた。

それぐらい登場人物がどの人も魅力的で、愛おしかった。

とくに荒っぽいが気が優しくて力持ち、愛すべきキャラクターのヨキは、ピタリとはまる俳優が思い浮かばなかった。

多分映画では伊藤英明が演じてるんだろうが、私はどういう訳かずっと赤井秀和がイメージされていた。

伊藤英明だとちょっと垢抜けすぎである。

それと次に読む本を探していると、なんと続編が既に単行本として出版されているのを発見した。

『神去なあなあ夜話』は本作から2年後の様子が描かれているみたいで、神去のみんなにまた会えるっていうことがただただ嬉しいね。


浅田次郎『降霊会の夜』あらすじと感想

2014年11月04日 | 本(小説)

 最初に読んだ浅田次郎作品が、自伝エッセイの「勇気凛凛ルリの色」だったせいもあり、私の中でこの作家は堅気ではないというレッテルを張ってしまった。

しばらく読む気が失せてしまったんだけど、『降霊会の夜』というオカルトチックなタイトルに惹かれてとりあえず読んでみることに。

なぜ「地下鉄に乗って」や「鉄道員」をまず読まないんだってとこだけど、なんかこの作家に泣かされたくないという気持ちが働いたんだろうね、本作を最初に読むことにした。

“-何を今さら。忘れていたくせに。”

別荘地の森の中にたたずむ屋敷に住む私は、しばしば見知らぬ女に過去をなじられる夢を見る。

ある秋の夕暮れ時、籐椅子に座って降り出した雨にかすむ広い庭を眺めていると、大木の根方に座り込む一人の女性が目に入る。

時折光る稲妻に、動けなくなったようで、私は手を引いて家の中に招き入れた。

県道を隔てた西の森に住んでいるという梓と名乗る女性は、ご恩返しをしたいということで奇妙な提案する。それは生きていても死んでいても構わないので、会いたい人に会わせてくれるというものだった・・・。

 まず読み終えて感じたことは、この作家の尋常じゃない人生の経験値と観察眼の鋭さだ。

梓という謎の女性に連れられて行った屋敷の中で行われる降霊会。

少年時代につらい別れをした友人のキヨを念じたことから始まる、霊との交信により、封印していた過去の記憶が蘇るんだけど、呼び出された霊たちが告白する夜話が、恐ろしいほどの生々しさで語られる。

まるで実在の人物の出来事のように掘り下げられる心情は、読む者の心の痛みを伴わせる。

さらに犯罪者の告白に至っては、その一方的で胸が悪くなるほどの不条理な論理は、もはや犯罪者の心理そのものだっただろう。

それから最初の霊が現れた時点で、ある映画を思い出した。

ニコール・キッドマンの「アザーズ」だ。

最後は絶対あのどんでん返しだろうなあと思ったが、見事に外れてしまった。

でもああいう展開でも面白かったんじゃないかなあと、今でも思っているが。

冒頭で主人公に“この齢まで生きて、悔悟のないはずはない”と語らせている。

この一言で、読み手は自身の思い出したくもない記憶を辿らさられることになり、無理やり穿り返される暗い記憶は、物語と一体になって切なさを募らせる。

時代の波にのまれ、偽りの幸福をつかのま享受し、自身も気が付かないうちに本当の自分を見失ってしまっている。

すべてを時代のせいにしてはいけないが、その時代に生きる者は、それを大抵は気が付かない。

人は幸福に生きるために、忘れるという技術を身に付ける。

ただ、よりよく生きるために、過去の罪を悔い改めることも時には必要なのかも。

なあんて、この作品のテーマがこんな教会の懺悔室に無理やり放り込まれるようなことだったら、この作家、そうとう鼻持ちならない。

巻末の解説で、吉田伸子という方も、

“浅田さんが書いてきた物語には、いつもどこかに、善く生きることへの想いがある”

なんて書かれているが、本当にそうだろうか。

最初に「勇気凛凛ルリの色」を読んでしまった私には、そんなきれいごとを言えるような人物とは到底思えない。

返す返す最初に「勇気凛凛ルリの色」を読むんじゃなかったと、この作家を色眼鏡てみてしまうことを後悔しているんだけど、この物語のテーマは“許し”でしょうね。

そしてもう戻ることないその瞬間に感じたことを、素直に言葉にする勇気なんじゃないだろうか。

それはたった一言の「さよなら」という言葉かもしれない。

そんなかけがえのない大切な瞬間を、大事にしてほしいというメッセージも込められているんじゃないだろうか。

ただこの物語、主人公の少年時代と青年時代の2部構成のようになってるんだけど、この二つのストーリーがあまり絡み合ってなくて、違和感を残す。

ちょっと消化不良になってしまったこともあり、俄然浅田次郎の真骨頂が知りたくなったので、次こそは代表作の「鉄道員」を読んでみることにしよう。


森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』あらすじと感想

2014年10月05日 | 本(小説)

「夜は短し歩けよ乙女」や「有頂天家族」など、一人称で独特の語り口を駆使して、面白くも不思議な世界を描き出す森見登美彦の『ペンギン・ハイウェイ』を読む。

本作は2010年の第31回日本SF大賞を受賞している。

“日本で一番ノートを書く小学4年生”を自負するぼくは、ある朝不思議な出来事に遭遇する。

おしゃべりな妹と学校へ向かっている途中、空地の真ん中に突然たくさんのペンギンが現れたのだ。

あのペンギンたちはどこからやってきたのか。

ぼくはさっそくノートに記録し、ペンギンの研究を始めることに。

次々と起こる怪現象を、同級生のウチダ君とハマモトさんの三人で協力し、謎を究明していくが・・・。

小学4年生にして、既に手が回らないほどの研究を抱えているという、秀才を自認するあおやま君の語りで展開していくストーリー。

時に自身の知識をひけらかし、常に冷静に行動しようとする、鼻持ちならない小学生が主人公という、「20世紀少年」でいうところのケンヂではなく、オッチョを主人公に据えているところは、やはりこの作家にいつも感じるところだけど、主人公に自身を投影してるんだろうねえ。

たぶんこんな小学生だったと思うなあ(勝手に)。

同じ研究好きのちょっと気の弱いウチダ君と、あおやま君に負けないくらいの秀才ぶりを見せる活発な女の子ハマモトさんに、いじめっ子のガキ大将のスズキ君と、よくあるおなじみの学園物の設定に新鮮味はないが、SF映画の傑作「惑星ソラリス」をモデルとして書かれたこの作品は、思いがけず迷い込んだトワイライトゾーンへのワクワクと、魅惑的なイマジネーションを掻き立てる。

そこへあおやま君が憧れを抱くお姉さんを加えることで、初恋の甘酸っぱいテイストがちりばめられる。

このお姉さんに向けられるあおやま君のほのかな恋ごころが、おっぱいを含め執拗に語られ、このくどさが森見節だよなあ、なんてファンを気取ってしまうが、とにかく序盤からなかなか進展がなく、全体的にかなりまったりした感が漂う。

でもこれも作家の計算であり、それまでがすべてフリであったように、ラストへ向けて事態は怒涛の急展開を見せると、読後に訪れる静かなる哀愁に包まれた温もりは、しばらく噛みしめていたくなるほどの素晴らしい余韻を与えてくれる。

上手いなあ。

ただ小学生が主人公ということと、内容がSF風なので、読んでてジュブナイル感が強く、若干対象年齢が低く感じる。

だいたいこんな素敵なお姉さんが小学生など相手にするはずがないのだから(笑)


筒井康隆『旅のラゴス』あらすじと感想

2014年09月27日 | 本(小説)

 筒井康隆の『旅のラゴス』を読む。

筒井康隆といえば「時をかける少女」しか思いつかず、しかも原田知世の映画を見ただけで本は読んでないという、筒井ファンブーイングの、この作品は筒井作品まさかの初読の本である。

 ある目的のために旅を続けているラゴス。

リゴンドラの南西数キロの牧草地で、放浪する総勢40名ほどの遊牧民ムルダムの集団に加わることになる。

南方諸都市の一人旅は、追剥にあったり殺されたりと危険なためだ。

リゴンドラに到着し牛馬を売った彼らは、降り出した雪に急いで帰郷する支度をする。

リーダーのボルテツが叫ぶ。

「一刻の猶予もならぬ、全員で転移する」

転移とは全員の精神力で、一瞬のうちに別の場所へワープすること。

経験の浅いボルテツのあわただしい指示によって不安が増し、全員の緊張感が高まり精神力が下がってきた時、ラゴスが進み出る。

「俺にパイロットをやらせてくれ」

 まだまだ文明も未熟なある星の世界で、スカシウマにまたがり旅をするラゴスの生涯を描いたお話。

ラゴスが何のためにひたすら旅を続けるのか、目的はここでは明かせないが、危険と隣り合わせの旅の中でつづられる、いくつかの出会いと別れ、そして理不尽なほどの災難に、あたかも自分も一緒に旅をしたような、不思議な疑似体験を味あわせてくれる。

危機的状況に遭遇してなお、そして女性に惚れられしまったときも、あくまでもクールに、知的な立ち居振る舞いで対処するラゴスに、ある種の憧れを感じさせ、読んでいる間ずっと感じる大人感が心地いい。

そしてなにものにも束縛されず、ゆるぎなく目標へ向かって歩み続ける姿に、人生とはを問いかけられる。

現実では束縛のない世界などあり得ないが、知識と経験は自分の意志によって無限に吸収できるんだなあ、なんて改めて思い知らされる。

読後の哀愁感とそれを超える爽快感は、荒涼とした異世界で吹く一陣の風が全身を吹き抜けたような気持ちよさと、不思議な出会いを予感させるちょっぴりのときめき感をも感じさせる、素敵な作品だった。

この作品は雑誌「新潮」に連載されていて、1986年に既に出版されていたんだけど、こんな素晴らしい作品をずっと知らずに今読んでるとは・・・、悲しいなあ(^^;)


百田尚樹『風の中のマリア』あらすじと感想

2014年09月16日 | 本(小説)

 「永遠の0」「海賊とよばれた男」と次々とベストセラーを連発する百田尚樹の『風の中のマリア』を読む。

百田作品を読むならまず「永遠の0」だと思い、早速ネットで購入したが、文庫本のあまりの分厚さに怯んでしまい、それっきりになってしまった。

そして「みをつくし料理帖」の最終巻が出版される間に、何か読むの本はないかと思っていたところに、この本を発見。

レビューの評価の高さと、タイトルから全くイメージできなかったスズメバチの物語というところが気に入り、初めて百田作品を読むことに。

このタイトルからどういう訳か私は女性のマラソンランナーの話だと思ったんだけど、まさかのスズメバチの女戦士(メス蜂戦士)マリアの生涯を描いた物語だった。

女王と次々と生まれてくる妹たちのために、懸命に戦い続けるマリア。

彼女が生きる虫の世界は、ディズニーが描くようなお気楽で笑いの絶えない楽しい世界とは程遠い、日々生きるか死ぬかの極限の世界。

強力な顎と牙で敵を引きちぎり、毒針で貫く様子をあくまでも淡々と描き、殺戮を繰り返すスズメバチを冷徹に見つめながらも、本能に抗うように湧き上がる感情を、まるで人間のように個性として生き生きと描写する。

いつしか自分も森の中にひっそりと息づく虫の目線で、物語を眺めている。

あまりにも儚い命を、本能の赴くままに燃やし尽くして死んでいくスズメバチの戦士たちに、生きていくことの厳しさと、全力で駆け抜ける命の力強さを突きつけられる。その姿はあまりにも悲しく、そして美しい。

ただのハチたちの話をここまで昇華させる百田尚樹、素晴らしいです。

これはそろそろがんばって「永遠の0」読まないといけないかなあ。


高田郁『天の梯 みをつくし料理帖』

2014年09月15日 | 本(小説)

 シリーズ最終章 待ちに待った高田郁の『天の梯 みをつくし料理帖』をやっと読む。

前巻の「美雪晴れ」から待つこと約半年。

ちょっと長かったです。

その間ちょいちょい忘れちゃうし、せっかく上がったテンションも随分下がっちゃったのが残念です。

やっぱりこういう何巻も出版されるものは、全巻リリースされてから一気に読んだ方がいいかも。

ファン納得の、こうなって欲しいというすべての願いが叶えられた大満足の大団円でした。

シリーズの前半では何度も通勤電車の中で泣かされてしまったけど、途中からやはりマンネリになってしまい、ちょっと心配だったけど、最後はやはり涙させてもらいました。

偶然なんだけど、クライマックスの澪と野江の再会のシーンで、iPodから森山直太郎の「風唄」が流れてきて、おもいっきしシンクロしてしまい電車の中で涙ツ~だった。

読み終わった後も、いろんな場面が次々によみがえってきて、しばらくセンチメンタルな余韻に身をゆだね、素敵な本に出会えたという幸せに包まれていた。

登場人物のすべてが、自分のこと以上に人のことを想う、その心根の美しさがたまらなく愛おしく、埃にかぶれた心が洗濯板でごしごしと手洗いされたような清々しさが、早くも懐かしい。

完結したんだけど、さっそく続きを読みたくなっている。

あとがきでそれぞれの人物のその後を書く予定があると、作者がほのめかされていたので、もう待ち遠しいんだなあ。


この読み終わった興奮をそのままに、ファンの誰もがやってしまう楽しみの一つ、TVシリーズ化されたときに、誰をキャスティングするかを考える、脳内キャスティングを私もやってみた。

ちょっと前に、驚きの「みをつくし料理帖」が突然TV放送された時のメインキャストが

澪・・・北川景子

あさひ太夫・・・貫地谷しほり

小松原・・・松岡昌宏

永田源斉・・・平岡祐太

見事にイメージとかけ離れていたので、オンエアは見てない。

誰が考えてもあなん意地悪そうで気が強そうな(あくまでも私のイメージです・・・)北川景子の澪はあり得ない。

TOKIOの松岡が小松原にいたっては、ジャニーズよいい加減にしろ!だよ。

そして次が私が考えたキャスティング

澪・・・吉高由里子

あさひ太夫・・・比嘉愛未

小松原・・・内野聖陽

永田源斉・・・妻夫木 聡

芳・・・黒木瞳

種市・・・笹野高史

りう・・・樹木希林

美緒・・・北川景子

又次・・・江口洋介

清右衛門・・・古田新太

柳吾・・・近藤正臣

楽しい・・・、楽しすぎる(^^;)

いつかちゃんとしたイメージを崩さないキャスティングで、映画化・TV化されることを願ってる。