最初に読んだ浅田次郎作品が、自伝エッセイの「勇気凛凛ルリの色」だったせいもあり、私の中でこの作家は堅気ではないというレッテルを張ってしまった。
しばらく読む気が失せてしまったんだけど、『降霊会の夜』というオカルトチックなタイトルに惹かれてとりあえず読んでみることに。
なぜ「地下鉄に乗って」や「鉄道員」をまず読まないんだってとこだけど、なんかこの作家に泣かされたくないという気持ちが働いたんだろうね、本作を最初に読むことにした。
“-何を今さら。忘れていたくせに。”
別荘地の森の中にたたずむ屋敷に住む私は、しばしば見知らぬ女に過去をなじられる夢を見る。
ある秋の夕暮れ時、籐椅子に座って降り出した雨にかすむ広い庭を眺めていると、大木の根方に座り込む一人の女性が目に入る。
時折光る稲妻に、動けなくなったようで、私は手を引いて家の中に招き入れた。
県道を隔てた西の森に住んでいるという梓と名乗る女性は、ご恩返しをしたいということで奇妙な提案する。それは生きていても死んでいても構わないので、会いたい人に会わせてくれるというものだった・・・。
まず読み終えて感じたことは、この作家の尋常じゃない人生の経験値と観察眼の鋭さだ。
梓という謎の女性に連れられて行った屋敷の中で行われる降霊会。
少年時代につらい別れをした友人のキヨを念じたことから始まる、霊との交信により、封印していた過去の記憶が蘇るんだけど、呼び出された霊たちが告白する夜話が、恐ろしいほどの生々しさで語られる。
まるで実在の人物の出来事のように掘り下げられる心情は、読む者の心の痛みを伴わせる。
さらに犯罪者の告白に至っては、その一方的で胸が悪くなるほどの不条理な論理は、もはや犯罪者の心理そのものだっただろう。
それから最初の霊が現れた時点で、ある映画を思い出した。
ニコール・キッドマンの「アザーズ」だ。
最後は絶対あのどんでん返しだろうなあと思ったが、見事に外れてしまった。
でもああいう展開でも面白かったんじゃないかなあと、今でも思っているが。
冒頭で主人公に“この齢まで生きて、悔悟のないはずはない”と語らせている。
この一言で、読み手は自身の思い出したくもない記憶を辿らさられることになり、無理やり穿り返される暗い記憶は、物語と一体になって切なさを募らせる。
時代の波にのまれ、偽りの幸福をつかのま享受し、自身も気が付かないうちに本当の自分を見失ってしまっている。
すべてを時代のせいにしてはいけないが、その時代に生きる者は、それを大抵は気が付かない。
人は幸福に生きるために、忘れるという技術を身に付ける。
ただ、よりよく生きるために、過去の罪を悔い改めることも時には必要なのかも。
なあんて、この作品のテーマがこんな教会の懺悔室に無理やり放り込まれるようなことだったら、この作家、そうとう鼻持ちならない。
巻末の解説で、吉田伸子という方も、
“浅田さんが書いてきた物語には、いつもどこかに、善く生きることへの想いがある”
なんて書かれているが、本当にそうだろうか。
最初に「勇気凛凛ルリの色」を読んでしまった私には、そんなきれいごとを言えるような人物とは到底思えない。
返す返す最初に「勇気凛凛ルリの色」を読むんじゃなかったと、この作家を色眼鏡てみてしまうことを後悔しているんだけど、この物語のテーマは“許し”でしょうね。
そしてもう戻ることないその瞬間に感じたことを、素直に言葉にする勇気なんじゃないだろうか。
それはたった一言の「さよなら」という言葉かもしれない。
そんなかけがえのない大切な瞬間を、大事にしてほしいというメッセージも込められているんじゃないだろうか。
ただこの物語、主人公の少年時代と青年時代の2部構成のようになってるんだけど、この二つのストーリーがあまり絡み合ってなくて、違和感を残す。
ちょっと消化不良になってしまったこともあり、俄然浅田次郎の真骨頂が知りたくなったので、次こそは代表作の「鉄道員」を読んでみることにしよう。