昨日は合同の初盆会法要が勤まりました。
去年は1座でしたが、今年は午前と午後の2座に分けての開催です。
それでも午前だけで47名のお参りの申込みをいただいていたので、待合所となる客間も三間すべてを使います。
午後の部の模様 午後の部の模様
初盆とは、亡くなられた方、そしてそのご家族や近しい方々が、初めて迎えられるお盆のことです。
今年、初盆を迎えられた方のことを考えると、東日本大震災で命を落とされた方々のことを思わずにはいられません。
「あなたが無下に過ごした今日は、誰かが生きたいと必死に願った明日なんだ」
そう言われると、昨日亡くなられた方々の人生の最期に思いを馳せては、今日という日があるということの素晴らしさに改めて気づかされます。
そして、今日を大切に生きなければと思うものです。
けれど、その気づきは一瞬のことで、結局当たり前にきた今日という日を、いつものように無下に過ごして終わってしまうのが常だと思います。
それでも、「誰かが」ということろに、「津波に流され、苦しみと恐怖のままに命を奪われた人が」と入った瞬間、何とも言えない感情が溢れてくるのは私だけでしょうか…。
「私が無下に過ごしている日々は、津波に流され、苦しみと恐怖のままに命を奪われた方々が、『死にたくない』と必死に願い、『生きたい』と必死に願った日々なのです」
…その思いは、一人だけのものではありません。
行方不明者も含めれば、2万をはるかに超える方々が、悲痛な思いで願ったこと。
けれど、この「誰かが」というところには、今回の震災の被害に遭われた方々のみが入るわけではありません。
そこに不特定多数を指す言葉ではなく、一人一人の懸命に生きた人生を映す言葉が入るということに気づいたとき、見えてくる今日という日の素晴らしさも変わってくるのだと思います。
毎日を、一日一日を、尊いものだからと大切に思いながら過ごすことは、なかなか難しいことでしょう。
ただ、その実感を味わう機会に多く出遇うことが、人生をより鮮やかに彩ることとなるのではないでしょうか。
この法要もまた、お参りくださった方々にとって、その機会の一つとなることを願っています。