週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
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和上の言葉

2011-08-22 00:58:22 | 法話のようなもの

住職が録音してきてくれた連研のご講義を聞きました。

連研第1回目ということもあり、分かりやすく、受け入れやすいお話をいただきました。
直接お聞きになられた方々も、肩の力を抜いて、浄土真宗のみ教えに触れられたのではないでしょうか。
私もまた初心に戻り、浄土真宗の入り口に一緒に立つ気分を味合わせていただきました。

さて、こうして浄土真宗のみ教えを改めて学ぶとき、私には必ず思い出すお話があります。
それはある勉強会で拝聴した、勧学(学僧の最高位)の梯實圓和上のお言葉です。 


「浄土真宗はありがたい宗教ですな。 私ら何にもせんでも、阿弥陀さんは救って下さるそうですから、私ら【ほとけ ほっとけ】ですわ」と笑って言う人がある。
こうした言い方をする人の言葉を聞くたびに悲しく思う。

違うのだ。そうではない。
私に「ああなれば救う」、「こうしなければ救わない」というような注文・指図を一切なさらずに、汝を、その罪がいかに深くとも、必ず漏れなく救い遂げることのできる仏となるというお誓い(本願)の底に、私の作る罪の深さを誰よりも知り抜き、それを痛んでおられる阿弥陀さまの悲しみがある。

慈悲を喜ぶとは、そこに胡坐をかいて横着を決め込むことではない。
「阿弥陀さまを悲しませているのは、他ならぬ私でした」
「私の心の底なしの暗闇、果てしない罪業の深さを知りぬいた阿弥陀さまのお慈悲は、それゆえ底なしに深いものでした」
そう知らされることが、お慈悲を喜ぶ姿ではなかったのか。

行信教校(宗門の僧侶育成校)を創設された利井鮮妙和上の晩年の歌が、その心を鮮やかにお示しである。

   子の罪を 親こそ憎め 憎めども
             捨てぬは親の 慈悲(なさけ)なりけり



言葉が足りなければ、浄土真宗は「善人も悪人も、誰でも救ってくれる、素敵な宗教」とだけ受け取られてしまうこともあります。

「違うのだ」 「そうではない」

自分の紡ぐ言葉に、いつも梯和上の悲しみと憂いに満ちた言葉が重なります。
先日の連研は、初心に戻ると共に、自分自身への戒めを思い出させていただくご縁となりました。