週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

『硫黄島からの手紙』

2011-08-13 00:53:44 | ひとりごと

今日からお盆です。
住職と副住職は、一日中お盆参りで大忙し。
私と坊守は龍くんは、住職たちに代わって、皆さまのお参りをお待ちしております。
皆さま、熱中症に気をつけてお越し下さいませ。

さて、ここからは金曜ロードショー『硫黄島からの手紙』を見て、感じたことをつらつらと…。
  
         

涙を誘うこともなく、戦闘から戦闘へと、淡々と過ぎていく。

戦争という言葉に隠れてしまっているものがある。
敵という言葉に隠れてしまっているものがある。
そういう見ようとしなかったものが描かれていた。

「戦争」とは人間と人間とが戦うこと。
そこにある悲惨な光景を作り出しているのは、私と同じ人間だけど。
戦争という言葉に、全ての惨さの責任を擦り付けている感覚があることは否めない。

「敵」とは同じ人間であるということ。
敵であろうと、故郷があり、心配する家族がいて、感情があり、痛覚もあり、死にたくないと涙を流す。
自分と味方と同じ、生きている人間であるはずなのに。
敵という言葉に、その全てを失わせてしまう感覚があることも否めない。

そのまやかしから生まれる残虐性や悲惨さを、日本とアメリカ、そのどちらに傾くことなく表現する。
現実というには余りにも残酷で非現実的な空間を、現実として生きなければならなかった人々の、嘆きや呻き、狂気や諦めを表現する。

戦争を起こした者を、行った者を、戦った者を責めるのではなく。
ただ、この光景を繰り返してはならないという、それだけが伝わってきた映画。

終戦の時期になると、戦争を起こした者の責任を追及したり、非難したり。
そういう言動が目立つけど。
例えばきっと、数十年後に北極の氷河が全部融けて、海面が上昇してしまったとき。
地球温暖化に、歯止めをかけることなく突き進んでいる私たちの、この今の有り様が非難されることになるだろう。

突き進んでいるときに、それが過ちだと気付けないこともある。
過ちだと気付いていても、過ちだと言えないこともある。
過ちだと言えても、それを正すことができないこともある。

非難されない生き方を、している者など、どこにもいない。
責められるような状況になるまで止められなかった、止めようとしなかったその誰もが、追求される責任の関係者だ。

私が誰かを責めることのできる生き方をしているのかを省みる。
その生き方を、仕方ないと諦めるのではなくて、開き直るのでもなくて。
そして、責めるのでもなくて、繰り返してはならないという、その決意をただ求める。

繰り返さないために何をすべきか…そんなことを考えた映画でした。