週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

3月11日

2012-03-11 04:36:03 | ひとりごと

3月11日。

あれから1年という時が経過しました。

あの日からの数ヶ月の間に、自分に起きた一つ一つの事を思い出そうと試みても、記憶の中の出来事はどれも断片的です。
もしかしたら自分では気がつかなかっただけで、私は1年もの間、静かに混乱し続けていたのかもしれません。

テレビでは1年の区切りとして、地震と津波の映像が事あるごとに流れています。

先ほど、被災地での当日の映像を繋ぎ合わせた『あの日を忘れない』というNHKスペシャルの再放送を見ました。
そこには、「もしかしたら」という願いも夢も希望も、私たちに抱かせる余地を与えない自然の猛威が映し出されていました。

現実なのに、非現実のように思えてしまう映像の数々。
でも、テレビの画面越しで見る惨状に、幾度となくダメージを受けていることは、紛れもない私の現実。
ならば、あの惨状が360度に渡って広がる光景を見続けてきた方々の心痛はいかばかりでしょうか。

愛する人を失なった慟哭。
手を離してしまった後悔。
探しながら襲われる絶望。
自分も逝きたいという衝動。
笑った後に訪れる後ろめたさ。
心にぽっかりと開いた穴と、そこに覗く闇。

被災地で傾聴を続けている友人の言葉には、仮設住宅で暮らす方々はもちろん、テレビで取り上げられるような前を向こうと懸命に生きる方たちの、映像には流れない心情で溢れています。

テレビを消せば自分の現実に戻れる私に、瓦礫の中で今なお被災し続けている方々に対して「寄り添う」などと、軽々しく言うことはできません。
でも、このたびの震災で、私は多くの方々に寄り添われて生きてきて、そうして今の私があるということに気付かされました。

失った存在が大きければ大きいほど、自分が寄り添われていたということを痛いほど実感します。
同時に、その存在が死を超えてなお自分に寄り添い、支え続けているということにも気づかされます。

亡くなったいのちを背負い込み、そのいのちの分も生きることを自分に科すのではなく、そのいのちに寄り添われながら、一緒に生きていってほしい。
今は無理でも、嘆いて嘆いて嘆き続けたその先に、死を超えて共に生きる道がひらけていてほしい。

そう願うだけでなく、そこから一歩踏み出すことが、静かな混乱の中にある私自身の復興につながると信じて、明日からの日々を過ごしていこうと思っています。

でも今日は・・・。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

                                               合掌