岡春部(おかしゅんべ)
現在の富岡地区、明治42年に始めて無人の岡春部原野に入植者が入った。
当時の岡春部は密林に覆われ樹齢200年もたったエンジュや直径60センチ以上もあるタモが一反歩に6~7本も茂っていて開墾はなみたいていではなかった。それに鹿の角が多数埋もれていてこれも開墾の邪魔になった。大正5年頃の戸数は80~90を数えこれは当時の右左府(うさっぷ、旧日高町)一帯の半分あまりを占めていたといわれる。
富岡小学校の前身 岡春部教授所の設置
明治42年12月に右左府簡易教習所が設けられ、岡春部地区の子弟もその通学区域内におかれた。当時の通学距離は一里(4キロ)余りだったが、その間は熊笹や雑木林の茂る踏み分け道しかなく、しかも渡船によって二度も沙流川を渡らなければならない難路だった。
通学の児童たちは登下校にかなりの難渋をしいられた。地区の人々は早くからこれに心を痛め独立校建設の声が出ていた。人口が増えるに伴いますます独立校建設の声が高くなり、明治44年に初めて右左府教習所にて折衝が試みられるも物分れとなる。その後では協議を重ねた結果、平取村を訪れ田中戸長へ直接要請するなどの代表者の鹿野長三郎、横山小一郎等が何度も足を運び、努力によって大正元年10月29日に校舎の建築に着手する。もちろん部落総出の出役である。そして教員住宅を併設した28坪の新校舎を落成したのはその年の11月20日であった。こうして翌大正2年1月20日の念願であった教授所はその名を右左府教習所岡春部特別教授所として授業を開始する。(日高町史より抜粋、要約)
の代表の一人として力を注いだ横山小一郎さんは私の夫の曽祖父です。

廃校になった富岡小学校です。
もっとも多かったときにはこの校舎で100人以上の生徒が勉学に励んでいたそうです。この絵は2007年8月私が描いたものです。
校舎は現在も残っていますが、かなり荒廃してしまいました。
現在の富岡地区、明治42年に始めて無人の岡春部原野に入植者が入った。
当時の岡春部は密林に覆われ樹齢200年もたったエンジュや直径60センチ以上もあるタモが一反歩に6~7本も茂っていて開墾はなみたいていではなかった。それに鹿の角が多数埋もれていてこれも開墾の邪魔になった。大正5年頃の戸数は80~90を数えこれは当時の右左府(うさっぷ、旧日高町)一帯の半分あまりを占めていたといわれる。
富岡小学校の前身 岡春部教授所の設置
明治42年12月に右左府簡易教習所が設けられ、岡春部地区の子弟もその通学区域内におかれた。当時の通学距離は一里(4キロ)余りだったが、その間は熊笹や雑木林の茂る踏み分け道しかなく、しかも渡船によって二度も沙流川を渡らなければならない難路だった。
通学の児童たちは登下校にかなりの難渋をしいられた。地区の人々は早くからこれに心を痛め独立校建設の声が出ていた。人口が増えるに伴いますます独立校建設の声が高くなり、明治44年に初めて右左府教習所にて折衝が試みられるも物分れとなる。その後では協議を重ねた結果、平取村を訪れ田中戸長へ直接要請するなどの代表者の鹿野長三郎、横山小一郎等が何度も足を運び、努力によって大正元年10月29日に校舎の建築に着手する。もちろん部落総出の出役である。そして教員住宅を併設した28坪の新校舎を落成したのはその年の11月20日であった。こうして翌大正2年1月20日の念願であった教授所はその名を右左府教習所岡春部特別教授所として授業を開始する。(日高町史より抜粋、要約)
の代表の一人として力を注いだ横山小一郎さんは私の夫の曽祖父です。

廃校になった富岡小学校です。
もっとも多かったときにはこの校舎で100人以上の生徒が勉学に励んでいたそうです。この絵は2007年8月私が描いたものです。
校舎は現在も残っていますが、かなり荒廃してしまいました。