昭和33年前後の写真です。私が4~5歳頃の写真です。保育所の学芸会だと思います。私以外、誰だか分かりますか?
私の髪の毛の両端がくるくるなっているのは、ハサミのような形のもので(こて?)、薪ストーブの中で熱くし髪の毛を挟み巻いてパーマをかけたように毛先をくるくるにするのがあり、年の離れた姉がやってくれたような記憶がうっすら残っています。焼き過ぎてたまにジジッと髪の毛が焼け、その臭いも覚えています。
わが町の保育所は、昭和27年と28年の二回にわたりお寺を開放して季節保育所「旭保育園」を開いたのが始まりです。
二代目の海月和尚夫妻がその保育に当たった。
昭和昭和29年村が常設保育所を開放に及び、その村営保育所を海月(所長代理)、智恵子(主任保母)の夫妻が引き受けることになる。また村営保育所の敷地を無償で貸しその後、閑山寺夫妻は昭和44年保育所が現在の場所に新築移転するまで、その職にあたった。・・・日高町史より
私のその頃の保育所の記憶は、お昼が嫌いで寝た振りをしていたことと、紙芝居が大好きだったことくらいで、あまり記憶に残っていません。
保育所の建物は今の納骨堂の隣りにあったので、現在西国三十三か所の石仏の前の広場あたりだったと思います。
14日撮影
日高地域の開拓のきっかけは日露戦争の頃、銃の材料としてのクルミの木が多く自生していたわが町に木を伐り出すために入植、その人達が日高地域の開拓者となりました。 山奥で冬は寒いこの地域の開拓の生活は苦労されたことでしょう。
そんな苦しい生活の中でも、自分達でお金を出し合い教育の場を作ってきた足跡が日高町史に載っています。
海月和尚さんの父上は子供の頃、両親を亡くされてお寺で養育されました。養育していたお坊さんの名前が閑山了古(かんざんりょうこ)という名前だそうで、そこから閑山寺という名前がつけられたそうです。
海月さんも父上同様なんらかの形でお寺の養育を受けられたのかもしれませんね。幼児期の教育の必要性を感じ、保育園を開設されたのでしょう。
日高地区の歴史は長くはありませんが、中身は濃く、目まぐるしく変貌し現在に至っています。 これから先の歴史を作っていくのは、現在この地域に住んでいる私達です。
開拓者の努力を無駄にしないよう大切なものは次世代に引き継ぎついでいきながら、 この町に住んでいて良かったと、自慢できる町作りができたらいいですね。
お寺の横の保育所の建物が写っている写真をお持ちの方は、いらっしゃいませんか? 写真貸していただけませんか?