「死者は生者を走らすべからず」
かねてよりそう言っていた父が2009年1月8日に80有余年の生涯を閉じた
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『骨髄異形成症候群』と言う難病の為、1年に数回輸血をしなくてはならなかったが、趣味の俳句の集まりに出かけたり、散歩に出たり定年退職後の生活を満喫していた、と思う。
私と父と言えば、確か私が30代だったと思うけど、「アルファの位置(?)」が交代した時から、父が私に気を遣うようになった気がしないでもないが
今でも忘れない。
私が小学校3年生だった頃、友人が
「今夜は、お父さん遅いから夕飯は一緒じゃないんだ。」
と言っていたのを聞いてびっくりした。
父は会社一筋の商社マンで朝早く出勤し、帰宅はいつも深夜だったので、父親と一緒に夕食
をとるなんて、考えてもいなかったからだ。
父の退職後も家で会っても挨拶を交わすくらいだったし、
をかけて父が出ると母が電話口に出ないのは留守なのか、と尋ねてたし、極めて薄い存在
。
子供心に、
を守り、
自分を育ててくれたのは母親だと思ってきたから、父の最後の日となったその日も、医師から
「会わせたい人がいたら会わせておいて」
と言われてはいたものの、意識もしっかりしていたし、駅前に置いてきた
も気になってたし、適当なところで帰ろうと思っていたくらいだった。
けれど、看病疲れで家へ帰らざるを得なかった母親が
「みんな帰っちゃって、誰もいなくなるけれど大丈夫よね?」
「明日は早く来るからね。大丈夫よね。」
と後ろ髪を引かれるように父に話すのを見て母の為に私が今夜は病院へ残ってあげようと思っただけだった。
でも、そう声をかける母の問いかけにいつものように
「大丈夫だよ。」
と、うなずかなかった父の事も気になり、
「父親のそばにいなさい。」
と言う、心
の声に従ったのもあったけど・・・。
2008年の11月に去年3回目の入院をしてから、口から十分な栄養が取れなくなってたので点滴に頼るその手足は黒ずんで、むくんでいたし、肺には半分くらいの水が溜まっていると言う。肺の水がもっと増えれば溺死するのと同じ苦しみを味わう事になる。
しかし、水を抜くという事は同時に栄養も捨ててしまうと言う意味になるので医師はそれは避けたいと言っていた。たんのせいで、喉がゼロゼロと音をたてる。酸素吸入も時には邪魔そうだった。
健常者から見れば辛そうなのに
「苦しくない?」
と聞いても父はゆっくりと、首を横に振って目を閉じていた。
母も従姉も帰った病室に私と父がいた。
私とイヤホンで音楽を聴いた。
少しして、体を自分で動かす力もなかった父が2回、天井に向かって力いっぱい手を伸ばした。
「何か見えたの?」
とそばに走り寄ると父は、目を大きく見開き一点を見つめてしっかりうなずいた。
しかし、3度目の手を伸ばした時には、まばたきもせずに、小刻みに息をしていた。
結局、2時間ほど前に帰った母を待つことなく、医者の
「心拍数10です。」
の声と同時に、父は眠るように目を閉じた。
そして、数分後、医者が父のspiritが肉体を離れて行った事を伝えてくれた。
22:20だった。
医者もびっくりするくらいに、最後まで意識をしっかり持ち、心臓が止まると同時に本当に安らかに眠るように逝ってしまった
私は、こみあげるものがあったけど、泣かなかった。
感慨深いものがなかったわけではない。でも、父が最期にない力をふりしぼって誰かに手を伸ばした時、きっと誰かが迎えに来てくれたんだ・・・そう思うと
「よかったね。」
と言う安堵の気持ちの方が強かった。
結局、通夜と告別式には、本当に父の最後のお別れをしたいと言う方たちが参列してくれた。
「あんな状態でいながらに安らかに旅立った
のも、毎日かかさず真言を唱えていたからだ」
と母は言っている。
私は父の逝去がきっかけで、ご無沙汰だった友人たちと再会する事が出来た。
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長い間、お疲れ様だったね。先に逝ってしまった、兄弟や両親たちと安らかに・・・
(10年以上前にUFOキャッチャーで取った父にそっくりの人形をあげたらずっと部屋に飾ってました。今は我が家で暮らしています)
かねてよりそう言っていた父が2009年1月8日に80有余年の生涯を閉じた
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『骨髄異形成症候群』と言う難病の為、1年に数回輸血をしなくてはならなかったが、趣味の俳句の集まりに出かけたり、散歩に出たり定年退職後の生活を満喫していた、と思う。
私と父と言えば、確か私が30代だったと思うけど、「アルファの位置(?)」が交代した時から、父が私に気を遣うようになった気がしないでもないが
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今でも忘れない。
私が小学校3年生だった頃、友人が
「今夜は、お父さん遅いから夕飯は一緒じゃないんだ。」
と言っていたのを聞いてびっくりした。
父は会社一筋の商社マンで朝早く出勤し、帰宅はいつも深夜だったので、父親と一緒に夕食
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父の退職後も家で会っても挨拶を交わすくらいだったし、
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子供心に、
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「会わせたい人がいたら会わせておいて」
と言われてはいたものの、意識もしっかりしていたし、駅前に置いてきた
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けれど、看病疲れで家へ帰らざるを得なかった母親が
「みんな帰っちゃって、誰もいなくなるけれど大丈夫よね?」
「明日は早く来るからね。大丈夫よね。」
と後ろ髪を引かれるように父に話すのを見て母の為に私が今夜は病院へ残ってあげようと思っただけだった。
でも、そう声をかける母の問いかけにいつものように
「大丈夫だよ。」
と、うなずかなかった父の事も気になり、
「父親のそばにいなさい。」
と言う、心
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2008年の11月に去年3回目の入院をしてから、口から十分な栄養が取れなくなってたので点滴に頼るその手足は黒ずんで、むくんでいたし、肺には半分くらいの水が溜まっていると言う。肺の水がもっと増えれば溺死するのと同じ苦しみを味わう事になる。
しかし、水を抜くという事は同時に栄養も捨ててしまうと言う意味になるので医師はそれは避けたいと言っていた。たんのせいで、喉がゼロゼロと音をたてる。酸素吸入も時には邪魔そうだった。
健常者から見れば辛そうなのに
「苦しくない?」
と聞いても父はゆっくりと、首を横に振って目を閉じていた。
母も従姉も帰った病室に私と父がいた。
私とイヤホンで音楽を聴いた。
少しして、体を自分で動かす力もなかった父が2回、天井に向かって力いっぱい手を伸ばした。
「何か見えたの?」
とそばに走り寄ると父は、目を大きく見開き一点を見つめてしっかりうなずいた。
しかし、3度目の手を伸ばした時には、まばたきもせずに、小刻みに息をしていた。
結局、2時間ほど前に帰った母を待つことなく、医者の
「心拍数10です。」
の声と同時に、父は眠るように目を閉じた。
そして、数分後、医者が父のspiritが肉体を離れて行った事を伝えてくれた。
22:20だった。
医者もびっくりするくらいに、最後まで意識をしっかり持ち、心臓が止まると同時に本当に安らかに眠るように逝ってしまった
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私は、こみあげるものがあったけど、泣かなかった。
感慨深いものがなかったわけではない。でも、父が最期にない力をふりしぼって誰かに手を伸ばした時、きっと誰かが迎えに来てくれたんだ・・・そう思うと
「よかったね。」
と言う安堵の気持ちの方が強かった。
結局、通夜と告別式には、本当に父の最後のお別れをしたいと言う方たちが参列してくれた。
「あんな状態でいながらに安らかに旅立った
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と母は言っている。
私は父の逝去がきっかけで、ご無沙汰だった友人たちと再会する事が出来た。
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長い間、お疲れ様だったね。先に逝ってしまった、兄弟や両親たちと安らかに・・・
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