


私が友人に「私も小さい頃、移民しようと思っていた時があった」と言ったら笑われたが、本当の事である。
家が公民館に近かったせいもあるが、あの頃、移民の映画がよく公民館で上映されていて、私は一番前で見ていた。「小さな沖縄から出て、大陸に渡れば、広大な土地が貰える、将来に夢がある」と言うようなものだったかもしれない。今思えば、移民を扇動するような映画だったのだろう。子どもだった私でさえ、その気になったのだから。
今回の北米、南米を訪問して、元々近所だった方々が多いのに驚いた。ので、もう一度「金武町移民史(3部)」の証言編を読みなおした。
あの頃の村の人口は今(1万人)より少なかった筈である。(当時の人口については戦争で資料が焼失してわからないようです)。しかし移民人口は実に2千人を超えている。


次の資料で、隣組ごとに移民した家とその移民先がわかる。色を塗られていない家、すなわち移民しない家の方が、この並里区では少ない位である。私の実家のある仲栄組では実に80%の方が移民している。当時、どんなに移民熱が高かったかがわかる。
事実は小説よりも奇なり
とても良くできた、よくぞここまで調べ上げたと言う資料である。証言者の方々のお話も小説よりも面白い。今回お会いした一世の方の証言もあり、な~だぐるぐるしながら読んだり、笑わされたり、大変興味深い資料である。
参考資料:金武町史 第1巻「移民・証言編」1996年3月31日発行
金武町史編さん委員会
ブログ訪問ありがとう。