ひときわ目を引いたのが赤い「ダリア」の花だった。この花を見るといつも、小学校一年生の時の担任のNツル先生を思い出す。ツル先生は花が大好きで、私はよく家の庭に咲いていた菊の花や、水仙、アマリリス等を新聞紙に包んで持っていった。先生は、その度にとても喜んでくれた。そんなツル先生が私は大好きだった。
「ダリアの花が一番好き」と言って、校庭の花壇に咲いていたダリアの花を嬉しそうに手入れしていた。
花や匂いや風景とか、生活の断片でしかないことが、ある人を思い出させたりすることがある。脳の奥に眠っていた記憶が呼び覚まされる。
そんな感覚がおもしろい。
この「ベトナム戦記」は私が知りたかったベトナム戦争のことがすべて書かれていた。
いつかベトナム戦争について調べてみたいと思っていた。 その理由は、私には忘れられない一枚の写真があったから。
鮮烈な衝撃を覚えた写真。目をそむけてしまいたい写真。そして「ごめんなさい」と詫びたい写真が。
石川文洋氏がベトナム戦争に従軍した報道写真家ということを知っていた。なので、もしかしたら彼が、あの写真を撮ったのではと、彼の報道写真を見かける度に本をめくったりしていた。
が、その写真は「フィン・コン・ウト」が撮ったものだった。(当時はニックという愛称で呼ばれたAP通信社のサイゴン支局の見習いカメラマンだった:1972年「戦争の恐怖」)
私は1972年15歳。ベトナム戦争が激しかった時、1967年~75年当時、私は小学校の高学年から中学という多感な時だった。毎日耳をつんざくような黒い翼と呼ばれたB52は、沖縄から爆撃弾を乗せてベトナムへ飛び立って行った。戦争を加担しているようないやな気持だった。雑誌や新聞は、ベトナムの悲惨な現状を伝えるのに、どうして止めないの?どうして大人の社会は矛盾しているの?と思った。
被爆した家から命からがら逃げ出してきた少女は自分と同じ年頃であった。あの写真は心が痛んだ。沖縄にいる自分が、戦争に加担しているようで、沖縄から逃げ出したいと思った。
戦争は善良な市民を変える。戦争は悲惨で人間が人間ではなくなるということを、私たちの子どもに伝えて行かなくてはならないと思う。
ベトナムに従軍した文洋さんはどこかで開高さんと接点がないかなと思っていた私は、本のまえがきやあとがきにも見逃さないようにしていたが、果たして私の予想は的中した。
石川文洋氏の「ベトナム戦記」文庫本の分厚い背表紙には、なんと私の大好きな開高健氏のコメントがあった。私は石川文洋さんのファンになった。
ネットはありがたい。調べてみると(あの少女は今、カナダで母となって生活しているそうです)幸せがたくさんありますように。
このモクマオウの木が大きくて暗くていっそう怖さを増した。この木の漢字名を勝手に「木魔王」と思い込んでいた。長い間。本名は「木麻黄」。
戦後に台風対策にとアメリカ人が持ち込んだと聞いたことがある。とすると、樹齢50~60年ということになる。
今日の沖縄は雨が降ったので、冷え込んでいる。寒いです。
(写真は億首川の河口に立つモクマオウ)
いろいろ作りますねー神様も。
一月がばたばたと過ぎてゆき、残り一週間となった。
今年の干支、寅年生まれの妹はアメリカにいますが、アメリカには干支はないよね。
県内で二人目という「澁澤賞」を貰ったんですね。すごい! 12月25日の新聞に載ってたそうですが、私は見逃していました。 つい三日前、親友のMが、
M 「つ~よが、なんだかすごい賞をもらったみたいよ」
私 「えっ?どんな賞?」
M 「わからんけど、すごいみたい、とにかくすごい賞!」
私 「ふ~ん」
私 「どんな賞かわからないけどすごいね!」 とは言ってみたものの
納得がいかないので、どんな賞なのか、帰ってからネットで調べたのが上の「澁澤賞」。
ほんとすごい!おめでとう。詳しく説明するには、ややこしいというか説明しづらいので同級生の方はぜひ「澁澤賞 伊藝健」で検索してください。 つ~よ、えらい!やっぱ大川の水がよかったのかね。同級生として嬉しいよ!
今度 同級生でお祝いしましょう!
私たちの世代は、昔、昔どこの家でもブタを飼っていたので、新型にはかからないような気がしますが、どうなんでしょう?
新型インフルエンザは正式には、「豚インフルエンザ」と言うらしい。
昨日は「阪神大震災から15年目」の追悼の日。私はこの年を忘れないと思う。
TVの映像から流れてくる震災の爪痕に驚愕し、心が痛んだ。こんなことが起りえるのかと。こんなことがあっていいの?と。もし、こんなことが今、ここで起ったら、私はこの幼い3人を連れて逃げることができるだろうか、東京は地震が多い。仕事で毎日深夜になる夫は頼ることは鼻から考えたことがなかった。
そして3月20日、オウムのサリン事件が起きた。築地の日比谷線で何かがあったというので、交通が大混乱していた。二年前位まで勤めていた職場は新富町駅か築地駅を利用する。なので、前の会社に電話を入れると、大遅刻をするものはいたが、被害にあった人はいなかったようで、ほっとした。
その日、私は職場である新宿でランチを取るために同僚と駅近くを歩いていた。「号外!、号外!」という怒号で、新聞が配られていた。見ると「サリン」の大見出し、サリンって何だろうと思いながら過ぎた。 3月20日は、退職する私のお別れ会があったので、家に帰るのが遅かった。帰ってTVを付けると「大騒ぎ、大混乱」の様相を写しだしていた。
なんということなんだろう、信じられないようなことが次々に起った。その3月私は以前から思っていたことを実行に移した。一代決心とも言うべきこと。「沖縄で子どもを育てよう」と。帰ってきたのだった。帰ってきた沖縄では米兵による少女暴行事件が起った。
阪神大震災で町は見事に復興を遂げたけれど、(心が)傷ついた人たちは立ち上がることができたのだろうか。心の底から祈ります。安らかな心が取り戻せますように。
あれから15年。3歳だった下の子もこの春、高校を卒業する。
(写真は「がらまんじゃくCAFE」)
金武町にすばらしい店がオープンしました。「がらまんじゃくCafe」
昔ながらの赤瓦屋根の沖縄家屋、それが店になっています。店内と庭の植物は、地元沖縄産にこだわったものばかりです。器、椅子、火鉢・・。外に出れば、昔ならどこでも見られた懐かしい植物たちに出会えます。
建ててから15年ぐらいしか経っていないと思いますが、いろいろなものが見事に調和して、昔からそこにあったような風格ある佇まいをしています。
また、ママの清子さんは、誰でも巻き込んですぐ友人なってしまうようなきさくな方です。一度訪れた方はファンになってしまうこと間違いなしです。 料理も上手で「がらまん定食」はお勧めです。
中南部方面の方は、やんばるまで遠出できない方でも、十分やんばる情緒が味わえます。
一番座で、ゴロンと横になりたいような、「懐かしい我が家」に帰ってきたような、そんな店です。店名の「がらまんじゃく」は金武大橋付近の地名のようです。
(写真は「がらまんじゃくCAFE」です)
「リストラ」・「首切り」を仕事とするハードボイルな面接官の男の物語り。こんな風に人を切っていくのか、その場その時に、人はどのような態度をとるのか、興味があった。「リストラ請負人」そんな仕事があるのだと。
リストラの裏舞台を魅せてくれた。引き込まれて、あっと言う間に読んでしまったおもしろい本だった。なので、垣根涼介の本を立て続けにもう一冊買った。読んだ。その本の名が思い出せない。