沖縄タイムスの【語りつくせぬ記憶】の記事。当時9歳だった石川さんは、家族と砲弾からの逃避行の中、弾が自身の膝をかすめ、その破片が弟の脇腹を襲った。
泣く力もない弟が、亡くなるまでの目を見開いていたその姿が遺っているという。
傷ついた石川さんを膝枕にしてくれた、そのおばの頭を砲弾が貫通し亡くなった。祖父母も亡くなった。
壮絶で悲惨な体験は長い間語ることが出来なかったという。
1995年に平和の礎に刻まれた弟の名前があると分かっていても、
『思い出して感情があふれて絶対に我慢できないと』行くことができなかった。それから二十年近い歳月が経ってやっと行くことができた。
私が初めて婦人会の方々と平和の礎をおとづれた時。
婦人会の大先輩が、弟の名を探していた。
程なく見つけた途端、号泣して弟の名前を何度も何度もさすっている姿が、6月23日になると思い出す。
辛い体験を語ってくれた石川さんありがとうございます。戦で亡くなったみんなの分までまだまだお元気で長生きして下さい。