時計の振り子
「振り子時計の基本的な仕組みは、時針を回す動力にぜんまいばねや錘など(後に電動も)を用い、その動きを一定の時間で動く振り子で制御して時を刻む仕組みとなっている。しかし、振り子を用いているため揺れに弱く、船など乗物の上では使用できない。また地震などの揺れによっても時計が止まってしまい、地震があると往々にその時刻をとどめる証拠となる。」(Wiki)
振り子時計の振り子の動きは制御されているから動きが一定になる。ところが、人間の心の振り子は完璧には制御できない仕組みになっている。これが厄介千万である。
例えば右に大きく振れたとする。すると、その反動として左にも大きく振れる。これが激しくなるとどういうことになるのか。ますます大きく左右に振れて、振り子が悲鳴を上げるようになる。
この心の状態を統御するのが理性であろうと思う。ところが、この理性というのが当てにならない。バランス感覚をしばしば失う状態になるのである。こんなことを言うと人間は壊れやすいということになって、不安感を募らせることになるので言った本人もいい気持ちがしない。
分かりやすく言うと、心に大きな負荷をかけると、その程度によってはその状態に絶えられる理性が働く。しかし、それにも限界があって、その限界を超えるとそれから一時的にも逃げようとする心の動きが発生する。心の振り子の揺れが大きすぎると、その反動が大きく発生してしまう。右に大きく揺れすぎると、今度はその反動として左にも大きく揺れることになる。
たばこが止められない。酒が日増しに多くなっていく。賭け事にはまって動きがとれなくなる。こういう例を挙げればきりがない。極端な場合は法を犯したり、倫理的な矩(のり)を越えることにもなる。
人様に迷惑をかけない程度の心の振れは世間が許してくれるが、その範囲内の心の振れでも場合によっては体を壊したり、お金で行き詰ったりする。
たくさんの人間と付き合いながら、しかも自分をコントロールするゆとりがある。人は大海に浮かんでいる小舟のようなものである。沈まないように舵をしっかりとらなくてはならない。そういう強さを秘めている。これは非常に大切なことである。
私がこのブログを書き続けられるのは、実は心を常にコントロールしたいという気持ちが働いているからである。
「振り子時計の基本的な仕組みは、時針を回す動力にぜんまいばねや錘など(後に電動も)を用い、その動きを一定の時間で動く振り子で制御して時を刻む仕組みとなっている。しかし、振り子を用いているため揺れに弱く、船など乗物の上では使用できない。また地震などの揺れによっても時計が止まってしまい、地震があると往々にその時刻をとどめる証拠となる。」(Wiki)
振り子時計の振り子の動きは制御されているから動きが一定になる。ところが、人間の心の振り子は完璧には制御できない仕組みになっている。これが厄介千万である。
例えば右に大きく振れたとする。すると、その反動として左にも大きく振れる。これが激しくなるとどういうことになるのか。ますます大きく左右に振れて、振り子が悲鳴を上げるようになる。
この心の状態を統御するのが理性であろうと思う。ところが、この理性というのが当てにならない。バランス感覚をしばしば失う状態になるのである。こんなことを言うと人間は壊れやすいということになって、不安感を募らせることになるので言った本人もいい気持ちがしない。
分かりやすく言うと、心に大きな負荷をかけると、その程度によってはその状態に絶えられる理性が働く。しかし、それにも限界があって、その限界を超えるとそれから一時的にも逃げようとする心の動きが発生する。心の振り子の揺れが大きすぎると、その反動が大きく発生してしまう。右に大きく揺れすぎると、今度はその反動として左にも大きく揺れることになる。
たばこが止められない。酒が日増しに多くなっていく。賭け事にはまって動きがとれなくなる。こういう例を挙げればきりがない。極端な場合は法を犯したり、倫理的な矩(のり)を越えることにもなる。
人様に迷惑をかけない程度の心の振れは世間が許してくれるが、その範囲内の心の振れでも場合によっては体を壊したり、お金で行き詰ったりする。
たくさんの人間と付き合いながら、しかも自分をコントロールするゆとりがある。人は大海に浮かんでいる小舟のようなものである。沈まないように舵をしっかりとらなくてはならない。そういう強さを秘めている。これは非常に大切なことである。
私がこのブログを書き続けられるのは、実は心を常にコントロールしたいという気持ちが働いているからである。