哀しき天使。ああ、こういう天使もいた。軽快なメロディーの中にもどこかしら涙が潜んでいる。いや、いろいろと思い出します。
Mary Hopkin - Those Were The Days - 1968
メリー・ホプキン(Mary Hopkin, 1950年5月3日 - )は、ウェールズ出身の英国の歌手
略歴
ウェールズのポントアルダウエ(Pontardawe)に生まれた。ウェールズ語を母語に育つ。メジャー・デビューする前はフォーク・グループ「ザ・セルビー・セット・アンド・メリー」のメンバーとして活動していた。ウェールズ語のレコードを地元のレコード会社、カンブリアンからいくつか出している。
グループが解散してしばらくしたのち、ホプキンのエージェントがタレント登竜門のテレビ番組として知られた『オポチュニティ・ノックス』に応募。ホプキンは合格し、1968年5月5日放送の回に出演。これを見たツイッギーがポール・マッカートニーに推薦し、ホプキンはビートルズのアップル・レコードの第1号アーティストしてデビューすることとなった。
マッカートニーがプロデュースしたシングル「悲しき天使 (Those Were the Days)」は、1968年8月30日にイギリスで発表され、有名なスター、サンディ・ショーと競作する格好となったにもかかわらず、彼女の録音が全英シングル・チャートの首位に輝き、全米シングル・チャートでも第2位を射止めた。アップル所属時代は、その容姿や美声から「アップルの歌姫」と呼ばれた。
1969年1月30日から2月1日にかけて開催された第19回サンレモ音楽祭に出場し、カンツォーネの「瞳はるかに」を歌った。同曲は2位を獲得した。
同年2月21日、やはりマッカートニーのプロデュースによるアルバム第1作『ポスト・カード』を発表。アルバム・セッションに参加したドノヴァンから3曲をカヴァーしているほか、ジョージ・マーティンやハリー・ニルソンの作品も1曲ずつカバーしている。
同年3月28日、レノン=マッカートニー作詞・作曲(実際はマッカートニー単独の作品)の「グッドバイ (Goodbye)」をシングル第2作として発表し、全英シングルチャートで第2位に輝いた(当時の第1位はビートルズの「ゲット・バック」であった)。
シングル第3作には、ドリス・デイの著名な曲「ケ・セラ・セラ (Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be))」をマッカートニーが用意して新たなリフレインを書き足し、レコーディングが行われた。だが完璧なポップソングとして仕上がっていたため、ホプキン側が発売に難色を示し、結果、ミッキー・モストのプロデュースによる「夢みる港(Temma Harbour)」に変更された。発売は1970年1月16日。この一件によりマッカートニーとの関係は悪化し、以降マッカートニーはホプキンのプロデュースから撤退する。
1970年3月20日にシングル第4作「しあわせの扉 (Knock, Knock Who's There?)」を発表し、再び全英シングル・チャート第2位を獲得。同年、英国を代表してユーロビジョン・ソング・コンテストに出場した。アイルランドの歌手ダナに敗れるも同曲によって第2位を獲得した。同年7月に来日して大阪万博にも出場し、その美声を響かせた。
1971年には、アルバム第2作『大地の歌 (Earth Song/Ocean song)』を発表。メジャーデビュー以前の音楽性であったブリティッシュ・フォークの香りが漂う作品となり、当人もこのアルバムで、メジャーデビュー後初めて自らの音楽性との合致点を見いだしたという。同年、「大地の歌」をプロデュースしたトニー・ヴィスコンティと結婚してからは音楽界を引退し、ほとんど主婦業に務めたが、バート・ヤンシュの『ムーンシャイン』(1973年)、デヴィッド・ボウイの『ロウ』(1977年)といった、夫ヴィスコンティが関与したアルバムのレコーディングに参加したこともある。1981年にヴィスコンティと離婚。なお、ヴィスコンティとの間に生まれた娘ジェシカ・リー・モーガンは2010年に歌手デビューしている。
ヴァンゲリスによる映画『ブレードランナー』のサウンドトラックで、「Rachel's Song」を歌っている。2005年には、ドリー・パートンのアルバム『Those Were the Days』にも参加している。
ロシア語原曲
原曲は、コンスタンツィン・ポドレフスキー(Константин Николаевич Подревский、1889年〜1930年)の詩に、ボリス・フォミーン(Борис Иванович Фомин, 1900年〜1948年)がクレズマーないしはジプシー音楽の様式で曲づけした歌「Дорогой длинною」(「長い道」)である。1910-1920年ごろの作品とされる。歌詞の内容は、昔の思い出を懐かしみ感傷に浸っている様子を描いたものである。
初期のころの録音としては、タマーラ・ツェレテリ (Тамара Семёновна Церетели)の版(1925年)や アレクサンドル・ヴェルティンスキー(ロシア語版)(Вертинский, Александр Николаевич)の版(1926年)が知られる。
英語版
「悲しき天使」は、しばしば、イギリスで活躍したアメリカ合衆国出身の歌手、ジーン・ラスキンの作詞作曲と紹介されている。これは「Дорогой длинною」がソビエト連邦からの亡命者によって欧米に広められるうち、いつしか作者不詳の「ロシア民謡」と呼ばれるようになり、その後1962年にラスキンが英語版を編曲し自作として発表したために、ラスキンの作品と呼ばれるようになったためとされる。
1968年にポール・マッカートニーが、当時18歳のフォーク歌手メリー・ホプキンをプロデュースして「悲しき天使」のシングルを発表。国際的にヒットし、その後さらにスペイン語版、ドイツ語版、ヴィッキーによるフランス語版(「Le Temps des fleurs」、但し邦題は「悲しき天使」のまま)もリリースされた。なお、シングル盤の「悲しき天使」は、アップル・レコードから発売された最初のレコードであり、B面にはピート・シーガーのカバー「ターン・ターン・ターン」が収録されている。また、この曲はホプキンのアルバム『ポスト・カード』(1969年)のアメリカ盤LPや再発CDにも収録された。
原題「Those were the days」は、「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」という意味であり、歌詞は、壮年期の人間が青春時代を思い返してロマンティックに美化している場面を描いている。また邦題の「悲しき天使」については、日本で発売された当時、外国の楽曲に邦題を付ける際の常套手段として、「悲しき…」や「恋の…」といった言葉を冠していたことによるものであり、英語歌詞の内容とは特に関係はない。
2005年にはドリー・パートンがメリー・ホプキンとともにこの曲をカバーし、同名のアルバム『Those Were the Days』に収録した。
(Wikiより)
Mary Hopkin - Those Were The Days - 1968
メリー・ホプキン(Mary Hopkin, 1950年5月3日 - )は、ウェールズ出身の英国の歌手
略歴
ウェールズのポントアルダウエ(Pontardawe)に生まれた。ウェールズ語を母語に育つ。メジャー・デビューする前はフォーク・グループ「ザ・セルビー・セット・アンド・メリー」のメンバーとして活動していた。ウェールズ語のレコードを地元のレコード会社、カンブリアンからいくつか出している。
グループが解散してしばらくしたのち、ホプキンのエージェントがタレント登竜門のテレビ番組として知られた『オポチュニティ・ノックス』に応募。ホプキンは合格し、1968年5月5日放送の回に出演。これを見たツイッギーがポール・マッカートニーに推薦し、ホプキンはビートルズのアップル・レコードの第1号アーティストしてデビューすることとなった。
マッカートニーがプロデュースしたシングル「悲しき天使 (Those Were the Days)」は、1968年8月30日にイギリスで発表され、有名なスター、サンディ・ショーと競作する格好となったにもかかわらず、彼女の録音が全英シングル・チャートの首位に輝き、全米シングル・チャートでも第2位を射止めた。アップル所属時代は、その容姿や美声から「アップルの歌姫」と呼ばれた。
1969年1月30日から2月1日にかけて開催された第19回サンレモ音楽祭に出場し、カンツォーネの「瞳はるかに」を歌った。同曲は2位を獲得した。
同年2月21日、やはりマッカートニーのプロデュースによるアルバム第1作『ポスト・カード』を発表。アルバム・セッションに参加したドノヴァンから3曲をカヴァーしているほか、ジョージ・マーティンやハリー・ニルソンの作品も1曲ずつカバーしている。
同年3月28日、レノン=マッカートニー作詞・作曲(実際はマッカートニー単独の作品)の「グッドバイ (Goodbye)」をシングル第2作として発表し、全英シングルチャートで第2位に輝いた(当時の第1位はビートルズの「ゲット・バック」であった)。
シングル第3作には、ドリス・デイの著名な曲「ケ・セラ・セラ (Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be))」をマッカートニーが用意して新たなリフレインを書き足し、レコーディングが行われた。だが完璧なポップソングとして仕上がっていたため、ホプキン側が発売に難色を示し、結果、ミッキー・モストのプロデュースによる「夢みる港(Temma Harbour)」に変更された。発売は1970年1月16日。この一件によりマッカートニーとの関係は悪化し、以降マッカートニーはホプキンのプロデュースから撤退する。
1970年3月20日にシングル第4作「しあわせの扉 (Knock, Knock Who's There?)」を発表し、再び全英シングル・チャート第2位を獲得。同年、英国を代表してユーロビジョン・ソング・コンテストに出場した。アイルランドの歌手ダナに敗れるも同曲によって第2位を獲得した。同年7月に来日して大阪万博にも出場し、その美声を響かせた。
1971年には、アルバム第2作『大地の歌 (Earth Song/Ocean song)』を発表。メジャーデビュー以前の音楽性であったブリティッシュ・フォークの香りが漂う作品となり、当人もこのアルバムで、メジャーデビュー後初めて自らの音楽性との合致点を見いだしたという。同年、「大地の歌」をプロデュースしたトニー・ヴィスコンティと結婚してからは音楽界を引退し、ほとんど主婦業に務めたが、バート・ヤンシュの『ムーンシャイン』(1973年)、デヴィッド・ボウイの『ロウ』(1977年)といった、夫ヴィスコンティが関与したアルバムのレコーディングに参加したこともある。1981年にヴィスコンティと離婚。なお、ヴィスコンティとの間に生まれた娘ジェシカ・リー・モーガンは2010年に歌手デビューしている。
ヴァンゲリスによる映画『ブレードランナー』のサウンドトラックで、「Rachel's Song」を歌っている。2005年には、ドリー・パートンのアルバム『Those Were the Days』にも参加している。
ロシア語原曲
原曲は、コンスタンツィン・ポドレフスキー(Константин Николаевич Подревский、1889年〜1930年)の詩に、ボリス・フォミーン(Борис Иванович Фомин, 1900年〜1948年)がクレズマーないしはジプシー音楽の様式で曲づけした歌「Дорогой длинною」(「長い道」)である。1910-1920年ごろの作品とされる。歌詞の内容は、昔の思い出を懐かしみ感傷に浸っている様子を描いたものである。
初期のころの録音としては、タマーラ・ツェレテリ (Тамара Семёновна Церетели)の版(1925年)や アレクサンドル・ヴェルティンスキー(ロシア語版)(Вертинский, Александр Николаевич)の版(1926年)が知られる。
英語版
「悲しき天使」は、しばしば、イギリスで活躍したアメリカ合衆国出身の歌手、ジーン・ラスキンの作詞作曲と紹介されている。これは「Дорогой длинною」がソビエト連邦からの亡命者によって欧米に広められるうち、いつしか作者不詳の「ロシア民謡」と呼ばれるようになり、その後1962年にラスキンが英語版を編曲し自作として発表したために、ラスキンの作品と呼ばれるようになったためとされる。
1968年にポール・マッカートニーが、当時18歳のフォーク歌手メリー・ホプキンをプロデュースして「悲しき天使」のシングルを発表。国際的にヒットし、その後さらにスペイン語版、ドイツ語版、ヴィッキーによるフランス語版(「Le Temps des fleurs」、但し邦題は「悲しき天使」のまま)もリリースされた。なお、シングル盤の「悲しき天使」は、アップル・レコードから発売された最初のレコードであり、B面にはピート・シーガーのカバー「ターン・ターン・ターン」が収録されている。また、この曲はホプキンのアルバム『ポスト・カード』(1969年)のアメリカ盤LPや再発CDにも収録された。
原題「Those were the days」は、「あの頃はよかった・あの頃がなつかしい」という意味であり、歌詞は、壮年期の人間が青春時代を思い返してロマンティックに美化している場面を描いている。また邦題の「悲しき天使」については、日本で発売された当時、外国の楽曲に邦題を付ける際の常套手段として、「悲しき…」や「恋の…」といった言葉を冠していたことによるものであり、英語歌詞の内容とは特に関係はない。
2005年にはドリー・パートンがメリー・ホプキンとともにこの曲をカバーし、同名のアルバム『Those Were the Days』に収録した。
(Wikiより)