2019年3月、芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。ほんとにほんとにおめでとうございます。島根の出身ということもあって、ずっと応援していました。以下の紹介は不十分ですが、延々と続くので、途中で略させていただきました。デビュー当時の唄は通勤途上テープでいつも聴いていました。すごい、すごい島根もすごい、と誇らしく思っていました。
竹内 まりや feat. 山下 達郎 (Takeuchi Mariya) - 家に帰ろう ~マイ・スイート・ホーム~ (Uchi ni Kaerou ~My Sweet Home~)
竹内 まりや(たけうち まりや、1955年3月20日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン。通称「シンガーソング専業主婦」。本名:山下 まりや(旧姓:竹内)。所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。所属事務所はスマイルカンパニー。
島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身で、実家は1877年創業の老舗旅館、竹野屋旅館。父親は実業家・元大社町長である竹内繁蔵。6人兄弟の三女。夫はシンガーソングライター・ミュージシャンの山下達郎。山下との間に一女がいる。血液型はA型。
年少時代 - デビュー直後
島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身。生家は出雲大社正門前に位置する老舗旅館『竹野屋旅館』。4女2男の6人兄弟の三女。世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられる。
高等学校在学中に、AFS交換留学制度によりアメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学。
高校卒業後は慶應義塾大学文学部の英文学科へ進学。在学中に音楽サークル「リアル・マッコイズ」に所属。リーダーは杉真理だった。このサークルで竹内は鈴木慶一の従妹らとともにバックコーラスを担当。杉の作ったバンド「ピープル」でキーボードとコーラスを担当し、第8回ポプコン関東・甲信越大会(1974年9月7日中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で参加しているが、同大会には別グループとして佐野元春(バックレイン元春セクション)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードイン、後に松任谷正隆の経営する音楽学校講師を務める)も参加していた。
1978年、ビクターより発売された『ロフト・セッションズ(1)』に參加。「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモ・オンリーの7インチシングル盤でシングル・カットされた。
1978年11月25日にRCA/RVCよりシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』でデビュー。アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスもあいまってアイドル歌手のような役割を担った。大学では英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり留年。のち、1979年のシングル「SEPTEMBER」で第21回日本レコード大賞新人賞を獲得、1980年のシングルで資生堂化粧品CMソングとなった「不思議なピーチパイ」などがヒットする。当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていたが、これに飽き足らず自らも作詞・作曲を手がけるようになった。
この頃にアレンジャーとして竹内の前に現れたのが、後に公私にわたるパートナーとなる山下達郎である。もっとも、デビュー以前からシュガー・ベイブや山下のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た山下のライブには大きなインパクトを受けたという。当初、山下は竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用されたが、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際しては、双方がコーラスに起用されるなど、その関わりは密になっていった。
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。(以下略「Wikipedia」より)
竹内 まりや feat. 山下 達郎 (Takeuchi Mariya) - 家に帰ろう ~マイ・スイート・ホーム~ (Uchi ni Kaerou ~My Sweet Home~)
竹内 まりや(たけうち まりや、1955年3月20日 - )は、日本のシンガーソングライター、ミュージシャン。通称「シンガーソング専業主婦」。本名:山下 まりや(旧姓:竹内)。所属レコード会社はワーナーミュージック・ジャパン。所属事務所はスマイルカンパニー。
島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身で、実家は1877年創業の老舗旅館、竹野屋旅館。父親は実業家・元大社町長である竹内繁蔵。6人兄弟の三女。夫はシンガーソングライター・ミュージシャンの山下達郎。山下との間に一女がいる。血液型はA型。
年少時代 - デビュー直後
島根県簸川郡大社町(現出雲市)出身。生家は出雲大社正門前に位置する老舗旅館『竹野屋旅館』。4女2男の6人兄弟の三女。世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられる。
高等学校在学中に、AFS交換留学制度によりアメリカ・イリノイ州のロックフォールズ・タウンシップ・ハイスクールに留学。
高校卒業後は慶應義塾大学文学部の英文学科へ進学。在学中に音楽サークル「リアル・マッコイズ」に所属。リーダーは杉真理だった。このサークルで竹内は鈴木慶一の従妹らとともにバックコーラスを担当。杉の作ったバンド「ピープル」でキーボードとコーラスを担当し、第8回ポプコン関東・甲信越大会(1974年9月7日中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で参加しているが、同大会には別グループとして佐野元春(バックレイン元春セクション)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードイン、後に松任谷正隆の経営する音楽学校講師を務める)も参加していた。
1978年、ビクターより発売された『ロフト・セッションズ(1)』に參加。「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモ・オンリーの7インチシングル盤でシングル・カットされた。
1978年11月25日にRCA/RVCよりシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』でデビュー。アイドル不在の時期と重なったため、当初はそのルックスもあいまってアイドル歌手のような役割を担った。大学では英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり留年。のち、1979年のシングル「SEPTEMBER」で第21回日本レコード大賞新人賞を獲得、1980年のシングルで資生堂化粧品CMソングとなった「不思議なピーチパイ」などがヒットする。当初は安井かずみ・加藤和彦夫妻や松本隆などが提供する曲を歌っていたが、これに飽き足らず自らも作詞・作曲を手がけるようになった。
この頃にアレンジャーとして竹内の前に現れたのが、後に公私にわたるパートナーとなる山下達郎である。もっとも、デビュー以前からシュガー・ベイブや山下のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た山下のライブには大きなインパクトを受けたという。当初、山下は竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用されたが、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際しては、双方がコーラスに起用されるなど、その関わりは密になっていった。
竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾といった作家が提供している。(以下略「Wikipedia」より)