とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

私と創作

2011-01-10 23:19:00 | 日記
私と創作




フーコー「短編小説」傑作選・月華の歌君


 次の文章は私のHPに掲載しているものに多少加筆したものです。

 私は、学生時代に文藝研究会のサークル活動に参加し、初めは俳句を作っていました。昭和37年の頃です。というと歳がばればれですね。島根の安来市から発行されている『地帯』というかっちりした同人誌の主催者福島小蕾氏に添削指導も受けていました。いいものになればその雑誌に載せていただきました。
 大学の仲間と文学活動をしているうちに、先輩から、「君は、ずっと俳句を続けるの? 小説書いてみない?」と誘われました。何? 小説? 私は随分とまどいました。仲間のほとんどが小説派だったのです。小説を書かないと肩身が狭いという状況でした。
 そこで、一念発起して、自伝小説「紅いもの」という作品を書きました。これが、いい評価を受けて、新聞部が発行している大学新聞で取り上げられました。このことが私を刺激し、方向を決定付けてしまいました。それから、どんどん、……いや、道は険しかったのですが……、書き進め、卒業してからも書き続けました。いろいろな文学賞にも何度も応募しました。
 しかし、現実はそう甘くないです。賞と名の付くものは、島根県の文藝コンクールだけで、中央の賞は惜しいところで逸していました。予選で最高レベルが太宰治賞でした。1次予選通過から出発し、年々レベルアップし、「年の瀬に」という120枚くらいの私小説で3次予選を通過しました。第12回太宰治賞でした。通過したのは、11作。次の第4次選考で、最終候補3作に絞られました。惜しくも私の作品は最終候補を逸しました。
 その悔しさを忘れることなく、書きつづけましたが、筑摩書房の経営が怪しくなり、太宰賞を設けている『文藝展望』が廃刊となり、賞も無くなりました。
 その間、地元出雲市で、『出雲文学』を仲間と創刊し、活動を続けていましたが、発起人の私が不調となり、休刊に追い込んでしまいました。同人諸氏に申し訳ないと思っています。
 で、その後、休筆の時期が長く続きました。しかし、かつての同人Y氏とともにウエブ同人誌『座礁』を立ち上げました。そして、現在に至っています。
 そのページに発表した「かもしれない」という作品を、新風舎主催の「フーコー短編小説コンテスト」に応募しました。結果は、またまた落選!! しかし、その後、応募作品の数を知って私は納得しましたが、残念無念というショックは大きかったのです。もう、賞は諦めて、こつこつと地道に書くしかないと思っていました。ところへ、新風舎からお誘いを受け、『フーコー短編小説傑作集17・月華の歌君』に載せていただくことになりました。
めでたし、めでたし。
 この作品は、ある男が、子どものとき、ある少女に恋をして、二人はデートを重ねるうち、ふとしたきっかけで女性の物凄い一面を見てしまいます。そのことが元になり、女性不信感が募り、故郷を離れます。それから数十年経って、その女性から長い手紙を受け取ります。交通事故で、もう余命僅かということが書いてあり、「……お詫びします」とも書いてありました。
 男は、閉所恐怖症で、電車は大の苦手ですが、意を決して故郷に旅立ちます。そして、そのかつてのデートの現場に佇んで、昔を思い出します。そして、入院先を探し当てて、その病院に行き、面会を申し込みます。ところが……。
 この続きは、書きません。気を持たせて申し訳ありません。興味を持たれたお方は、出来ましたら購入いただきたいと存じます。その後新風舎が倒産し、この本の販売は現在Amazonのサイトで行っています。また、その後の太宰治賞ですが、幸い筑摩書房と三鷹市の共催で、復活しました。再び挑戦しようという気持ちだけは失っていません。今に、・・・。


豪雪ーー承前

2011-01-07 23:24:57 | 日記
豪雪ーー承前





 私は、この度の山陰地方、特に島根の松江、安来地区、鳥取の境港、米子地区の積雪についての情報の収集が遅れました。ですから、斐川町とか出雲市周辺の積雪だけを見て軽く判断していました。ここに深くお詫び申し上げます。
 新聞、テレビなどの情報をずっと私は見ていました。なんということでしょう!! 今回の積雪による自然災害は深刻きわまる状況です。停電、船の沈没、ビニール・ハウスの倒壊、道路への倒木、送電の鉄塔の倒壊、寺院の墓石の倒壊、畑作物の被害、交通麻痺等々挙げればきりがないほど被害がでました。被害相当額は億単位とか。この異常な積雪は、日本海の海水温が夏の異常な暑さのために平年より1℃上がっていることにあるそうです。そのため湿った空気が日本海沿岸の地方に溜まっていて、そういう上空に北から寒気が続けて押し寄せ、重い雪が繰り返し振ったそうです。この気象状況は今後も続くとか。ああ、残酷極まる事態です!! 被害で苦しんでおられる方々に衷心よりお見舞い申し上げます。
 徐々に復旧しているようですが、次々と続く降雪、寒波の中でままならぬ状況のようです。こういうときにこそ市町村相互の助け合いが必要となってきます。また、県とか国の資金援助も必要です。
 私は松江の親戚から電話を受け、被害状況の一部を知ることができ、驚きました。しかし、私にはどうすることも出来ません。ただ、一日も早い復旧を祈るだけです。安易に考えていて申し訳ないと思っています。
 

おめでとう !!・・・そして、目出度くないこと

2011-01-01 00:45:49 | 日記
おめでとう !!・・・そして、目出度くないこと



 明けましておめでとうございます。
 私も忙しい年末を過ごし、こうして「生きて」新年を無事迎えることができました。ありがたいと思っています。生きて越年したからには今年も懸命に這いずり回って「生きて」いきたいと思っています。
 今年はまた新しい自分を発見して精神世界を開拓したいと思います。とにかくいろいろなことをしながら試行錯誤で掴んでいきます。ささやかな仕事、ささやかなもの書き、ボランティア、その他もろもろの雑務。そうです、それに伴う人間関係の円滑化。こんな平凡な営為を今年も続けていきます。その中で何かが掴めれば幸いです。その一部をこのブログに書き込みできるといいなと思っています。どうかよろしくお願い申し上げます。
 さて、目出度くないこととは、ということになりますが、それは先ず、雪です。雪は瑞兆などとロマンチックに考えていてはとんでもないことになると思いました。具体的には大山での雪崩による遭難です。死者が出ました。それから国道9号線での車の渋滞。病人も出たとか。はたまた山陰線では電車が動けなくなりました。○○新聞は夕方の現段階でも届いていません。
 私の子どもの頃の積雪は、当出雲地方では量的にはこういう状態に近かったと思います。しかし、異常気象に加えて世の中の物理的・社会的・経済的な諸条件の総合的な変化が、こういう自然災害に拍車をかけることになったのだと思います。
 それに「デコちゃん」の死。ごめんなさい。元日早々から死だなんて。
 しかし、私は、何だか非常に寂しくなったのであります。まあ、究極の教師像が影だけになったような感じですね。

 
 日本映画を代表する女優で、「二十四の瞳」などに主演した高峰秀子さん(本名・松山秀子さん)が肺がんのため、28日に都内の病院で死去していたことが31日、分かった。86歳だった。代理人の弁護士が明らかにした。
(デイリースポーツオンライン)


 1924年、北海道函館市に生まれた高峰さんは、映画「母」(29年)で子役デビューしました。その後日本映画黄金期の作品に数多く出演しました。代表作は木下恵介監督の「二十四の瞳」(54年)、成瀬巳喜男監督「浮雲」、「喜びも悲しみも幾歳月」(57年)などです。「銀座カンカン娘」(49年)の主題歌も唄い、大ヒットしました。
 戦中生まれの戦後育ちの私は、1940年代以降の作品しか知りません。記憶を辿ると、私は、あの「銀座カンカン娘」の唄を子どものころラジオで聞き覚え、口ずさんでいました。

 銀座カンカン娘(佐伯孝夫 作詞 服部良一 作曲)


あの娘可愛や カンカン娘
赤いブラウス サンダルはいて
誰を待つやら 銀座の街角
時計ながめて そわそわにやにや
これが銀座の カンカン娘


雨に降られて カンカン娘
傘もささずに 靴までぬいで
ままよ銀座は 私のジャングル
虎や狼 恐くはないのよ
これが銀座の カンカン娘


指をさされて カンカン娘
ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家がなくても お金がなくても
男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘


 私は、歌詞の「カンカン娘」というところの曲調に非常にぞくぞくするような快感を覚えていました。ませていたのかも知れません。その時は、唄っている高峰秀子という俳優の名前はあまりよく知りませんでした。
 私に決定的な強烈な印象を与えたのが「二十四の瞳」です。小豆島の岬の分教場で初めて受け持ちの子どもたちの名前を一人ひとり呼んで、一言ずつ声をかけるシーンが新鮮で印象的でした。
 その後、同窓会で再会した生徒たちはすっかり大人になっていました。その中で戦争で失明した教え子が、子どものころの記念撮影の写真を見て、一人ひとり指差して名前を言う場面もとても記憶の底に焼きついています。師弟関係とは何か。教育とは何か。戦争はいかに人間を蝕んでいくか。そういう重いテーマを分かりやすく教えてくれました。壺井栄の原作も読んで、いっそう私はその作品が好きになり、何度も映画館に通いました。かくして、その映画は高峰秀子を理想の教師像として私に印象付けました。
 最後に、『Wiki』から著作権が切れている写真として紹介してあった画像をここで借用させていただき、私の当時の感動を思い起こすよすがとしたいと思います。


 
 高峰秀子さんのご冥福を心から祈りたいと思います。ありがとうございました。