とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 615 林家三平(初代):四天王を斬る

2019-03-14 16:19:06 | 日記
いやいや、とにかく破格の面白さだった。筋に一貫性があるようなないような。脱線、脱線また脱線。そこが味の素。こんな噺家は空前絶後。「そこの後ろの方、もっと笑って下さいよ」というようなアドリブも印象に残っています。


林家三平(初代):四天王を斬る



初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。
東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。


来歴・人物

1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵こと本名海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。

1945年3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられるが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。

復員後、本名を海老名泰一郎に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役。明大明治中学校を経て、明治大学入学。
1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。

1949年10月20日、父正蔵死去。芸界の孤児となる。同年、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
1950年4月22日、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
1951年3月、二つ目昇進。

1952年、妻・香葉子と結婚。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1か月の入院生活を送る。このころ、父正蔵から相続した土地を半分手放す。
1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。
1954年、文化放送「浪曲学校」司会。

1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。
1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。

1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。
1961年1月17日、第二子・泰葉生まれる。
1962年12月1日、第三子・泰孝(後の9代目林家正蔵)生まれる。待望の長男誕生であった。

1965年、日本テレビ「踊って歌って大合戦」司会。
1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。
1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。
1970年12月11日、第四子・泰助(後の2代目三平)が、末っ子として生まれる。

1975年 - 1976年、フジテレビ『三平・美どりのドキドキ生放送』を娘・美どりと司会。
1978年5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りする。
1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[3]。

1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった。
1980年9月18日、肝臓癌で入院した。
1980年9月20日、死去。54歳没。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵、当時はこぶ平)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取った。最後の言葉は泰孝に対する「なんでもまじめにやれよ」であった。法名は、志道院釋誠泰。墓所は父と同じ足立区常福寺。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」614 小さなスナック パープルシャドウズ

2019-03-13 16:34:54 | 日記
「小さなスナック」という語句に昭和を感じさせます。学生時代を思い出します。この唄の昭和43年というと私は卒業していますが、学生時代、いろいろありました。人生で一番楽しく充実しているころでした。また、ほろ苦い思い出もいろいろありました。・・・そういう昔に返りたい !?  いや、正直躊躇しますね。

小さなスナック パープルシャドウズ



パープル・シャドウズ(Purple Shadows)は、1968年結成のグループ・サウンズのバンドである。


概要

1968年の結成当時、グループ・サウンズ人気は既に下降線をたどり始めていたが、他のグループ・サウンズとは異なるムード歌謡的な曲調の「小さなスナック」の大ヒットを飛ばす。だがその後はヒット曲に恵まれなかった。その後メンバーの脱退・加入を繰り返し、1980年代には「今井久&パープル・シャドウズ」名義で活動した。

ハワイアン的なムード歌謡風の曲調が特徴。今井のギターをフィーチャーしたインスト・アルバムも発売された。
岡村はその後RVC→BMGビクターでプロデューサー・ディレクターとして活動し、レイジー・西城秀樹・角松敏生などを担当した。

それから10年後の1979年、ロス・インディオス&シルヴィアがカバー・シングルとして発売、翌1980年に掛けて大ヒットとなった「別れても好きな人」は、パープル・シャドウズが本家であった。元はシャッフルのリズムだったが、ロス・インディオス&シルヴィアのカバー・バージョンは、一部歌詞の地名を変更(青山→原宿、狸穴→高輪など)落ち着いたムード歌謡曲調にアレンジし直されている。

2012年1月24日、NHK歌謡コンサート(NHK総合)に出演し、「小さなスナック」を披露。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」613 森山加代子 白い蝶のサンバ

2019-03-10 00:53:40 | 日記
「かよチャン」がなくなった。ああ、また昭和が消えました。私にとってはタイプと言った歌手でした。とにかく可愛いという感じで視ていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


森山加代子 白い蝶のサンバ




概略

1960年代は洋楽をベースとしたコミカルなイメージのカバー曲を中心に数多くのヒットソングを歌い、1970年代に入ってからは「白い蝶のサンバ」の歌謡曲が大ヒットした。ニックネームは「かよチャン」。

1958年夏、札幌のジャズ喫茶『ロータリー」で歌っていたところを、マナセプロダクション社長の曲直瀬正雄にスカウトされて上京する。水原弘率いる『水原弘とブルーソックス』の専属シンガーとなる。1959年12月の日劇ウエスタンカーニバルに初出場。

1960年6月、イタリアの歌手ミーナ(英語版)の『月影のナポリ』(Tintarella di luna)の日本語カバーでレコード・デビュー。『月影のナポリ』は50万枚を売り上げて、いきなりの大ヒットとなる。続く『メロンの気持』『月影のキューバ』などヒットを連発。また新人としては異例の早さで同年の『第11回NHK紅白歌合戦』に初出場。以降『じんじろげ』『パイのパイのパイ』など歌謡曲やカバー曲で数々のヒットを飛ばす。特に1961年リリースの作詞渡舟人、作曲中村八大の『じんじろげ』は、その年の流行語になる。その後は、クラブやジャズ喫茶でライブ中心の活動をしていた。

1970年にリリースした作詞阿久悠、作曲井上かつおの『白い蝶のサンバ』は、早口言葉のような出だしのサンバの軽快なリズムにのせた純国産のポップな歌謡曲で、大ヒットしてミリオンセラーとなる。前年、出演中の新潟のクラブの楽屋にやって来た水原弘に、もう一度メジャーでやってみないかと励まされ、数曲の候補曲の中から森山自身が選定し再起を期してリリースしたのが『白い蝶のサンバ』である。この曲でこの年の『第21回NHK紅白歌合戦』に、8年振り4度目の出場。

1972年マネジャーと結婚。その後も、舞台やショーで歌手として活動する。
2012年3月13日、「NHK歌謡コンサート」(NHK総合)に出演。同2012年10月4日放映の「名曲ベストヒット歌謡」(テレビ東京)に出演し『月影のナポリ』を歌唱。同2012年10月11日、ゆうぽうとで開催された「秋の歌謡フェスティバル」に出演した。
2019年3月6日、大腸癌のために亡くなった。78歳没。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」612 グッド・ナイト・ベイビー ザ・キングトーンズ 

2019-03-04 16:48:57 | 日記
豊穣の昭和。そういう言葉を感じさせるグループです。とても活動範囲が広い。声質が素晴らしい。メンバーの入れ替わりがあったものの息の長い活動を続けました。・・・とても快感。いい気持ちにさせますね。底に哀しみも蓄えています。

グッド・ナイト・ベイビー ザ・キングトーンズ UPC‐0103


ザ・キング・トーンズ(ザ・キングトーンズ、THE KING TONES、THE KINGTONES)は、1960年2月から活動する4人編成の日本の音楽グループである。『グッド・ナイト・ベイビー』『暗い港のブルース』などの代表曲をもつ一方、1950年代後半から1960年代前半の曲を歌い、ドゥー・ワップのコーラス・スタイルを結成以来堅持し続けている。またライチャス・ブラザーズ、オーティス・レディングの曲や、プラターズの「煙が目にしみる」「オンリー・ユー」など洋楽カバーも多い。


経歴

1958年6月、内田正人が中心となって、アマチュア・コンテストなどを通じて知り合った成田邦彦、石井迪、加生スミオとともにプラターズスタイルのコーラスグループを結成。プラターズに倣い、女性ヴォーカリスト(アルト)として佐藤サエコ(愛称・さーちゃん)を加えた5人でザ・ファイブ・トーンズとして音楽活動をスタート。

1960年2月1日、佐藤がハードスケジュールで体調を崩し脱退したため、内田・成田・石井・加生の4人で現行グループ名に改めて再スタート。後にドゥー・ワップと呼ばれる、R&Bテイストを主体としたコーラスワークと、ハイトーンのリードテナーが評判となり、NHKオーディション合格を機に放送メディアに進出する一方、活動拠点の米軍キャンプではプラターズ(1961年12月)、アル・アルバーツ(1962年6月)、トニー・ウィリアムズ(同)、ルー・ロウルズらと共演、年間最優秀賞ゴールデントリイを受賞。また、藤木孝『小さい悪魔』(テイチク NS-446)、田代みどり『彼氏の気持ちはワークワク』(同 NS-537)、三村和子『ブンガチャ人生』(同 NS-584)ほか多くの楽曲のレコーディングにバックコーラスで参加する。

1968年、日本人ロカビリー歌手の一部が、歌謡曲への転向を余儀なくされていた状況からレコードデビューには消極的だった。しかし、周囲の勧めに応じ日本グラモフォン(後のポリドールレコード)と専属契約を結び、「30歳の新人グループ」のキャッチコピーでメジャーデビュー。同年5月に発売された『グッド・ナイト・ベイビー』が年末から翌年春にかけて大ヒットを記録。1969年11月1日、ファースト・リサイタル「愛のノクターン」を東京厚生年金会館大ホールにて開催。12月7日、第2回日本有線大賞特別賞を受賞。12月31日、第20回NHK紅白歌合戦に出場。

1969年から1972年にかけて「NHKあなたのメロディー」でアマチュア音楽家の作品を、また1970年11月5日には合歓の郷屋内ホールで開催された第2回ポピュラーソングコンテストにゲスト出演し、出場作品を歌唱する。
1971年、ルー・ロウルズ(3月)やプラターズ(4月)とサンケイホールなどでステージ共演。5月に発売された『暗い港のブルース』が有線放送などを中心に話題となり、オリコンで19位まで上昇、彼らのセカンドヒットとなる。
1975年4月、エメロンクリームリンスCMソング『もううしろ姿』をシングル発売。5月、大瀧詠一からのオファーに応えてレコーディングに参加したアルバム『NIAGARA MOON』(エレック NAL-0002)が発売される。9月、結成15周年記念リサイタルを久保講堂にて開催。

1976年6月、東芝EMI(エキスプレス)より移籍第一弾『一度だけのディスコ』を発売。ほぼ同時期にNHKみんなのうたで『シンフォニック・バリエイション』を発表。
1978年4月、リサイタル「グッド・ナイト・ベイビーから10年…」を労音会館にて開催。10月16日、アルバム『レゼレクト 銀河からの帰還』発売を記念してライブハウス・新宿ルイードで「POPS 102曲マラソンコンサート」を開催。
1979年4月28日、リサイタル「FRESH 40s SING OLD DAYS HITS」を東京厚生年金会館にて開催。

1980年6月、結成20周年を機にSMS(サウンド・マーケティング・システム)に移籍。大瀧詠一プロデュースによるシングル盤『DOO-WOP! TONIGHT』を発売。7月4日、横須賀米軍基地内ベニーデッカー・シアターで開催された結成20周年記念公演をライブ録音。7月13日、京都市・円山野外音楽堂で開催された第8回宵々山コンサートに出場。10月18日、ニューヨーク・ブロードウェイのビーコンシアターで開催された「ROYAL NEW YORK DOO-WOP SHOW」に日本人グループとして初めて出場。帰国直後、よみうりホールを皮切りとした凱旋コンサートツァーを開催。

1981年6月10日、日比谷公会堂で開催された「R&B Night」にスペシャルゲストとして出演し上田正樹らと共演。7月、株式会社R&Bステーションを設立し小澤音楽事務所から独立。それと並行して5都市8公演が開催された第1回 JAPAN DOO-WOP CARNIVALに出演し、ドリフターズ、シュレルズらと共演。
1982年1月、新宿ルイードで開催された「第一回 R&B GRAFFITI NIGHT」に出演し、上田正樹やウシャコダらと、7月には同じく新宿ルイードでクリスタルズ、コースターズと共演する。12月、加生の脱退に伴って大川由加利が加入。
1983年、石井の脱退に伴って冨賀慎一郎が加入。3月27日、前年末より全ての音楽活動を休止して3ヶ月間に亘り連続8時間のレッスンを経た『新生キングトーンズ』の初ステージが新宿ルイードで開催される。

1987年8月、RVCに移籍。10月発売のアルバム『GOOD NIGHT BABY 1987』より先行シングルとして『グットナイトベイビー』を発売。シングル『今夜まで待てそうもない』もテレビで流された
1988年10月1日、芝・郵便貯金ホールで開催されたコンサートをライブ録音。初のCM出演となるガス会社CM12月20日より年末までTV・ラジオで集中オンエアされ、翌年5月にも再び放送される。
1989年11月より1年にわたって全国ホールコンサートツァーを開催。

1990年7月22日、結成30周年記念リサイタルを東京簡易保険会館(ゆうぽうと)で開催。12月、東京バナナボーイズのプロデュースによる「サントリー マテウスロゼ」CMソング『100万の想い出』をCDシングルで発売。カップリング曲には同年10月よりフジテレビ系で放送された平日午前の情報番組「奥さまお手をどうぞ!」の主題歌を収録。
1991年8月、メンバー全員によるア・カペラ映像を南紀白浜および那智勝浦で撮影した「和歌山県」イメージCMソングのCDシングル『WAKAYAMA』は当初地域限定で発売されたが、翌年5月に改めて全国リリースされる。9月、ザ・ヴィーナスのメインヴォーカリストだったコニーをゲストに迎えて全国コンサートツァーを再開。

1995年4月、かつて結成15周年記念企画として山下達郎と伊藤銀次が書き下ろした『DOWN TOWN』をはじめ、大沢誉志幸・佐野元春などニューミュージック系アーティストの作品を取り上げたアルバム『SOUL MATES』を発売。同月放送開始のNHK教育テレビ「むしむしQ」では声優兼コーラスグループキャラクター「ザ・クリケッツ」役で出演。
1997年1月、つのだ☆ひろのプロデュースによるCDシングル『I'M ON MY WAY』を発売、カップリング曲には『グッド・ナイト・ベイビー』のラップ・ヴァージョンが収録される。5月、大川に代わって石塚勇が加入。

1998年4月、前年10月1日より南果歩ときたろうの出演でシリーズ化して放送されていたウイスキーの歌『夕焼けレッドで帰りましょう』をシングルリリース。この後に冨賀に代わって川島豊が加入。7月25日より、第三期メンバー体制となって初のホールコンサートを開催。11月28日封切となった松竹制作の劇場映画「ショムニ」ではストリートミュージシャン役で出演、同作のサウンドトラック盤もリリースしている。

2000年10月7日、結成40周年記念コンサート「DOO-WOP SUPER LIVE」をル・テアトル銀座で開催。
2005年より3年連続でフジロックフェスティバルに出場。

2012年4月29日、ARABAKI ROCK FEST.12に「ザ・キングトーンズ featuring ジミー入枝」として出演。
2014年、二年半ぶりとなるコンサートが上田正樹とのジョイントで企画され、「ザ・キングトーンズ featuring ジミー入枝」として、10月5日に世田谷区民会館で開催された「第8回世田谷にみどりいっぱいチャリティ講演&コンサート」に出演、12月20日には深谷市民文化会館で「上田正樹&ザ・キングトーンズ スペシャル・ライブ」を開催。(「Wikipedia」より)

あちこち「SYOWA」611 水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 1980

2019-03-03 16:32:04 | 日記
「三歩進んで二歩下がる」。これは真実だ。五歩も六歩も下がることもある。奈落の底に落ちることもある。・・・これが人生と言うもの。そんなことを私に明るく諭してくれた唄です。


水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 1980



水前寺 清子(すいぜんじ きよこ、1945年10月9日 - )は、日本の女性演歌歌手、女優。本名は林田 民子(はやしだ たみこ)。身長158㎝、血液型O型。


略歴

前史…水前寺の父、林田壽は熊本市内で化粧品・洋品店を経営していたが、過大投資が祟って破綻し、一家は夜逃げ同然に「あさかぜ」で上京、歌のうまい民子に将来を託した。

1964年10月15日 『涙を抱いた渡り鳥』でデビュー。
1965年 NHK紅白歌合戦に初出場。以降、1986年まで22回連続出場。
1968年 『三百六十五歩のマーチ』が100万枚の大ヒット。翌1969年3月開催の第41回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用となる。

1969年 『真実一路のマーチ』で第11回日本レコード大賞大衆賞受賞。
1970年 ドラマ『ありがとう』(TBS) 主演
1981年 『有明けの海』で古賀政男記念音楽大賞、日本作詩大賞に入賞。
1989年 音楽家「小松明」と結婚。2月28日、水前寺公園の中の出水神社で挙式。
2000年 熊本市に老人ケアハウス「水清庵」を設立。また「水前寺清子一座」を旗揚げ、全国公演。

2005年 期間限定再集結聖飢魔IIのミサにゲスト出演し、聖飢魔IIの演奏で『三百六十五歩のマーチ』をデーモン閣下と歌唱。
2017年 第1回ももいろ歌合戦に出場。

デビュー前、芸名は「東京マリ」にしようと自分で考えていた(もともとポップス歌手志望だった)が、演歌歌手としてデビューすることになり、恩師である星野哲郎やレコード会社ディレクターの提案によって芸名が「水前寺清子」になった。また、星野の葬儀では弔辞を読み上げた。(「Wikipedia」より)