いやいや、とにかく破格の面白さだった。筋に一貫性があるようなないような。脱線、脱線また脱線。そこが味の素。こんな噺家は空前絶後。「そこの後ろの方、もっと笑って下さいよ」というようなアドリブも印象に残っています。
林家三平(初代):四天王を斬る
初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。
東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。
来歴・人物
1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵こと本名海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。
1945年3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられるが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。
復員後、本名を海老名泰一郎に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役。明大明治中学校を経て、明治大学入学。
1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。
1949年10月20日、父正蔵死去。芸界の孤児となる。同年、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
1950年4月22日、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
1951年3月、二つ目昇進。
1952年、妻・香葉子と結婚。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1か月の入院生活を送る。このころ、父正蔵から相続した土地を半分手放す。
1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。
1954年、文化放送「浪曲学校」司会。
1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。
1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。
1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。
1961年1月17日、第二子・泰葉生まれる。
1962年12月1日、第三子・泰孝(後の9代目林家正蔵)生まれる。待望の長男誕生であった。
1965年、日本テレビ「踊って歌って大合戦」司会。
1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。
1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。
1970年12月11日、第四子・泰助(後の2代目三平)が、末っ子として生まれる。
1975年 - 1976年、フジテレビ『三平・美どりのドキドキ生放送』を娘・美どりと司会。
1978年5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りする。
1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[3]。
1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった。
1980年9月18日、肝臓癌で入院した。
1980年9月20日、死去。54歳没。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵、当時はこぶ平)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取った。最後の言葉は泰孝に対する「なんでもまじめにやれよ」であった。法名は、志道院釋誠泰。墓所は父と同じ足立区常福寺。
同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。(「Wikipedia」より)
林家三平(初代):四天王を斬る
初代林家 三平(はやしや さんぺい、本名:海老名 泰一郎(えびな やすいちろう。旧名:栄三郎(えいざぶろう))、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。社団法人落語協会理事。
東京市下谷区(現在の東京都台東区)根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。
来歴・人物
1925年11月30日、7代目柳家小三治(後の7代目林家正蔵こと本名海老名竹三郎)と母・歌の長男として東京根岸に生まれる。海老名榮三郎と名づけられる。
1945年3月、本土決戦部隊として陸軍に徴兵される。土木作業への従事を経て肉弾特攻を命じられるが、終戦を迎えた同年10月、敗戦により兵長として復員。
復員後、本名を海老名泰一郎に改名。初舞台は松竹演芸場での通行人役。明大明治中学校を経て、明治大学入学。
1946年2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名柳家三平を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。
1949年10月20日、父正蔵死去。芸界の孤児となる。同年、かつて父の弟子だった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)門下に移る。二つ目である事実は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
1950年4月22日、5代目柳家小さん襲名トラブルの余波で、正蔵の名跡を貸して欲しいという騒動が起きた。
1951年3月、二つ目昇進。
1952年、妻・香葉子と結婚。仲人は3代目三遊亭金馬(東宝の父正蔵の同僚で、香葉子と中根の育ての親)。同年、病気で1か月の入院生活を送る。このころ、父正蔵から相続した土地を半分手放す。
1953年2月14日、第一子・美どり生まれる。
1954年、文化放送「浪曲学校」司会。
1955年、出口一雄により、KRテレビ(現:TBS)『新人落語会』(後に『今日の演芸』と番組名変更)の司会者に抜擢される。三平大ブームが巻き起こる。経済的に苦しい生活からテレビ界の寵児に一夜にして変身。以後、死ぬまで大スターであり続ける。
1957年10月中席、上野鈴本演芸場で、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)と共に、二つ目身分のままでトリを取る。
1958年10月、真打昇進(初代林家三平として)。口上は大師匠8代目桂文楽が務める。なお、この真打披露興行もKRテレビで生中継された。前座名である三平の名を一枚看板までに大きくし、初代林家三平の名を生涯貫く。
1961年1月17日、第二子・泰葉生まれる。
1962年12月1日、第三子・泰孝(後の9代目林家正蔵)生まれる。待望の長男誕生であった。
1965年、日本テレビ「踊って歌って大合戦」司会。
1967年、日本テレビ「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以後、1979年まで不定期に出演。私生活では家を新築。
1968年、落語協会(6代目三遊亭圓生会長)理事就任。終世、同職に。
1970年12月11日、第四子・泰助(後の2代目三平)が、末っ子として生まれる。
1975年 - 1976年、フジテレビ『三平・美どりのドキドキ生放送』を娘・美どりと司会。
1978年5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りする。
1979年正月、脳溢血で倒れて東京逓信病院に入院。1週間の昏睡を経て右半身が麻痺し、言語症が生じたがリハビリを重ね、10月に奇跡の復帰[3]。
1980年9月7日、上野鈴本演芸場が最後の高座になった。
1980年9月18日、肝臓癌で入院した。
1980年9月20日、死去。54歳没。妻・香葉子、長女・美どり、次女・泰葉、長男・泰孝(9代目正蔵、当時はこぶ平)、次男・泰助(2代目三平)、義兄・中根など家族・親族、一門弟子が見守る中息を引き取った。最後の言葉は泰孝に対する「なんでもまじめにやれよ」であった。法名は、志道院釋誠泰。墓所は父と同じ足立区常福寺。
同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子5代目月の家圓鏡(8代目橘家圓蔵)、7代目立川談志、5代目三遊亭圓楽、2代目三遊亭歌奴(現3代目三遊亭圓歌)らがいる。(「Wikipedia」より)