F 先生からの 2015年睦月 寒中見舞より
「"自分自身でありたい" というのは自分と向き合うことが大事なのでしょうか」
どうなのか?
そんなことを書いたかな? 一瞬、そんなことを思う。
どうも物覚えが悪くなった・・・と言いたいが、これは昨年以前からの話。
年頭と言うには、いかにも遅すぎるが、ともかく、今年初めてのブログ投稿。
皆様、本年も、相変わらずよろしくご指導のほどお願い申し上げます。
ということで・・・。
自分と向き合う? う~ん・・・ちょっと、何か違うな、と思う気持ちがある。
どちらかというと、自分と向き合うというよりは、自分をもっと活かしたい、解放したいという気持ちのほうが強い。
2015年1月15日 ちょっと前までは「成人の日」。
相変わらず、大人になりきれない私がいる。
子供のままかというと、無論、違っている・・・多分。
中途半端な化物。
何かになりたくて、自分の居場所が欲しくて、見かけだけは平静に、実際はもがきまくって・・・と言いたいが、もがき方すら分からずに、棒立ちの人生。
一雨来そうな曇り空。
左肩の痺れが一向に取れない。
まるで、私自身を象徴しているような気分にさせる。
当年とって68歳。 半年後は69歳、一年半で70に手が届く。
70でといって、何が変わるというわけでもないが、何とかしたい、何とかせねばという気がある。
何かせねばという気持ちと、今更何をという気持ちが競り合っている。
「自分の居場所」がはっきり見えなくなっている。
このまま、ここにいて良いのか?
この所、寒い日が続く。
頭の中まで悴んでくるようだ。
雨になったらしい。ザアザア降りではないが、路面がしっとり濡れている。
思いは伝わらねば意味がない。
伝えねば伝わらない。
歩かなければ目的地には着かない。
後一歩で成功でも、その一歩を進まねば成功することは出来ない。
「諦めなかった人だけに成功の可能性が残る。 無論、諦めなかったといっても成功するとは言い切れないのだが。」
死にそうでも、死にかけていても、生きていれば死なない。
考えたらごく当たり前なのだけれど、もともと正しい事ってのは、大抵当たり前のことだ。
落ち行く者の背中を強く押してやる。
今更迷うことはないだろう。
私、68歳、今更何をやろうというのか?
悪あがきはやめて、心静かに・・・などと、私らしくない!!
もう少しあがいてみるか、結果は知れているようなものだが・・・。
「私たち老人にとって現実はもはや生ではなく、死である。 その死を私たちはもう外部からくるのを待つのではなく、それが私たちの内部に住んでいることを知る。」
ヘルマン・ヘッセ
なるほど、私たち(?)老人は、すでに「死」を内包しているということなのか。
生き飽きた・・・?
1月18日(日)
いつの間にやら時が過ぎ、
あらゆるものが役立たず。
まだまだ今に、これからと
周りの人には言うものの
ほんとは自分で知っている。
ぼやっとだけれど、分かってる。
今更言っても、わめいても、どうにもならない独り言。
私の人生 これからは、止まることなくすり減るばかり。
仕事に出掛ける弟に嫉妬する惨めな老いぼれがいる。
このまま、ひたすら老いぼれていくのみか。
もっとも、今すぐに、もう一度前の会社に復職をしろと言われたら、ちょっと二の足を踏むかも知れない自分がいる。
今は、せめて「誰かの隣で」酒でも飲んでいたいというのが、正直な話だろう。
どこで道を間違えたのだろうか?
何か間違っている。
そう思う。
今更、何を言ってみても無駄なのは分かっている・・・と思っている。
何、68の老いぼれの、ただの愚痴。
一体、どこで道を間違ったのか?
この頃、時々考える。
私はどういう死に方をするのか?
いつ、どこで、どうやって・・・?
しかし、何はともあれ、どうせなら、誰もいないところで、一人、ひっそり死んでいくのがいい。
死んでまで、他人の手を煩わせたくはない。
そう思いつつ、一方で、いつも目の前で私を見つめている目が欲しい、そう思う私がいる。
人生、ちょっぴり、私の思っていたものと違っていたようだ。
今更やむを得ないことかも知れないが、こうやって過ぎゆく日々を見送るだけしか能がないのか?
積み重なっていく無為の時間。
この時刻をどう考えたら良いのだろうか?
誰か教えて欲しい。
年頭早々、泣き言、繰り言で始まってしまった。
まっ、こんな年があってもよかろう。
気を取り直して・・・
風来居士、今年もどうぞよろしく。
「"自分自身でありたい" というのは自分と向き合うことが大事なのでしょうか」
どうなのか?
そんなことを書いたかな? 一瞬、そんなことを思う。
どうも物覚えが悪くなった・・・と言いたいが、これは昨年以前からの話。
年頭と言うには、いかにも遅すぎるが、ともかく、今年初めてのブログ投稿。
皆様、本年も、相変わらずよろしくご指導のほどお願い申し上げます。
ということで・・・。
自分と向き合う? う~ん・・・ちょっと、何か違うな、と思う気持ちがある。
どちらかというと、自分と向き合うというよりは、自分をもっと活かしたい、解放したいという気持ちのほうが強い。
2015年1月15日 ちょっと前までは「成人の日」。
相変わらず、大人になりきれない私がいる。
子供のままかというと、無論、違っている・・・多分。
中途半端な化物。
何かになりたくて、自分の居場所が欲しくて、見かけだけは平静に、実際はもがきまくって・・・と言いたいが、もがき方すら分からずに、棒立ちの人生。
一雨来そうな曇り空。
左肩の痺れが一向に取れない。
まるで、私自身を象徴しているような気分にさせる。
当年とって68歳。 半年後は69歳、一年半で70に手が届く。
70でといって、何が変わるというわけでもないが、何とかしたい、何とかせねばという気がある。
何かせねばという気持ちと、今更何をという気持ちが競り合っている。
「自分の居場所」がはっきり見えなくなっている。
このまま、ここにいて良いのか?
この所、寒い日が続く。
頭の中まで悴んでくるようだ。
雨になったらしい。ザアザア降りではないが、路面がしっとり濡れている。
思いは伝わらねば意味がない。
伝えねば伝わらない。
歩かなければ目的地には着かない。
後一歩で成功でも、その一歩を進まねば成功することは出来ない。
「諦めなかった人だけに成功の可能性が残る。 無論、諦めなかったといっても成功するとは言い切れないのだが。」
死にそうでも、死にかけていても、生きていれば死なない。
考えたらごく当たり前なのだけれど、もともと正しい事ってのは、大抵当たり前のことだ。
落ち行く者の背中を強く押してやる。
今更迷うことはないだろう。
私、68歳、今更何をやろうというのか?
悪あがきはやめて、心静かに・・・などと、私らしくない!!
もう少しあがいてみるか、結果は知れているようなものだが・・・。
「私たち老人にとって現実はもはや生ではなく、死である。 その死を私たちはもう外部からくるのを待つのではなく、それが私たちの内部に住んでいることを知る。」
ヘルマン・ヘッセ
なるほど、私たち(?)老人は、すでに「死」を内包しているということなのか。
生き飽きた・・・?
1月18日(日)
いつの間にやら時が過ぎ、
あらゆるものが役立たず。
まだまだ今に、これからと
周りの人には言うものの
ほんとは自分で知っている。
ぼやっとだけれど、分かってる。
今更言っても、わめいても、どうにもならない独り言。
私の人生 これからは、止まることなくすり減るばかり。
仕事に出掛ける弟に嫉妬する惨めな老いぼれがいる。
このまま、ひたすら老いぼれていくのみか。
もっとも、今すぐに、もう一度前の会社に復職をしろと言われたら、ちょっと二の足を踏むかも知れない自分がいる。
今は、せめて「誰かの隣で」酒でも飲んでいたいというのが、正直な話だろう。
どこで道を間違えたのだろうか?
何か間違っている。
そう思う。
今更、何を言ってみても無駄なのは分かっている・・・と思っている。
何、68の老いぼれの、ただの愚痴。
一体、どこで道を間違ったのか?
この頃、時々考える。
私はどういう死に方をするのか?
いつ、どこで、どうやって・・・?
しかし、何はともあれ、どうせなら、誰もいないところで、一人、ひっそり死んでいくのがいい。
死んでまで、他人の手を煩わせたくはない。
そう思いつつ、一方で、いつも目の前で私を見つめている目が欲しい、そう思う私がいる。
人生、ちょっぴり、私の思っていたものと違っていたようだ。
今更やむを得ないことかも知れないが、こうやって過ぎゆく日々を見送るだけしか能がないのか?
積み重なっていく無為の時間。
この時刻をどう考えたら良いのだろうか?
誰か教えて欲しい。
年頭早々、泣き言、繰り言で始まってしまった。
まっ、こんな年があってもよかろう。
気を取り直して・・・
風来居士、今年もどうぞよろしく。