80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

反「存在感」→ 自意識過剰 (その2)

2016年01月31日 17時25分26秒 | 考える
1月30日(土) 曇り 風寒し。
ひたすら寒い。
昨日にも増して寒い。
 

身震いしつつ思う。
私はこのままでいて、いいはずがない。
何人もの人が手をかけて、支えてくれたことて、
何とか、私は今、70年目の新春を迎えることができた。 

事実、私はここに身を置いている。

ただ、この場にいるだけだろうと、
あるいは、ここに置いてもらっているだけだろうと、
とにかく、70歳の自分の存在が消えることはない。  


人はみな「人生」の主人公

・・・今日、自分というものを考えてみると、千載一遇の機会に生まれたのやと、
こう思っていいと思うんですね。
かつてありえない人生に遭った。
お互いがそういう時世に遭ったということ、
過去何千万、何億人のだれよりも恵まれた時代に生を得たことを喜んで、
名優としての芝居をうたないといかん。
そういうような感じをもたないといかんということです。

松下幸之助 (「人生と仕事について知っておいてほしいこと」より)


よくよく考えてみれば、人それぞれ、自分自身のことで、手一杯に生きている。
他人のことなど、無視するも何も、
そこまでは頭が回らないというのが、本当のところなのだろう。
冷静になって、自分自身を省みてみればよく分かる。 

正に、総てが自分自身にはね返ってくる。


やむを得ず、求めずして、孤独の中に生きる。
そんな風に考えるのは、いわゆる「恰好つけ」
言い換えたら、単なる「ものぐさ」だろう。 

が、正直な話、やはり、相談出来る相手とは行かぬまでも、
黙って、自分の気持ち、独り言を聞いてくれる相手が隣りにいる、
それが、人にとっては、大切なことだ
・・・ろうと思う。

正に、そんな相手が、欲しい !!

70歳 (あくまで私個人) の回らぬ頭で、うだうだ考えているよりは
取りあえず動いてみる。
人に問うてみる。


偉そうなことを言ってはみたが、たとえそれが、全くものにならなくとも、
いずれ、先の知れた爺さんの戯言 (たわごと) でしかない。

取りたてて、何の問題もないだろう・・・と、思う。 

だとしたら、大言壮語、口から出任せ、風まかせ、
思いっきり吹いてみるのも、また悪くはなかろう。
  

反「存在感」→ 自意識過剰 (その1)

2016年01月31日 08時53分01秒 | 考える
このままでいいとは思わない。 

しかし、行動を起こすのは、結局、自分自身だし、
自分自身による自覚がなければ何一つ変わらない。

私は無責任なのだろうか? 


1月29日(金) 曇り空 ・・・ 小雨


寒い ・・・ !!

身体の芯まで冷えてくるような、
季節だと言えば、正に、そうには違いないのだが・・・。


何故か気持ちが定まらず、

「私の存在感 ゼロ !!」 ← これは明らかに私の自意識過剰だ。 


朴の木
モクレン科の落葉高木。
日本特産。
山林中に自生し、高さ約20メートル。
葉は大形の倒卵形で、枝先に集まってつく。
5、6月ごろ、黄白色の大形の花を開き、強い芳香を放つ。
花びらはさじ状で6~9枚ある。
材は軟らかく、家具や下駄に利用。
葉は食べ物を包むのに用いられた。  (デジタル大辞泉)

朴の木というのは檜(ひのき)のような高級な木ではなくて、
朴歯の下駄にされる安い木です。
木質が柔らかく、彫刻刀で彫りやすいから版木の材料にも使われます。
まな板は、今はプラスチック製のものが多いのですが、昔は朴の木でした。
朴材のまな板は柔らかく、自分は包丁で傷ついても包丁に刃こぼれさせません。 

花言葉は 「誠意ある友情」。


この歳で、今さら、私は 「檜(ひのき)」 にはなれない。
 (・・・多分、なりたかった。)

だったら、 「朴の木」 にならなれるかと言えば、
今となっては、これまた、到底、無理な話だ。
 

どこに向かうか 独り旅

2016年01月30日 08時14分58秒 | 詩とか歌とか
昼間の自分は よく見えて
これはちょっとと思いつつ
このまま行っていいのかと
何もしないで考えて
時間ばかりが過ぎていく。

そいつがどうにも怖くって
鞄を肩に外歩き
時間追いかけ
ふらふらと
行き先決めずに彷徨 (さまよ) い歩く。


夜なら闇に総てが隠れ
誰にも見えない私の姿
闇に包まれ守られて
何故か心が落ち着いて
私にゃそこらがちょうどいい。

そんな気がして
昼間寝て
夕方近くに目を覚まし
朝日の昇るその前に
布団被って目を閉じる。


試してみたが眠れずに
何故か気持ちが定まらず
逆に気持ちが冷え切って、
布団飛び出し部屋を出る。
これからどこへ行けばいい?


寄り添う友の姿無く
道ゆく人の影も無く
この道独り、ただ独り
何も語れず何も見ず
行く先知れぬ旅を行く。

存在感

2016年01月25日 20時59分03秒 | 考える
1月23日(土)
思うに、私の存在感 ゼロ !!

伊勢崎にあっても、町田に戻ってからも、
自分の存在感がまるで感じられない。

今の自分には、どこにも身の置き所がないような気がしている。
ただ、そこにいるだけ、
いや、置いてもらっているだけの存在という感じだ。
  

人は自分の存在を無視され続けると、不安と同時に怒りを感じる。
しかし、結局、それは誰にもぶつけようがない。
ほとんどの場合、自分にはね返ってくるだけだ。

同時に、自分でも、他人の存在 (考え) を無視していることには、
意外に気づいていない。

そうなのだ。
言い換えれば、それは、甘えであり、被害妄想以外の何物でもない。 


腹の奥が、ひやっとしてやたら冷たい。
大きな氷の塊を飲み込んだような感覚 ・・・。


今まで、そして今、私は肩肘を張って、
いずれは誰かのために、人のためにと考えていたのだが、
実際には、そのための努力を何もしていない。

人が何かしようとしても、
結局、実績、あるいは実力がなければ、誰も振り向きはしない。
言い換えれば、他人を評価しようとするとき、
その判断材料がまるで無いのでは、期待のしようがない。

小さくとも構わない。
まずは実績を生み、それを積んでいくことからはじめる。
でなければ、これから先に進むことが出来ない。


止まれ・・・。
ふと、思う。
この所、年のせいか(?) 「泣き言」 が多くなってきたようだ。
愚痴を言うだけなら、誰にだって出来る。


要は実践だ。

どんなに小さなことでも良い。
まず行動すること。


これは、常に、心せねばならないことだ。
廃棄物 (私) の再生、再利用計画。 


夢の話 (10月21日、水曜日)
やけに若々しい祖母が、にっこり笑って 「私は明日帰ります」 と言う。
脇から母が 「この子は今日帰るんですよ。」 と言う。
 

たったそれだけの記録。

以前に [10/21(水)との記録がある] そんな夢を見たということらしい。 

何故だろう? 
今、その意味するところが、ちょっと気になっている。
 

今年は・・・。

2016年01月24日 21時14分16秒 | 考える
1月22日(金)

無理に自分をコントロールしようとする必要はない。
この私、充分、個性ある個人には違いなかろう。

とは言え、私はどこにいればいいのか?

そうだった。
以前は私自身も兄の保護を受けていた。
いや、現在も、やはり兄の保護がある。(感謝!!) 

60だろうと、70だろうと、
今、やらねばならぬことがないということは、
自分自身が、
やるべきことを見つけていかねばならないということ。

他人のことに関わっている暇なぞはないのだ。  

肩の力を抜いて、誰かのために何かをなぞと考えてみても、
この歳になると、実際、実績がなければ、何にもならない。

こちらが、ひとり肩肘怒らしてみても、
実際には、誰も、何も期待しようがない。
何もない爺さんでは使いようがないだろう。 

こうしなければ・・・ではなく、
自分が 「こうしたい」 で生きていく。
それでいいし、また、そうでなければならない。

今さら過去を振り返って悔やんでみても仕方がない。
昨日のことですら、やり直しはきかないのだ。 

人間関係の極意は、まず相手を認め、受け入れることだとか。

他人は他人、人それぞれの生き方、考え方がある。
それが、良いか悪いか、
結果が現れるのは、ずっと先の話だ。

ならば、私の場合、一体どうすべきか?

人は百人百様、
人それぞれの生き方をしている。
まずは、相手に安心感を与える。 
それでいいと思う。

迷うことなんか、どこにもない。
と、ことさら言うのは、やはり迷っているということだろう。
人は、お互いに他人の生き様や考え方を、まず認めることが大切だ。 
その上で、なるべく相手の自由を損なうことなく、生きていくべきだ。