80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

今年、お前は何をするつもりだ?

2017年02月28日 19時54分11秒 | 考える
ふと気がついた。

いつの間にか年末・・・。

今日は12月21日(日)

よくよく考えてみれば、今年も 残り10日 しかない。 

・・・と、これは、一体何年だ? 
調べたら、どうやら 2014年(平成26年) らしい。

  ・・・ 年数記載は、絶対に重要だ。 ・・・などと。 

しかし、最近、特に退職してこっち、思うことなのだが、
何というか、年度末の圧迫感が感じられない。


さらに、昨年もそうだったが、今年もまた、 「何の達成感」 もない。 

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

2017年2月27日(月) うす曇り

よくよく考えてみると、70にもなって、未だに 「自分の完成型」
見えていない。
二年ちょっと前 () と、ほとんど、いや、全く変わっていない。


ただ、何となく、そう、私自身がどう考えようが全く関わりなく、
日も月も年も、春も夏も秋も、そして冬も、自分が気のつかぬうちに
勝手に過ぎていってしまう。


まぁ、それも、当然と言えば、当然なのだが。

昼、出がけに、「ボンド」を軟膏と間違え、指につけて大慌てする。 

それはともかく、
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」

これが唯一まともな会話だとは、何とも寂しい同居人同士だ。


まっ、それでも、一日中、ずっと無言よりはマシなのかも知れない。


2月28日(火) 月末。 曇り  

ふと思った・・・、あるいは、気がついた。

私は、「私がリードできる相手」 が欲しいのかもしれない。
大体、今現在、私は、私自身すらリードできていない。
それを、酒タバコに紛らわせて、ブツブツ言っているだけなのだ
と。

小説、あるいは童話を書きたいと思うのも、また同じ事。  
主人公を、思うがままに、自由に操りたいという事なのだろう。


思えば、女性はともかく、男であれば、自覚はなくとも、少なからず
そんな傾向があるのだろう。
 

従順な相手、「取りあえず自分自身」 を、求め求めて、身をよじる日々。


おい、お前、何か、今、「こいつ」 にさせる事はないのか? 

春、まだ遠し

2017年02月27日 18時44分13秒 | 考える
2017/02/27 (月) 晴れ
昨日より風少ないが、寒い。

他人に迷惑がかかるのが、はっきりと判っていて、
それでもなお、やらねばならぬ、やるべき事があると
すれば、それは何だろうか?


話の合う仲間でも、こちらが黙っていて話さなければ、
話にならない。
私のように口べたで、話の出来ない人間には、はなか
ら用が無いだろう。


毎日、毎日、歩いても、歩いても、何の進展も無い。
このままだと、「引きこもり」 になりそうだ。
などと言っている間はまだ大丈夫・・・だろうか?


生きる事を諦めてはならない。
多少、他人に迷惑がかかろうとも・・・。


ハクセキレイ 人慣れしている 駅裏広場

それにしても、風が冷たい。
まだまだ2月の末だものな。


ただ独り、行く (生く) 当てもなく、風寒し

どこにいても、落ち着けない、安心できない。
多分、目的、目標を見失っている。
体まで、心に同調して、腕の動きがままならない。
て、これは寒さのせいだろう。


まだ、春遠し。

風の叫び (10) 残すもの、あるいは残るもの

2017年02月21日 08時25分14秒 | 考える
人は、この世に 「永遠に残るもの」 を期待し、行動する。

曰く、建造物。 
また曰く、著作物。 
さらには、自らの血を引く子孫 ・・・等々。

ひょっとしたら、父の生き方、それもひとつの選択肢かも知れない。
周囲の批判はともかく、彼自身は、彼なりに満足した人生を送って
いたんだと思う。
最後は、自分の生き方を全うして(?)、死んでいったに違いない。


刹那的な考えでも、そのまま実践して、これこそが自分だと考える。
それでこそ、今、現在を生きている感じがする。


と、次の瞬間、この一文を書いた事を後悔する。
が、すぐに思い直す。

いいや・・・、 良いも悪いもない。
良いとか、悪いとかは、個人的な評価だ。

自己評価といっても、結局は、他人に育てられ、他人と共に生き、
他人に学び、他人を頼って生きてきた経験の積み重ねでしかない。

別の生き方、別の経験を重ねてきたものには、それ相応の考え方、
行為行動があるはずだ。


結果、良いとか悪いとかではない。

人間同士、親密になればなるほど、相手を知れば知るほど、考え方、
気持ちが離れていく。 
それは、人が最終的には、「個人」である以上、当然の事、やむを
得ない事なのだろう。


人は、個人として、それほどに大きなもの (過去・悩み・喜び…etc.) を
抱え込んで生きている。
 

大体、世間的に、 「私」 という存在は、一体何者なのか?
最終的には、人は、 ただ一人の「個人」 でしかないのだと思う。
共に生きていくなどとは、結局は、寂しい人間の幻想に過ぎない。


つまるところ、人は、一人で考え、一人で生き、一人で死んでいく。

自分がいなくなって、ある時、ふっと 「そう言えば、あいつ・・・、」  
と思い出してくれる相手がいる人間は、本当に幸せなのだろうなと思う。

風の叫び (9) 人生の、ひとつの区切りとして

2017年02月19日 07時42分51秒 | 考える
自分を生きる。 

せっかく、人間として、個人として、この世に生まれてきた。

仲間とともにあり、仲間を立てて、生きていく。
それもまた、自分を生かすためであるなら、「可」 としよう。

最終的に、人が、何をしようと、あるいはするまいと、結局は個人、
自分自身の判断、決断の結果、それ以外の何ものでもない。


2つの、あるいは3つの個性が、たまたま通りすがりに出会い、
お互いの意見を言い合ってみた。
気が合ったから、ちょっとの間、一緒に行動してみた。
 

ただ、それだけの事だ。

別れてしまえば、意見として頭の片隅に残っているかも知れないが、
それによって、物理的に、自分が拘束される事などありえない。

拘束されていると思うのは、結局、個人の 「単なる思い込み」 でしかない。

無論、約束を忠実に守っていくという選択肢をとる事は出来る。
あるいは、逆に約束に背いた行動を取ろうとも、
最早、他の2人には、どうする事も出来はしない。
また、どうにかする必要もない。


先日、先輩に会って話す機会を得た。
「70歳という年齢は、人生のひとつの区切りとし有効だ。
 これを機会に、今までの考え方を一新させていく。
 それもまた、ひとつの手段ではないだろうか?」

「無理に変化する必要はないが、無理に現状を固守する必要もない。」
 

なるほどな・・・!!、と思った。 

人はそれぞれ、変わっていく。
 ・・・変わっていっていい。
別に、無理に変える必要もないが、
迷ったなら、変わってみるのもひとつの方法かも知れない。
 

ふと、そんな風に思った。


いずれにしても、一人の人間、
その人生の果てに待つものは、 「死」であり、 「無」でしかない。
 

風の叫び (8) 生きていくこと

2017年02月18日 17時27分49秒 | 考える
今後の自分の生き方が、未だに、明確にならない。

たとえば、今のところ、「父の生き様」、それもまた選択肢の一つだが、
たとえ、それを出来る限り真似てみても、当然、そのままになるはずも
ない。

すると、結局、私は「私の生き方」をするしかないということだろう。 

人生が、本人の思い通りに進行することは、まずない。
ほとんどが、思いもよらぬ事象の連続だ。
環境も、ある程度は変えていくことができても、総てが、自分の思い
通りになるはずもない。

何か、今、グタグタに疲れてしまったような、そんな気がしている。

だらだら、だらだらと生きていく。
思いつくまま、気の向くまま、時計の針の動きに従って、人は変わっ
ていく。


それは、本来、自然に変わっていくものなのだろうか? 
あるいは、自ら、自主的に変えていくべきものなのか?
変えていくとしたら、どうすべきか?

人は、最終的に「個」でしかない。 

たとえば、「心中」 と言って、誰かと手をつないで、この世を去る。 
時間的に一緒、気持ちもひとつ、
あの世でずっと一緒に暮らす。

そんな風に考えることは、当人同士の問題。
一向にかまわない。

が、死後、彼らが、どうなるのかは、誰にも判からない。
結果、この世に残るのは、死にゆく者の 「ただの思い込み」 だけだろう。


もっとも、これも言うならば、「私個人(風来居士)の思い込み」・・・でしかない。

ひょっとすると、あの世で二人は手を取り合って、幸せいっぱいに
暮らしているのかも知れない。
 

けれど、あえてもう一言、


「夜の後には、朝が来る。  
 しかし、『死』の後には、何もやっては来ない。」