80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

閑吟集

2015年08月31日 14時37分23秒 | 考える
8月31日(月)

今日も曇り。
このところ、天気の良くない日が続いている。 
気温も低め・・・?
いよいよ秋本番ということだろうか。

そう言えば、8月も今日でお仕舞いだ。
8月中に、何とか仕事を見つけたいと、職安に通ってみたが、
やはり、この歳では無理があるのかも知れない。

挫折感と無力感、ちょうど今日の空模様と重ね合わせる。

どよ~~ん・・・!!

最初、気づかなかったが、よく見れば、雨まで降っている。  


まぁ、考えようによっては、
今日で8月も終わり、明日からは9月が始まる。
気持ちの切り替え時でもある。

・・・って、明日も雨だったら どうすべぇ・・・??


ふと手に取った本が、ひろ さちや先生の「狂いのすすめ」
(集英社新書 「狂い」のすすめ ひろ さちや著)

最初にありました。
「ただ狂え!」
『閑吟集』・・・室町時代の歌謡集だそうです。

<何ともなやなう 々 人生七十古来稀なり>
「何ともなやなう」とは「どうにも仕方がないなぁ」だとか。 

で、<何せうぞ くすんで 一期は夢よ たゞ狂え>
 (「くすんで」とは「まじめくさって」という意味だそうです。)

まじめくさって生きたって、人の一生夢の中、ただただ狂え、遊びまくれ。
人生は夢、真面目に生きねばならないと、糞真面目に考え悩む必要はない。
 

『閑吟集』には、そういうことが書かれているそうです。


また、「あとがき」にありました。
・・・わたしたちは
ついつい他人の評判を気にします。
他人に貶されるのがいやで、
また他人に褒められたいのです。
それは世間を気にしていることであり、
世間の奴隷になって生きていることです。
・・・・・
あなたの人生は、あなたのものではありませんか。


ちょっと長い引用になってしまいました。
ひろ先生ごめんなさい。 


昔と今とは違うけれど、ともかく70手前まで生かしてもらった。
しかし、まだ何か足りないと感じている自分がいる。

そう、私は何も残せていない。


「ふっ・・・、70年近くも生きてきたのなら、
 何か 『生きてきた証拠』 が残せていてもいいはずではないのか。」

耳元で風来居士が、ぼそっと呟く。 
何とも、憎たらしい奴だ。
しかし、私は、こいつに言い返すことが出来ない。
・・・今のところは・・・。

明日は9月だぞ。
9月だからな、見ていろよ。


そうだ、明日は9月だ。
で、 ・・・・・。

また夢を見た。

2015年08月30日 17時58分58秒 | 考える
また夢を見た。
詳細はよく覚えていない。

どういうわけか、枯れ草の山に身体を押し込んで、苦しがっている。
口いっぱいに枯れ草を頬張って、吐き出せずにいる。
そこばかりが、やけに鮮明に記憶に残っている。  
起きてから、しばらくの間、喉から胸の辺りの違和感が取れずにいた。
もしかすると、息をするのを忘れていたのかもしれない。


これこそは、息詰まる展開だ・・・などと。


このところ、やる事、為す事、ことごとくうまくいかない。
夢のもとは、そっちからのフラストレーションかもしれない。 


・・・タバコの吸い過ぎ・・・? 
そう、それもあるかもしれない。

このところ、ひっきりなしにタバコを吸っている。
別にうまいとも思わないが、目につくと、すぐ手が伸びる。
無ければ無いで、どうということもない(?)が、
タバコの袋が目につくと、何となく手が伸びる。

口が寂しいという感じだろうか?


何だろう? ・・・この感覚は?



閑話休題・・・として、ふと気になって調べてみた。 
  (パソコンはこういう時に便利だ。)

私は、これを「話、変わって」という意味だと、ずっと思い込んできた。
これは、どうやら誤用らしい。

本当は、「話を本筋にもどすこと」という意味だとのこと。 
「閑話休題」と書いて、 「それはさておき」 あるいは 「よだんをもどして」
読ませることもあるらしい。


接続詞的な使い方をするもので、
名詞や副詞、あるいは形容詞的な使い方はしないとのこと。
どうやら、私は、これまでずっと誤用していたようだ。



人は、慣れ親しんだ自分の名前に、いつか誇りのようなものを持つ。
たとえ、口には出さずとも・・・。
名前 = 私


広く名の知れた有名人と同姓である。 (同姓の有名人をネット検索して自己満足)
ひょっとしたら、かの徳川家康(松平元康)公と、先祖は一緒かもしれない・・・などと。
(あまり、意味のある思い込みではないが、
 それが生き甲斐、励みとなるなら、それもまた悪くはない。)

そう言えば、今年は家康公没後400年 (1616年6月1日死去) に当たるとか。 

・・・これも、あまり意味のある情報とは言えないが。

職探し・・・??

2015年08月24日 22時22分24秒 | 日記
2015年 8月24日(月)

雲多し。
朝から、何とも怪しげな空模様だ。  


窓越しに空を眺めつつ思う。

今さら、他人様に合わせて生きていく必要などない。 
会社勤め中ならともかく、退職して一人暮らし(?)の私だ。
最低限、他人様に迷惑を掛けぬように生きる。
まぁ、そういったところだろうか。

そう、他人様の方でも、頼みもしないのに、
私などに合わせてもらって、偉そうな顔をされては、
それこそ、迷惑この上ないと言うに違いない。


でなくとも、時間は刻々と過ぎていく。
私の為に (いや、誰の為にも) 半秒たりとも止まってくれはしない。 

どだい、私の時間って、一体どこにあるのだろうか?


仕事探し。
今さらという気持ち。
まだ、未練を捨てきれない・・・。
体力的な不安。
職場に対応する技術面での不安。 


気持ちだけで、年齢を封じ込めることは出来ない。

しかし、私は何をどうしたいのか?
どうなれば、私は満足するのか?
このまま、無為に時が過ぎていく恐怖。

一秒、一秒、一歩、一歩、私の横を、時が追い越していく。
昨日は日曜日。 ・・・これは、まぁいい。
今日、月曜日。 ・・・これは、少なからず問題だと感じる。


午前中、職安に寄るつもりで家を出たが、
結局、 (厚い雲に) 気を削がれて、そのまま帰って来てしまった。
気持ちが定まっていないのかもしれない。
・・・でなければ、ただのものぐさ。
気持ちだけでは、年齢を抑えきれない。


この所、その気持ち自体が不安定だ。
毎日、イラついている。 
やること、為すことが、思いどおりに進まないせいかもしれない。

どうやら、「やる気」そのものが薄れてきているような気もする。 
70歳(正確には69歳なのだが)とは、 やはり『定年』なのだろうか?



すべての人には好かれない
 誰かにどう思われたかで
 くよくよ悩むのはやめよう
 誰からも好かれる人なんていない
 無理して敵をつくることはないけれど
 好かれるために自分をねじ曲げることはない
     海原純子 「1日の終わりの言葉」 PHP研究所

人は夢を見る

2015年08月23日 10時27分21秒 | 考える
人は夢を見る。

悔やんでいるより今からやれ。
やることが出来るなら、今からでも遅くはない。

男には「成功感」が必要だ。
どんなにちっぽけな、たわいのない成功だろうと、
その積み重ねが、大きな本当の成功に結びいていく。
よく言われることだ。

「自分でもきっと出来る。」
「自分にも出来た。」 

その感覚が次のステージに自分を引き上げてくれる。
無駄な努力かもしれぬと思いつつ、やろうとする。
どうしてもやらねばならないと感じる焦燥感 (・・・?)。

一方で、隣の人間に気を遣って、自分のやりたいことをやらずにいる。
実は、人を気遣っているわけではなく、自分にやり遂げる自信がないと
いうことかもしれない。

大体、隣の人間は、自分が思うほど、こちらの行動など気にかけていない。
どのみち、他人が何を考えているかなど分かりようがない。
たとえ、相対して話し合っていようとも。

互いに相手に気を遣っているつもりで、
とんちんかんなことを言い合っている。
無駄の最たるものだ。


そろそろ自分に素直に、正直に生きていきたいと思う。

自分は、本当は何がやりたいのか・・・?

ひょっとして、誰かに褒めてもらいたい。
他人に認めてもらいたいと、
ただ、それだけのことなのかもしれない。
それが、うまくいかずにイラついているのだ。

つきつめていくと、男とはそういうものかも知れない。

女性は生命を生み出し、子供と常に触れ合い、育てていく。

男にはそれがない。
男は、ただの傍観者でしかない。
出来ることと言えば、そんな女性をフォローしていく事。
ただそれだけの存在だ。

止まれ、私個人には、それすらもない。


誰かのためになりたい。

ずっとそう思って生きてきた。
それは本心。
ずっと「成功」を求めて、夢見て生きてきた。
しかし、結果として、何も出来ずに現在に至る。

謂わば、他人に生かされて、何とか生きてきたということになる。
さらに言うなら、それが、そういう生き方自体が、
皮肉にも、私をそばで見守っていてくれた人たちのためになっている。
そうとも言える。


「あなたの許可なくして、誰もあなたを傷つけることはできない。」
エレノア・ルーズベルト(フランクリン・ルーズベルト大統領夫人)

まったくその通りだ!!


完訳 7つの習慣 (スティーブン・R・コヴィー)
第一の習慣 「主体的である」
= 自分の人生の責任を引き受ける。
→自分の行動は自分の価値観に基づいた自分自身の選択の結果である。

私たちには行動を選択する自由がある。
しかし、その行動の結果を選択する自由はない。


(なるほど、ここは重要なポイントだ。
 ・・・私たち[?]は、いつも、結果を選択するつもりで行動している。)

定年

2015年08月20日 18時27分05秒 | 考える
定年とは、自ずと定まる・・・あるいは、自らを定める歳だ。
会社から離れ、同僚とも別れ、これまでの経験をもとに独り立ちする。
60を過ぎたら、人の生き死には自己責任。
定年から、人それぞれ、自分自身の人生が始まる。


私に出来ないことがある。
だが、彼にはその力がある。
だからやっているのだろう。
私はそれに意見する資格がない。


他人の意見を聴く。
人は、自分の経験という「フィルター」を通して、意見を受け容れる。
その時々の「フィルター」次第で、
相手の想いとは真逆の、似ても似つかぬ意見となってしまう。  


人と人、いつかは、きっと分かり合えるものと思っていた。
それは、幻想だったのだろうか?
所詮、人は妥協し合うだけのことなのか?


私は無力・・・?

思えば、自身のことすらはっきりしない。
ましてや、他人が何を想っているのか?
私に分かろうはずがない。


60過ぎたら、人の生き死には自己責任。
これは、多分、私のごまかし。