80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

道行く人々・・・広場にて、あるいは、パイプ煙草

2018年09月30日 17時07分31秒 | 考える
ベンチの前を行き過ぎる人たち。

自分が直接関わり合うわけではないが、いろいろな人と、
また人と人との出会いの場に遭遇する。

私は、ベンチに腰を下ろして、ただただ傍観している。 

ゴルファーと、その先生らしき男性。
警察官と、怪しき人物・・・(私にも経験がある。)
幸せそうに、話しながら通りすぎる男性と女性。

道行く人、行き過ぎる人々。
・・・そして、ここ、 ・・・ベンチで独り傍観する私。


出会いと別れ。

様々な人間関係が、私とは何ら関わりなく通り過ぎていく。

私自身にも出会いと別れがあった。 

他人の事を考えて行動するのは当然の事だ。

だが、相手に何かしてやろうなどと考える。
思えば、それはおこがましい事だ。
あくまで他人は他人でしかない。


人間は、常に彼自身の計り知れぬ問題を抱え、考えている。 

人生とは本来そういったものではないだろうか。

他人の人間関係に直接、いや間接にであれ、関わり合えるものではない。
問題解決は、あくまで当事者自身が当たる以外にないのだ。


小説の中ならともかくも、現実の世界では、
主人公やら、悪人やらが、常にそれらしい姿形をとってはいない。

「素」の自分は、一体どんな存在なのか?
考えれば考えるほど分からなくなってくる。
素直に私を見て、受け止めてくれる相手が欲しい。

私は、黙って目の前を通り過ぎる人を見ている。
今は、ただそれだけの関係。

もっと言えば、どれだけ深い関係を持とうと持つまいと、他人は、
所詮他人でしかない。


目的を持って行動している他人。
それをベンチから眺めているしかない自分に嫌悪感を感じる。

どこか、人のいないところへ行ってみたい。  
もう一度、伊豆に泊まりに行こうか?
 

それも、ただの思いつき。
決行せねばそのままになる。
何の意味もない。


決行は、3日後か?
3年後か?
それとも、30年後か?
 ・・・

何れ、私が人である以上、死は確実に近づいてくる。
そう、何をどうやろうと、それだけは確かな事だ。


パイプが詰まった。
おっと、これはパイプ煙草の話。 
そうだった、パイプには、常に空気の通り道が必要なのだ。
葉をケチって、細かくなったものまで詰め込むと、煙りの通り道が無くなる。
それ以前に火が付かなくなる。


人間も、そして私も同じ事だ・・・!! 

樹木希林さん、ご冥福をお祈りします。

2018年09月22日 08時18分46秒 | 考える
樹木希林さん(享年75)が9月15日に亡くなったらしい。
ネットで、改めて希林さんの生き様、死に様を知る。
いつ死んでもいいような生き方を心がけて、やることに優先順位を決めておく。
癌と知りながらも、そういう生き方をずっと続けてきたらしい。
ご冥福をお祈りします。

私もそろそろ死に方を考えておく必要があるかもしれない。
このところ、ずっと体調不良が続く。

しかし、環境は常に変化していくのだ。
時間は止まることなく経過していく。 
私自身も変化していく。
常に、それを意識して対応していかねばならないのだろう。

日頃、120歳までは生きると公言している人間としてはなおさらのことだ。

それにしても、この頃の自分には、役立ち感がない。
過去は過去だと言ってはみても、今後を生きていく上で、これは致命傷ではないか?
今さらだが、生きていくには「そのための目的」が必要らしい。

とはいうものの、私の人生、これがずっと続くわけでもあるまい。
と、一言付け加えて・・・。

鬱呆け老人その日暮らし (2)

2018年09月16日 19時44分28秒 | 考える
他人の事を想像するのは自由だ。
だが、「本当の相手は全くの別人である」ことを自覚すべきだ。
彼には彼の考え方、個性がある。
人それぞれに、受け取り方、感じ方も、また異なってきて当然だろう。

何を言っても何をやっても、人によって受け取り方が違ってくると知れば、
またそれはそれで、悩ましい時間が続く。

大体、私は相手に対して、本当のことを伝え得たのだろうか?
相手に、自分の意図したことが、ちゃんと伝わったのだろうか?

とは言え、そればかりを、気にして生きていくのもどんなものか?
思うに、私は、他人に頼り、他人の息づかいばかりを窺って生きてきた。

考えてみれば、「生きている」 そのことだけで、すでに大変なことなの
だとも思う。

言い古されたことだが、所詮は他人同士、それ以上でもなければ、それ以
下でもない。

たまたま同じ方向を向いて歩いていれば、目的は違っても、同じ所までは
辿り着く。

が、ただそれだけの事。

しかし、逆向き、あるいは、ちょっとでも向かう方向がずれていたなら、
進むにつれて、二人の距離は離れていく一方だ。

他人は他人、無視されて当然。
何かを求めようとバタバタするのはやめよう。

物欲しげに、道行く女性を見送るのは、何とも見苦しい。


私は今現在、ここにあるだけのもの、これだけのものでしかない。
そういう事だ。

取りあえず、今現在、どう動くか?
まさに「今現在」考えている。
・・・しかし、これでは、遅いのだ!!


他人の事は放っておけ。
彼は彼・・・。
お前が支配出来るものは何ひとつ無い。

年を追うごとに、やりたかった事に気づき、
それをやり遂げる時間の無くなっていく事に気がつく。
()

これからどう考え、どう生きていくべきなのか?
老いのまっただ中、老いが身近に感じられる。
振り向けば、若き日が遠く、遙かに遠く見える。


鬱呆け老人その日暮らし (1)

2018年09月12日 15時14分45秒 | 考える
久しぶりに自分のブログを覗いていて、ふと気が付いた。
前回投稿から、すでに2週間が過ぎている。
ちょっと体調を崩して、ぼぉーっとしていたせいか。
何度もブログを開け閉めしていたにも関わらず、
更新するのを忘れていたらしい。
と、言うより、早くもボケてきたのかもしれぬ。


鬱呆け老人その日暮らし (1)

何でもいい、何かを信じねば生きてはいけない。
が、信ずるべき当の本人が、自身を充分に信じられない。
ただ独り、迷いのまっただ中を、彷徨(さまよ)っている。

つまるところ、人生の読みが浅いということだろうか?
経験が足りないということなのかも知れない。

ともかく、ただ生きていくことにすら集中できない。

大還暦120歳まで、残りわずかに 50年 

・・・取りあえず残りの人生の設定を試みる。

これまでとは、変わった生き方をしてみたい。
自由気ままに、思うがままに、自分を生きる。

とは言え、何をどうする? 何が出来る・・・?
かっこつけて、どうなるか?
かっこつけても、すぐにボロが出そうだ。 

今まで私は他人に、まず母に、認められたくて、認められようと
考えすぎていたのかも知れない。
他人の顔色をうかがって、自身の人生をねじ曲げようとしていた
ような気がする。

もう良いのではないか?

歳をとるごとに、出来ないことが増えていく。
バランスをとるなら、出来ることを増やし続けていくしかないが、
それはほとんど不可能なことだ。

他人は『ともかく動け・・・!』と言う。

他人のために何かを成す。
それは良い、そうありたい。

が、正直なところ、現状は何をするわけでもないが、自分の事だけで
頭が一杯だ。
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