80歳に向けて・「新風来記」・・・今これから

風来居士、そのうち80歳、再出発です。

1月末日、快晴・・・しかし、風は冷たく。

2017年01月31日 19時28分31秒 | 考える
1月31日(火)
朝方から、腰痛に悩む。 
冷えすぎたのかも知れない。


いきなり、閑話休題 ・・・ ??

相手に期待されぬ 「思いやり(?)」 は 『無駄』 の一字。
それ以外の何ものでもない。

私の求めているものは、ただの 「触れ合い」 に過ぎないのだが。
いやいや、私は他人に求めすぎているのかもしれない。 
私以外は、総てが他人 (多人) だ。

求めるな。 
失望するだけだ。
 

どこかに行きたいのは確かだが、肝腎の目的地が見つからない。

少々過激な表現かも知れないが、
稼げない男なんぞ、部屋のゴミと何ら変わりがない。
そう、私は現在、部屋のゴミでしかない。


寂しがりのゴミ男がひとり、部屋の片隅で新聞を読む。
働きたいのか、稼ぎたいのか?

私も弟も、共に独立した大人、・・・個性というべきか。
それ以上に何が必要なのだ。
ただ、たまたま現在、二つの個性が同居しているという事でしかない。

ひょっとして、私は弟に無理 (無駄) な期待をしているのかも知れない。
私も弟も、言ってみれば、独立した個人でしかない。
弟には現状に対して、何の責任もありはしない。

陽当たりのいい椅子に腰を掛けて、一人ものを思う。 
本当は、気の合う話し相手が欲しいのだが。
さらに言うなら、優しい聴き手が欲しいのかもしれない。

一人表に出る。
快晴とは言っても、残念な事に風が冷たい。
ジャンパーの襟を立てる。


そうなのだ。
人生は晴れた日ばかりではない。
さらに、よく晴れ渡った日であっても、暖かいとは限らない。


私は、未だに
母を失った事から立ち直れていない。
 

大きな喪失感。  

母は、唯一、私の「心の拠り所」だったのだろう。
失って、初めてその大きさを知る。

人は死なないかぎり、生き続けていくしかない。
としたら、どう生きていくか?
それは・・・、要は「やる気」があるかないかの違い。


大きな喪失感、失望感に耐えて、どう生きていくか。
どうやって、「やる気」を取りもどすか。
いかに人生を、と言うより、この瞬間を充実させていくか。

人生は晴れた日ばかりではない。
さらに、よく晴れ渡った日ではあっても、
いつも暖かいとは限らないのだ。


ひたすら、泣き言の一文・・・。 

明日からは、月替わり、・・・ 2月、如月。 

さてさて、来月は、一体どうなる事やら。
カレンダー、1 枚破り捨て、「運勢好転」 を望むのみ。
 

(おいおい、ここに至って、運頼みかよっ・・・!!) 

今、何を手がけるべきなのか?

2017年01月27日 21時48分21秒 | 考える
ダンス・・・昔からずうっと、踊れたら踊りたかった。
が、見栄っ張りな私は、うまく踊れそうにないという理由だけで、
練習する事もしなかった。


今思えば、何度かそのチャンスはあったのだが、見て見ぬふりをした。
せめて基礎だけでも習っておくべきだったと、今になって後悔している。

やるべき事、やりたい事は、思い立った時に始めてしまわねば駄目だ。

またの機会なぞは、いくら待っていても、やってくる事はない。
チャンスは2度とはない。

もしあったとしても、またまた逡巡して先送りするのが関の山だろう。

私の中で確定しているこの先50年、何をどうやっていくつもりなのか?
何か、今になって、今後が全く見えてこない。


私の原点、出発点とは、一体どこにあったのか?
今、私は何をすれば良いのか?


母を除けば、誰にも愛されたという感触がない。
他人に自分を語る機会が、ほとんどなかった。
他人に自分を語る術を知らない。
そもそも、語るべき相手がどこにもいなかった。


他人に何かを頼もうとするなら、まずその意志を伝える必要がある。
そもそも、相手に 「何かをやってもらいたいのだ。」 というところから
意思表示をしていかなければ、相手としても、頼まれようがない。


「以心伝心」 などは、心許した恋人同士であっても、ほとんど夢物語で
しかない。


学んでいこうと決めた時、「受講生募集広告」 ばかり気にしていないで、
まずは、自分で学習していく方法、そして手立てを考えるべきだろう。

結局、受講するとは、つまるところ 「自ら、自分自身で学んでいく事」
それがもっとも基本となるのだ。


今の自分には、やはり、自らの人生に、明確な目的、そして手段を
見い出す能力が欠けているのかもしれない。

高齢者福祉センター 「くぬぎ館」 にて思う

2017年01月26日 18時34分08秒 | 考える
高齢者福祉センター 「くぬぎ館」 にて
(やっと、会館の正式名称に気がついた。
    ・・・ 入り口にちゃんと書いてある。)

・・・と、それは、さておき、
思えば、昨年、2016年 (平成28年) 6月9日 (木) 母、逝去。
母の死から、すでに半年以上が経過している。

しかし、私の中に、ポカッと開いた空間は、なかなか埋まってくれない。
むしろ、時間経過と共に、大きく広がっていくようにさえ感じる。


「甘ったれだ・・・!!」と言わば言え。
「そうだ !! その通りさ・・・!!」


私の中に、突然出現した心の隙間は、時間経過とともに埋まるどころか、
逆に大きくなっていくような気さえする。


人には、いつでも、同レベルの、あるいは同環境を背負った話し相手が、
本当は必要なのかもしれない。


高齢者福祉センター「くぬぎ館」で、
ひとり椅子に腰を掛け、ぼぉーっとしている。

目の前のテーブルでは、妙齢のご婦人方が、話をしている。
年老いた奥さん、もしかすると旦那さんと死別した女性・・・。
彼女たちは現状に満足しているのだろうか?

見ていると、とてもそんな風には思えないが。

もっともっと、何かやりたいのだが、現実には、何ひとつ、やることが
見つからない。

そんな風にも見える。


私自身は、時の経過とともに、気力はともかく、まずは体力の衰えを
感じている。


気力はともかくと、書いてはみたが、その実、肝心の気力も格段に落ち
込んでいることに気がついている。


読み返してみれば、何とも落ち込むようなことばかり書き連ねている。
まぁ、正直、その通りでしかないのだから仕方がないのだが。

ひたすら願うばかりでは、少しも心は満たされない。
他人とつながるためには、まずは、どちらかからの 「働きかけ」 が必要だ。

他人を当てにするな。
今さら、何も、何一つ、他人様から、返ってくることはないだろう。


センターで、椅子に腰を掛けて、それとなく耳を傾ける。
内容までは聞き取れないが、それこそ、ずうっと話し続けている。

これが 「人生」 と言うものかもしれない。
ずっとため込んできた 「人生」
ずっと、誰かに話したかった、ほかならぬ自分自身の 「人生」


1 日やそこらでは、とても総てを語りつくせるものではないのだろう。

そういえば・・・と、不意に思った。
母さん、ベッドの中で、話し相手もなく、
独り・・・寂しかったろうな

などと、今さらながらに思う。


人には、自分の話をどこまでも聞いてくれ、
しっかりと理解してくれる、そんな相手が、
絶対に必要なのかもしれない。


人生を選択する機会

2017年01月25日 21時05分07秒 | 考える
自分の予定を伝える。
自分の存在アピール。 

自分を語らない。
自分の存在を否定。

過度の遠慮は相手を傷つける事になる。

しかし、何でも目に見える形で評価されるというのは嬉しいものだ。
総ては、1 から始まるのだ。
こんな私でも・・・なんて思ってしまう。

1月24日(火) 弟君、朝、5時出勤  晴れ
そうか、今日は24日か・・・、すると、後、ちょうど(?) 6ヶ月後、
あと半年もすると、また7月24日(月)、性懲りもなく、私の誕生日

がやってくる。

で、計算通りならば、多分、私は、71歳になる。
もっとも、私、昔から計算が苦手なので保証の限りではない。


突然、話は変わるが、私自身、他人から訳知り顔で、あれやこれやと
指図されるのは、どうにも我慢しづらい。
 
ひるがえって、弟君にしても、やはり同じ事なのではないだろうか。
 

誰もが、他人に関わらず、自ら総て自由に決定し、また、人目を気に
せず、自由に行動ができたらそれに越した事はないだろう。
  

心のどこかで、そんな風に思って、生活しているに違いない。


昨夕、電話があり、 「介護職員初任者」 研修会受講の定員が埋まって
しまった
事を伝えられた。 
どうやら、準備に手間取り、私が、モタモタしている内に決まってしまっ
たようだ。

床屋に行く金が無くて、自分で髭を剃り、今日にでも、写真を撮ってこ
ようなどと考えていたところだ。

どうも、あれやこれやと慎重になり、手間をかけすぎる。
そんな私の悪い癖が出てしまったようだ。

いずれにせよ、時すでに遅し。 
またまた、他人と関わり損ねたらしい。


相変わらず、人づきあいの下手くそな風来居士だ。 

もっとも、手続きがうまくいったとしても、結果、学習の機会を得た
いう事だけだ。
うまく終了できるか否かは、また別の話だ。

事実、私の場合、途中で2度ほど、診察の予定が入っている。
その欠席した分、追いかけて受講が必要、さらには、修了試験が待って
いるとか。


相変わらず、何とも見通しと、間の悪い人生だ。 

そう、現在の私自身にしてみてもだ。

まぁ、現状を、このまんま受け入れていくつもりは、さらさらないが、
この際、それを含めて、今後どうすべきかを、改めて考えてみる必要が
ありそうだ。

事実、上記の「介護職員初任者」研修会受講も、それらを含めての考え
だったわけだが、結果は手続きの段階で、アウト !!
 

まぁ、言い訳になるが、実際には、生き方などはどうでもいい。
(・・・などと、本当に思ってはいないが) 
いずれ、わが身がただ一つである以上、可能な行動は、たった一つで 
しかない。
   

これから、何を選択し、どこで、誰と、どうやって生きていくのか? 
人生には、一体何度、選択の機会が訪れるのだろうか?

結婚生活、女房、兄弟、友人・・・夢想・妄想す。

2017年01月24日 21時00分35秒 | 考える
現実的ではないのだが、私に、美しく優しい女房がいたとしても、  
多分、彼女に対しても、やはり、現状と同様(?)の関係 (考え方) に
なっていたんだろうな・・・などと、ふと思った。

思うに、いつの頃からか、私は人間関係というものに、怖れというか、
不安、いやもっと突き詰めて言えば、過度の不信感を抱いている。
 

多分、若かった頃、それまで信じて、同居していた友人から、こぴっ
どく裏切られた事が、未だに尾を引いているのだろう。
  

確かに、人様々、その時々に応じて、心ならずも、友人を裏切って
しまうような事も起こりうるだろう。


しかし、その際、常に被害者は 「他人様」 でなければならない。 
それなら、多分、私は 「冷静な評論家」 でいられる。

いわく、「他人を信じ過ぎたら、ホントだめだよ。」
またいわく、「常に裏切られることを念頭に置いて他人とは付き
合うべきだ。」

さらにいわく、「与えたものが、返ってくるなんて、考えていたら、
それは大きな間違いだ。」


が、繰り返す・・・。 
当事者は、あくまで、自分自身であってはならない。


兄弟、家族、親友であっても、所詮、私とは異なる人格、異なる環境、
さらには、異なる思考、異なる人生を歩んできた者同士なのだ。
   
 (たとえ、それが、ずぅっと同居していた相手だとしてもだ。)


自分を、己自身を、いや、正確には 「彼自身」 を、ずうっと生きてきた。
考え方、感じ方が、微妙に、いや、全く異なっていても、これは当然至極
の事なのだ。


弟にしてみても、本当はいやいや、やむを得ず同居しているのだと思う。
なろうことなら、自分一人で、のんびりと、自由奔放に、独立独居した生活
が送りたいと考え続けているに違いない。


私が兄に頼るのと、弟が私に求めてくる事とは、何ら変わるものではない。

しかし、本心を言えば、私自身が頼るのは、兄でも弟でもなく、女房であっ
て欲しかったなと思う。
 

無論、こちらは、彼女自身の 「許容度」 が問題になってくるわけだが。
彼女は、一体、どれだけ頑張ってくれるだろうか?


・・無論、一番残念なことは、これが妄想でしかないことだが・・・。
 ・・・しかし、もしかすると、本当に、妄想で良かったのかもしれない・・・。


~~~~~う~~ん・・・???